宗教や信仰についての雑記 #101
◯「なぜ私だけが苦しむのか」を読んで⑥
前回、祈ることと生きることとは表裏一体と書きましたが、実際の日常生活の中では、些細なことで落ち込んだり怒ったりしていて、負の感情を抑えて平常心保つことがなかなかできないでいるのが現実だと思います。
そんなことを考えていたとき、ひとつの疑問が湧いてきました。
それは、起きてしまったことにどう応えるのかという問いかけや、不完全な世界を愛するということは要請や命令なのか?ということです。
神は善良な人々に悪いことが起こるのを防ぐことができず、人と共に苦悩しているならば、それは命令というよりも「願い」に近いものなのではないでしょうか。神の慈悲よりかけられ「願い」です。
そして我々がそれにに応えるということには、義務や責任が伴わないとは言えませんが、そのような側面よりも、かけられた願いへの共鳴という側面のほうが大きいような気がします。
それは、我々が他者への憐れみや慈しみを持てるのはそれが先天的なものであり、我々は皆誰もが神からの願いをその存在に織り込まれてこの世に生まれでてくるからだと考えるからです。
祈りとは、勇気や力を与えてもらうことであると同時に、降り注ぐ慈悲の光の反射光でもあるように思います。
慈悲の神が太陽ならば、祈りは月です。ときに月は影に隠れ光を失うけれど、必ず再びその輝きを取り戻して闇を照らします。
我々が日常生活の中でときに平常心を失って、怒ったり落ち込んだりしても、「願い」は絶えず降り注いでいるから、我々は祈りの輝きを決して失うことはないと、そう信じたいです。