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宗教や信仰についての雑記 #7

◯自己について

前回、「実在」の遍在について書きましたが、「実在」が至るところに遍在していて、さらには、あらゆる物事に行き渡り、宿っているとしたら、私という一個の人間にも宿っているということになります。
でも、私を含め大多数の人々は、そんな感覚を持ってはいないでしょう。
それはなぜなのでしょう?

エックハルト・トールという人は、「大いなる存在が私とともにある」とか「大いなる存在とひとつである」とかいった感覚を持てないのは、自分の思考をほんとうの自分だと思ってしまうからだと、その著作の中で述べています。つまり、思考はほんとうの自分ではないと言っているようです。
ほんとうの自分とは何なのでしょう?

自分ということを考えて「私は日本人である」と言うとき、「私」や「日本人」という日本語は外部の社会環境から与えられたものです。またその言語に付随する文化や考え方なども環境からのものです。
そして今ある私の人格も、生まれ育った生育環境からの影響を大きく受けており、今もこの先も、出逢う人や事物から影響を受け続けるのです。
また、持って生まれた遺伝的な性格や体質も、両親を直近とする祖先から受け継いだものです。

さらに言えば、この身体を維持するため呼吸し、食事を摂っていますが、身体・空気・食物など、それらを構成する元素は、太古の恒星の中で進行した核融合反応によって生成され、超新星爆発によって撒き散らされたものです。

そう考えると自分とは、物質的にも精神的にも、外部からの様々な要素によって構成されているものだと言えます。
そして自己と他者とは、絶えずそれらの要素をやり取りし続けている動的なものであり、それらの境界は曖昧となってきます。
「私」を縁取る輪郭線はよくよく観てみるとはっきりとした線ではなく、グラデーションをなしているように思えます。
他者が自己に浸透してきて、自己も他者へと浸透してゆく、そんなイメージが湧いてきます。

そう考えてもなお、「自分は自分、他者は他者」という感覚が強く残り、「実在」とともにある、ひとつである、という感覚はなかなか持てないのが実情です。
どうやらそこには、言葉による思考が深く関わっているように思えます。

それについては、やや込み入った話になりそうですので、また次回にしたいと思います。

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