宗教や信仰についての雑記 #4
◯言葉の限界
宗教や信仰に関しての投稿なのに「言葉の限界」というのは、やや唐突な感じがするかもしれません。
でも、宗教は言葉を用いて受け継がれてきたものですから、ここで一度言葉について記しておきたいと思います。
言葉の恣意性ということを何かで読んだことがあります。言葉とそれが指し示す事物との関係は恣意的なものだというのです。
例えばイヌは「犬」「dog」「hund」などと呼ばれますが、その際の「イヌ」「ドッグ」「フント」といった言葉の発音は、イヌという動物そのものとは何ら必然的な関係性はなく、それは恣意的なものであるということだそうです。
つまり言葉と存在との間には必然的関係性はなく、言葉とは世界を分節化して、そこから己の生存のための道具を作り出すための道具なのだとい思います。
それは、カマキリの鎌やライオンの牙のように、進化の過程で身につけた生存のための道具なのです。
でも人間はときに、世界に向けるはずのその道具を自分自身に向けてしまいます。そうして「自分は何のために生きていているのか?」「なぜこんなに苦しまなければならないのか」と、そんな問いを持ってしまうのです。
でもそれは言葉の適用範囲の逸脱で、言葉による論理の限界です。
そんな問いに囚われ続ければ、ハサミで石を切ろうとすれば壊れてしまうように、いずれ自分自身が壊れてしまいます。
そこで何か自分の存在意義や苦悩の意味を知っている何ものかが、きっとどこかにいるに違いないと感じるようになる。
そこに宗教の生じる土台が現れるのでしょう。
でも言葉は恣意的であるため、それぞれの地域や時代からの制約を受けた、不完全なものでもあります。
もし、人知を超えた完全無欠で無限なる何ものかが存在するなら、不完全で有限な人間の操る不完全で限界のある言葉は、その存在のごく一部しか言い表すことはできないはずです。
そのこともまた、今あるそれぞれの宗教が、不完全性を内包している理由の一つでもあると思います。
その不完全性を超える道はあるのでしょうか?