宗教や信仰についての雑記 #290
◯「暮らす」ということ
先日テレビで、田舎暮らしについてのことを目にしました。そこで何となく、「暮らす」という言葉の語源について気になりました。
「暮らす」という言葉の語源は「日が暮れる」という言葉だそうです。この「日が暮れる」という概念が、次第に「一日を過ごす」「生活する」という意味に広がっていったとのこです。
昔の人々は生活のサイクルを太陽の動きと深く結びつけて考えていたようで、日が昇るときは活動を開始する時間、日が暮れるときは一日の終わる休息の時間とみなしていたようです。
このように、人々の生活は自然のサイクル、特に太陽の動きと密接に関連していたため、「日が暮れる」という言葉が、生活そのものを表す言葉へと変化していったと考えられているそうです。
この語源の説明を見て、ふと「その日暮らし」とい言葉を思い浮かべました。
ところで聖書には、明日のことを思い煩うなと書かれています。その日の労苦はその日に十分にあるというのです。
また、イスラム教徒は人と約束するとき、「神が望まれるならば(インシャアッラー)」と前提をつけることがある、ということを聞いたことがあります。(ただこれは、常に誰との約束でもこの前提をつけるというわけではないそうです。)
これらの姿勢はどこか「その日暮らし」のような考え方に近いものに思われそうですが、どう違うのでしょう。
これらの事柄は無論、計画を立てることや不測の事態に備えること、他者との約束といったことを軽視しているということではありません。
これは人間は有限で不完全なもので、未来をすべて見通せるわけではないという、謙虚さの表れだそうです。
そしてそれと同時に、未来の出来事は全て神の意志によって定められている、また、神が私たちを養い、守ってくれるという、神への信頼・信仰の表れでもあります。
その日暮らしとは、その日の収入で、その日をやっと過ごすこと。また、そのような余裕のない生活。あるいは、目的や理想もなく、毎日を何となく過ごせればそれでいいという生き方とのことです。
そこには未来への展望や信頼がありません。そこが上記の聖書に書かれていることや、イスラム教徒の姿勢と最も異なるところでしょう。
普段何気なく使っている「暮らす」という言葉の内に、このような、何か大いなるものへの信頼・信仰により未来への不安を克服して、今に集中するという意味をも含ませてみてはどうでしょうか。そのほうが日々生きるうえで、少しだけ気が楽になるようにも思えるのです。
いやむしろ、太陽の動きと深く結びついていたこの「暮らす」には、本来そのような意味も含まれていたのかもしれません。
そして現代の社会にとっては、人間の有限性と謙虚さという視点が、最も必要とされるような気がします。