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宗教や信仰についての雑記 #252

◯海岸

先日海岸の映像を見て、補陀落渡海という言葉を思い浮かべました。

補陀落渡海とは、中世の日本で行われていた独特な宗教行為です。観音菩薩の浄土である補陀落山を目指し、海に漕ぎ出すことで、極楽浄土への往生を願うものでした。
補陀落山は南にあると考えられたため、特に中世の熊野や土佐から出発した例が多いそうです。

これは言わば事実上の自殺行為であり、そのためか後には、亡くなった人を海へと送り出す水葬の一種として行われるようになりました。

このような宗教行為が行われていたのは、主に浄土に往生して仏となって、超人的・超越的な力を得ることにより、苦しむ衆生を救おうという動機からなのでしょう。
現代の感覚から観れば全く根拠のない無茶な行為なのでしょうが、科学技術も政治や行政の機構も未発達な時代においては、やむを得ない選択だったのかもしれません。

現代でも尚、科学技術や社会機構は完全ではありませんが、当時と比較すれば格段に発展していると言えるでしょう。
ですから現代においては宗教の役割については、事故や災害、貧困や紛争などの外的な事柄を除外して、原則的に内面的なものに限定してはどうでしょうか。そのような認識が世間に広がれば、科学と宗教との間の不毛な論争や、何やら怪しい霊感商法の類を減らせるように思います。

海岸とは海と陸の境目であり、古来、異なる世界の境界の象徴と観られてきました。
それと同じように、宗教と科学技術や社会機構とが自らの限界を認識しつつ、それぞれの役割を分担し、その境界線の明確化することが肝要ではないでしょうか。
そして、そのようなことが人々の意識に根づくことが、現代の社会には必要であるような気がします。

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