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宗教や信仰についての雑記 #269
◯病気の苦しみ
私事ですが、中耳炎か外耳炎にでもなったらしく、耳がひどく痛くてものをあまりよく考えられません。
痛みのせいで自分が今何をしようしていたのか、しばしばど忘れしてしまう有り様です。
世の中には様々な病気に苦しむ人が数多いるようですが、私は幸いにも命に関わるような大病を患ったことはありません。今までかかった大きな病気といえば、網膜剥離と腰椎椎間板ヘルニアくらいです。
苦痛という点では網膜剥離はさほどではなかったのですが、ヘルニアの急性期の激痛は筆舌に尽くしがたく、まともに眠ることも歩くこともできませんでした。
病気になると「なぜこんなに苦しまなければならないのか」などとつい思ってしまうのですが、仏教的に考えれば四苦八苦という言葉があるように、人生には苦しみはつきもので「なぜ」と考えても仕方のないことなのかもしれません。
あるいは、この世に生きる人々の苦しみの総量はあらかじめ決まっていて、人は自分に割り振られた量の苦しみを、その人生を通して背負ってゆかなければならないのかもしれません。
そんな中で自分に降りかかった病気の苦しみは、他の誰かが背負うはずだったたものを、肩代わりしたもので、自分もまた誰かに苦しみを肩代わりしてもらっているのかもしれません。
病気の苦しみとはそのようにして、人と人との間での共感や憐れみや慈しみを育むために、神仏が与えた試練であり、使命であり、願いなのだと考えることが、心の平安のために役立つのではないでしょうか。
無論これは直感的に思ったことで、特に論理的な根拠はありません、それにその肩代わりしている苦しみは、世界全体の苦しみから考えれば砂粒や芥子粒ほどのものでしかないでしょう。そして今、世界中で苦しんでいる人々の前では、そんな理屈は瞬く間に消し飛んでしまうとも思います。
ただ、科学も政治も経済も、世界中の酷い苦しみを取り除くことができていないのが現状で、そんな人間の限界が露呈している中で、宗教的な思考や思想はどのような役割を果たせるのでしょう。
人間は文明を築いて世界を変えてきました。そんな人間の文化は己自身を変えることはできないのでしょうか。ローマ帝国の時代と現代とで、人間自身はどれほど変わったのでしょうか。
耳の痛みに悩まされながら、そんなことをぼんやりと考えました。