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宗教や信仰についての雑記 #281

◯解像度

先日、テレビで顕微鏡の映像を見て、学生時代に先生が「顕微鏡で重要なのは倍率ではなく解像度だ」と言っていたのを、ふと思い出しました。

光学顕微鏡の解像度とは、どれほど小さなものを区別して見ることができるか、ということなのですが、これは光の波長と密接な関係があります。

光は波としての性質を持っており、小さな障害物に当たると回り込む「回折」という性質があります。この回折現象により、非常に近い2つの点を光学的に分離することが難しくなります。
一般に、光学顕微鏡で区別できる2点間の最小距離(分解能)は、使用している光の波長の半分程度と言われているそうです。

この解像度の限界を克服するため電子顕微鏡が開発されました。電子顕微鏡の登場により、それまでよりも遥かに微細な構造を捉えることができるようになりましたが、これは可視光線の代わりに電子線を用いるため、試料を真空中に置かねばならないので、生きた状態を見ることはできません。

ここで、この「解像度」について宗教的な観点から考えてみると、そこには大別して2つの意味があるように思えます。
一つは、その教義に関する神学的・哲学的な面での解像度です。これを高めれば教義の理論をより精緻化できますが、電子顕微鏡が生きた姿を捉えられないように、人々の生きた姿から乖離してしまう恐れがあるように思えます。

もう一つは、苦しみへの視線の解像度です。人の背負う苦しみは人それぞれで様々です。それはその置かれた状況や性格などが、みな人それぞれだからです。ですからそのような苦しみに寄り添おうとするならば、大雑把に捉えるのではなく、より高い解像度が必要になるでしょう。
そしてこの解像度は高めても、人々の生きた姿から乖離することはありません。なぜなら、苦しみとは人生と密接に結びついたものであり、苦しみのない人生などというものはおよそありえないからです。

でもそう考えると、この解像度はことさら宗教的な場面に限ったものではなく、人が他者とともに生きるものであるならば、どのような場面でも必要になるものなのでしょう。
見方を変えればそれは、意識されない宗教心であり、特定の宗教に限定されない大いなる願いの発露のような気もします。

ただ、その解像度を上げることにより、他者の苦しみの微細な構造に、自分の心が囚われてしまう恐れもあると思います。
観察者も人間である以上限界があります。その点を考慮しながらも、解像度を上げる努力をしてゆきたいと思います。

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