旅立ちの日
私は、伊勢志摩のとある離島に生を受けた。
そこは、昔ながらの濃密な近所付き合いと、独特な風習が残っている土地である。
港には小型の漁船がぎっしりと停泊しており、漁師たちは老いも若きも覇気に溢れ、「今日はどうやった」「まあまあやな」などと、怒鳴り合うような荒々しい会話を交わしつつ、水揚げした魚介類を筋骨逞しい腕で漁協の市場へと運ぶ。
海辺の海女小屋では、漁を終えた女たちが賑やかに談笑しながら火にあたっている。その中でもひときわ大声で笑う貫禄たっぷりの海女は祖父の妹で、潜りの名人として名を馳せていた。その大叔母がときどき振る舞ってくれる炭火焼きのサザエやウニの詰め焼きは香ばしく甘くほろ苦く、私はこれをもらえるのが密やかな楽しみだった。
漁を引退した老人たちは、海辺に置かれた椅子に腰掛け、日がな一日のんびりとお喋りに興じていた。そして気まぐれに、私のような幼児の遊び相手になってくれた。
父いわく、私は《フナムシ爺さん》と呼ばれる老爺の後をよくついて回っていたらしい。そのことは、朧気ながら覚えている。保育所に入る前だから、おそらく三歳頃だろうか。我ながら記憶力はよい。
彼は齢八十を優に超えていたと思う。漁港のそこかしこを這い回るフナムシたちを、愛用の杖で一匹一匹潰して回っていた。私はそれが面白くて彼に付き纏っていたのだろう。今考えると罪もない虫が哀れではあるのだが、あの逃げ足の速い奴らをあのご老体が細い杖先で一撃で潰すのには、子ども心に衝撃を受けた。
それにしても。
「海に落ちたらいかんぞ」とだけ言い置いて、杖をついた親戚でもない老爺に三歳児を任せるなど、親や祖父母たちも忙しかったとは言え剛気というか、今の常識では考えられない放置っぷりである。こうして生きて五十路を迎えている今が、奇跡のように思える。
港に面した大通りを一歩入ると、空を覆い隠すように家々が軒を並べる迷路のように入り組んだ路地。大人が二人並んで歩くのは窮屈なほど狭いその小路を、小獣のごとく野性的な子どもたちがじゃれ合いながら駆けてゆく。
都会のような公園などなかったが、島の至るところが私たちの遊び場だった。
潮が満ちると海に沈んでしまう海岸線の岩場を探検したり、山に分け入って野犬を探したり、藪を切り開いて秘密基地を作ったり、木から垂れ下がる蔓をロープ代わりにターザンごっこをしたり。毎日がわくわくする冒険で、海を照らす陽の光のようにきらきらと輝いていたあの頃。
こんな生活が、昭和の後期から平成に移り変わろうとする時代の小さな漁村には、まだあったのだ。
そんなのどかな暮らしが息づくこの島では、前述の通りほとんどの家が漁業を営んでおり、その例に漏れず我が家もまた、代々続く漁師の家だった。
父としては、私が男子だったら跡を継がせたいと思っていたらしい。
そんな父とて、最初から漁師になりたかったわけではない。あまり多くを語らないが、歴史学者か歌手になりたかったのだと、昔聞いた覚えがある。
なぜその夢を追わなかったのかと、少し意地悪な気持ちで父に訊ねたことがある。漁師の長男として生まれた以上、家業を継ぐ他の選択は許されなかったのだと、父は答えた。
(いや、それは自分次第だったんじゃないか……)
当時はそう思ったが、今では父の言い分も少しは理解できる。なぜなら、父と同年代の漁師の家の長男の多くが、中学もしくは高校卒業後に当たり前のように父親の跡を継いでおり、ごく若いうちに家庭を持って、妻と一緒に船に乗っていたからだ。
当時、この辺りの漁師は夫婦で漁に出るのが一般的で、私の両親もまた、同じように二人で漁に出ていた。
母は独身時代、大阪で商売をしていた親戚のもとで下働きをしていたらしい。そのまま都会で暮らすか島に戻って漁師の妻になるべきか……と悩んだすえ、親の勧めに従って、父のもとへと嫁いで来たのだという。
最初こそ家業を継ぐことに消極的な父だったが、こうして家庭を持つことで腹をくくったのだろうか。腕と運次第で一度に大金を得ることができるこの仕事の面白さに気づき、漁師としての自分に自信と誇りを持つに至ったようだ。
しかし、漁師がどんなに魅力的な仕事であったとて、父の子は私を筆頭に女ばかり三人である。
「あんたんとこのお父さんな、子どもが生まれるたんびに女で、えらいガッカリしとったんやぞ」
私は幼い頃、親戚から散々そう言われて育った。
いくらドのつく田舎とはいえ、今はそんな男尊女卑丸出しの発言は誰もしなくなったようだが、当時は、年端もゆかぬ子どもへも悪気なくこんな言葉がぶつけられていたのだ。
男子を生むことは嫁の大切な務めであって、女より男の方が立場が上だという考え方が、島の老若男女にしっかりと根付いていたのだろう。
それゆえ、このデリカシーのない発言を咎める者は誰もいなかった。寧ろからかいの言葉を軽くあしらえないようでは、女子としての器量も愛嬌もないと言わんばかりの雰囲気だった。
幸いにも、当時の私はまだ言葉の意味を深く考えない子どもだったので、そんな心無い発言にもただへらへらと笑っていたのだが、今思えば一番傷ついていたのは母なのかも知れない。
(私が男の子やったら良かったなぁ。そしたら漁師になってお父さんを喜ばせられるのに)
母の気持ちを慮ることなどできなかった当時の私は、常にそう考えて生きていたような気がする。
「婿養子をもろて跡を継いでもええんやぞ」
家族や親戚からたびたび言われるそのセリフを素直に受け止めて、すっかりその気になってもいた。しかし、その素直さも思春期を迎える頃にはすっかり消え失せ、代わりに強い反発心を覚えるようになった。
高校生になると、その反発心はさらに強くなった。(家から通えんくらい遠くの学校に進学して、ひとり暮らしがしたい。婿養子もろて跡を継ぐなんて真っ平ごめんやわ)そう思うようになっていた。
そんな私の心中を知ってか知らずか、両親は進学に反対することはなかった。「今どきのおなごは学がないといかん」そう言って賛成してくれたのは祖母だった。しかし、祖父だけは「おなごがいらん学をつけるとややこしなる」と、難色を示していた。とはいえ、これはなにも祖父が偏屈者だからというわけではない。
高校を出たら就職し、二十代の早いうちに一生添い遂げる相手を見つけること、それこそが女の幸せ。当時の故郷ではそんな旧態依然とした考え方が多数派だったのだ。
私は、その息苦しさに心底嫌気が差していた。
今になって考えると、それもまた一つの幸せの形。どこへ行こうが行くまいが、幸も不幸も自分の心の持ち様だと思うのだが、当時の私はまだほんの子どもであった。高校時代、男の子から交際を申し込まれたことは幾度かあったが、周りの友だちと比べて初心で潔癖な私には、異性との恋愛などただただ恥ずかしくて不純なことに思えた。
そんな自分が結婚など。
想像するだけで背中がぞわぞわした。
とりあえずここから逃げたい。とにかく、誰も私を知らない場所で暮らしたい。
言いようのない焦燥感に駆られていた。
そんな歪な思いを抱えた私を殊の外可愛がってくれていた祖母が亡くなったのは、ちょうど高校の卒業式を終えたばかりの頃だった。
母と交代して病室で付き添いをしていた数日間、
痛みに苦悶の表情を浮かべる痩せこけた祖母の寝顔を見つめながら、真夜中に声を殺して泣いた。
最期は一筋の涙を流して息を引き取った祖母の美しい死に顔を見て、私の気持ちにひとつの区切りがついた。
進学のため、京都へ旅立った日のことは正直あまり覚えていない。しかし、寂しさなど微塵も感じておらず、希望に胸膨らませていたことは確かだ。
この島で暮らすことはもうないだろう。薄っすらとだが、それだけはわかっていた。
ごくありふれた景色だった陽を弾く海のきらめき、打ち寄せる静かな波音、港を出てゆく船の汽笛、カモメの鳴き声、潮の香り、わかめや干物の匂い、馴染みの人々の笑顔、うるさくて眠れやしなかった、酒好きの漁師たちの夜ごとのどんちゃん騒ぎ。この島のすべてが、これを限りと思うとやけに懐かしく、美しく、愛おしく思えた。