肌
4歳から12歳までスイミングスクールに通っていた。室内プールの水は、生温かくて、無駄に青くて、肌にまとわりついてきて、好きだった。
お風呂のお湯と何が違うんだろうか。今考えても正直わからない。強いていうなら汚い。スイミングスクールの水の方が圧倒的に汚い。誰の成分が溶け出しているのか、それがいつのものなのかわかったもんじゃない。しかし、水が作り出す凹凸を光が照らすときのあのテクスチャや、プラスチックみたいな人工的な青さは、お風呂よりもプールの方が圧倒的に上だ。
自分がどうして、ガラスやblenderの上に再現された自然や、ブルースクリーンや、つるりとしたプラスチック製の椅子なんかに惹かれるのかを考えていた。それはおそらくプールの水の記憶に結びついている。プールの水にまつわる記憶は、全てが何も介さずに肌につながる。水が、隙間なくわたしの肌を覆っている。自分と水の温度や揺れが同期されるイメージをする。誰かの指が背中に触れる。ターンする。キックする。息継ぎのたびに顔を上げる。突然身体が軽くなる。冷たい空調の風が肌に触れる。その記憶の全てに自分の肌色とプールの水面のテクスチャがついて回る。つるりとしたにせものみたいな水のテクスチャ。
ガラス、プラスチック、プール、塩素のにおい、それら全てを代表するのが青色で、わたしは無意識にそれを求めている。肌に結びついた水の感触。やわらかく、ぬるついているそれが、肌を舐めるように滑り落ちていく感覚。それがわたしのおもう「うつくしい」に少なからず影響を与えているのは確かだ。つるりとした無機質なテクスチャのなかにどこか官能的な要素を感じるのは、そこがきっとルーツかもしれない。