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宗教や信仰についての雑記 #276

◯雑音

テレビで様々なデモの映像を見て、ふと、数年前に有事法制反対デモついて、「雑音」と発言した政治家がいたという話を聞いたことを思い出しました。
デモの参加者が10万人いたとしても、衆議院議員総選挙の総有権者数が約一億人とした場合、その参加者数は有権者数の0.1パーセントでしかありません。
その政治家にとってその反対の声が「雑音」だったのはそのためだったのでしょう。

「雑音」を宗教的な観点から観ると、どの宗教でも、その雑音が外的なものでも内的なものでも、座禅や瞑想や祈りなどの妨げになるものと捉えられているようです。

しかし神道では、自然界のあらゆるものに神が宿ると考えられています。そのため、雑音を自然界の音として捉えるならば、風の音、川のせせらぎ、鳥のさえずりといった自然の音は、単なる「雑音」ではなく、神々の声として捉えられる場合があるようです。
また逆に、雷鳴や嵐の音などは、神々の怒りや警告と解釈されることもあり、このような自然界の「雑音」は、神道における祓いの儀式や祈りの対象となる場合があるそうです。
そして禅宗でも、自我を脱落させて、自然の音と一体となる体験を重視することもあるようです。

一方、雑音は雑多な音の混合しているものです。ですから一種の混沌ともみなすこともできると思います。そして世界は混沌から創られたとする神話は世界各地にあります。雑音という混沌の中にも、何か新しいものを生み出すポテンシャルがあるかもしれません。
昔「コンタクト」という小説(映画)がありました。それは宇宙のノイズの中から知的生命体からのメッセージを受け取る、という話でした。

ちなみに、有事法制反対デモを「雑音」と言った政治家はその後、各メディアからの批判を浴びて、その発言を撤回したそうです。

何か取り組んでいることに行き詰まったら、ときには「雑音」に耳を傾けて、その混沌の中に潜むメッセージやポテンシャルを感じてみることも必要なのかもしれません。

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