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宗教や信仰についての雑記 #100
◯「なぜ私だけが苦しむのか」を読んで⑤
今回は前回の投稿についての個人的な感想です。
人が不完全な人を愛せるように、不完全な世界をも愛せるのではないか、とのことでしたが、今の世の中には「毒親」という言葉があり、どうしても愛せない親もいます。また、様々な心の病から人を愛することができない人もいます。
そのようなことも含めた不完全な世の中を愛するためには、相当の心の強さが必要だと感じます。
おそらくその強さを与えてくれるのが祈りなのでしょう。そのような祈りとは、世界に存在する良いものや美しいものもに目を向けさせるような祈りとも考えられます。
そう考えるならば、人の心の暖かさだけでなく、音楽や美術や文学、科学や技術やサービスも広い意味での祈りではないかとも思います。
それらを鑑賞したり利用したり知ったりすること、そしてそれらの創造に関わることも祈りのひとつの形であるような気がします。
無論、その関わりの程度は人によって差があり、各々の守備範囲は異なっているでしょうが、我々は皆誰もが常に祈りの内にあるのではないでしょうか。
我々が日常を生きてゆくということは、この世界を愛するに足るもの、信頼するに値するものとすることに参画することでもあるからです。
「いのり」の「い」とは元来「息」を意味していて、それは「いのち」の「い」と語源的には同じものだそうです。
生きるとは祈ること、祈るとは生きること。
その二つは表裏一体で決して切り離すことのできないもの。そんなふうにも感じられるのです。