宗教や信仰についての雑記 #361
◯自由とはどのようなことか
前回、輸血拒否やスーパーエロゲーションから、自由とはどのようなことかという問いに言及しました。今回はその続きです。
輸血拒否に類似したこととして、臓器移植法の成立をめぐっても、様々な議論がありました。ごく大雑把に分ければそれらは、生命の尊厳を守るべきとする立場と、犠牲や奉仕、慈悲に基づく臓器提供の意志を尊重すべきとする立場とがあり、その二つが対立していたように思います。
しかし、個人的に今思えば、この法律は臓器提供を義務として強制しておらず、人の死の解釈を脳死に限定してもいません。
言わばこれは、意見や価値観の多様化に対応するために選択肢を増やす措置の一つ、であるように思うのです。
つまり自由とは、現実の個人の状態のみを指す言葉ではありません。現実には完全に自由である人など一人もいません。
自由とは社会の個人に対する眼差しのあり方を指す言葉でもあるのではないでしょうか。
強制や限定はせず、多様な意見や価値観に配慮して様々な選択肢を用意する。そのような社会のあり方、あるいはその実現への努力をも、自由と呼ぶのではないかと思います。
無論、現実には完全に自由である人など一人もいなくても、全く自由がないというわけでもないでしょう。限られた自由の範囲内では個人はそれについては責任を負わなければなりません。しかしそれと同時に、自由を尊重するならば、社会も個人の範囲外の責任を負わなければなりません。
そのようにして自由に伴う責任を個人と社会が共に担ってゆくこと、その負担について個人と社会とのバランスをとるよう、常に考え努力し続けること、その中に真の自由があるのだと思います。
そのような真の自由の内にこそ、スーパーエロゲーションを実現する余地が生まれるのでしょう。
それは多様性を受け入れる寛容さを生み出し、過度の非難や誹謗中傷、さらには暴力による衝突を減らすのではないでしょうか。そんな人間の可能性を信じてみたいのです。
ちなみにエホバの証人は、出血量を少なくするような手術方法、止血剤や貧血を改善する薬剤などを用いる、無輸血治療を勧めているようです。また、人工血液にも強い関心を持っているそうです。
今後の日本では、輸血用血液の不足が懸念されるとのことですが、エホバの証人の輸血拒否の姿勢が、もしかしたらその問題を解決を促進する役割を果たすかもしれません。
もしそれが実現できたなら、それもまた、自由を尊重することの重要さを示す一つの例になるような気がします。