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宗教や信仰についての雑記 #282

◯冷淡

私事ですが、私はときどき人から「冷めている」とか「冷たい」とか言われることがあります。自分では意識していないのですが、傍から見るとそんなふうに見えるようなのです。
そこで、この「冷淡」ということは、どういうことなのか少し考えてました。

まず、冷淡であるということは、感情の介入を抑えて物事を客観的に観るための姿勢だと思います。そのようにして、表面的な物事の裏側や根底にある、真実を見極めようとする態度の現れなのでしょう。
それはまた、価値判断の保留ということでもあるでしょう。真実を見極めるまでは、安易に善悪や美醜といった価値判断をせずに、それを一時的に停止することでもあると思います。
そしてその価値判断の保留は、自己制御ということでもあります。
それは、倫理的な行動をとるため自制心をはたらかせ、衝動をコントロールすることだと思います。

一方、冷淡であることは、一種の防衛機制である場合もあります。
辛い経験の記憶や他者から距離を置いて、自分を守るために冷淡になることもあると思います。

このように、冷淡であることは、理知的に行動したり、自分の心を守ったりするためには有効なようです。しかし、そのような姿勢に偏ってしまうと、人格的に何か重要なものが欠けてしまうのではないでしょうか。人間的な温かさのようなものや、心の柔軟性といったものが失われてしまう気がします。

ここで、宗教に関して冷淡ということを考えると、個人的に思い浮かぶのは仏教です。
人生とは即ち苦であり、無我を観じて俗世への執着を捨てなさい、というのは見方によっては非常に冷淡な感じがします。
しかしその一方でお釈迦様は、生きとし生けるものへの慈悲も説いています。
私には、この慈悲の教えは、縁起や無我や空といった仏教の根本的な概念とは直接結びつかないように思えます。まるで2つの教えが並行して存在しているかのようです。
空や無我といった教えばかりだと、冷淡になりすぎるので、それを補正するために慈悲の教えを同時に説いた、私はそんな気がしてなりません。
先ほど私が、冷淡であることについて考えたときに感じた懸念のようなものを、お釈迦様も感じたのかもしれません。

感情に振り回されるのは避けるべきなのでしょうが、あまり冷淡でばかりいると心が硬直化してしまうのかもしれません。
やはり何事もバランスが大事なのでしょう。
ときどき人から「冷めている」とか「冷たい」とか言われることがある私自身も、そのことを肝に銘じておかなければならないようです。

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