小説|腐った祝祭 第一章 22
国からの返事は、芳しいものではなかった。
海外旅行に出た娘が、その土地で出会った男と結婚したいというのだから、家族が心配するのは当然だろう。
とにかく一度帰ってきなさいという内容だった。
サトルは仕方ない気はしたが、ナオミを手放す気にもなれなかった。
一時帰国させて、その後ナオミが戻ってきてくれるのか。
それは「心配」というものではなく「不安」だった。
ナオミが戻ってくるつもりでも、家族に引き止められるかもしれない。
それに、向こうでは昔の恋人が待ち受けているだろう。
彼女はそれらを振り切って戻ってこられるのか?
いや、本当の不安はそれでもなかった。
ナオミが帰ってくる気があるのか。
何故かそれを疑ってしまう。
そもそも、戻ってくるのなら行く必要だってないじゃないか。
「ナオミ。君を一人で帰国させるのは嫌だ。もし行くなら、私も一緒の方がいい」
「もちろん、私だってその方が心強いわ。だけど」
「うん。しばらくは都合が悪いんだ。年内はとても無理だ」
二人は公邸の図書室にいた。
窓の外にはちらちらと雪が見えていた。
昼間に降ったのはこの日が初めてだった。
これからますます寒くなっていく。
ルルの冬は短くはない。毎年三月まで雪は残った。
寒くなると二人は図書室に来ることが多かった。
図書室は音楽や映画を鑑賞する設備を整えていた。
まだ頼りない雪を目で追いながら、ナオミの肩を抱き寄せ、額にキスをする。
「こんなに暇なくせにと思われるだろうが、私一人だからね。長期休暇となると簡単にはもらえないんだ」
「ええ。判るわ」
「代わりの人間を派遣してもらわないといけないけど、私は今まで請求したことがないから向こうも驚くだろうな。でも無理ではないよ。ただ時間がかかるだけだ。ルル政府にもお伺いを立てないといけないし」
「そうなの?」
「うん。たぶん外務省から、書類だけでもいいから代理人の審査をしたいと言ってくるだろう。気に入らなければ更に時間がかかる」
「大変なのね」
窓の外を見るのをやめて、ナオミを見つめる。
「外交特権を持たせることになる訳だからね。変な人間に来てもらったら困るんだ。特にルルは諸外国に比べるとちょっと特殊だろう。細かいことに気をつけてくれる人間じゃないと」
ナオミは微笑んだ。
「なんだい、その笑いは?」
「サトルさんは、きっとこの国にはピッタリの人材なのね」
「ははあ、少しバカにしてるな」
「してないわ」
「ふん、いいよ。そうさ、このゆったりとした時間の進み方が私は大好きだ。ガタガタ揺れる馬車だって慣れっこだよ」
「私も馬車は慣れたのよ。あまり喋っていると舌を噛みそうだけど」
サトルは首を傾げて聞く。
「不便だと思わないか?目的地に着くにも時間がかかるし、街中で電話をかけようと思っても、ちゃんと電話ボックスに入ってからじゃないとできない。買い物だって、なんでも揃っている便利な大型店はない」
「今は欲しい物なんかないもの。私はきっと恵まれすぎているんだと思うわ。あなたと一緒にいたら何でも揃えられてるんだから。でもね、思うの。ここで一人暮らしをするとしても、私は楽しいと思う。電気製品がないわけじゃないんだもの。生活は充分便利よ。いくらルルが保守的だ、時代遅れだって言われても、タライで洗濯しているわけじゃないのよ。冷蔵庫も、トースターも、ミキサーもある。パソコンも、局は少ないけどTVもラジオも。音楽だって、自宅で聴くのに何の制限もない。道もお店もお洒落だし、それも1ブロックだけじゃない。町全体、いいえ、国中がこうなんだもの。夕飯の買い物に行くのもきっと楽しいわ。野菜は野菜屋さん。魚は魚屋さん。パンはパン屋さん。文房具は文房具屋さん」
「急に文房具が出てきたぞ」
「ふふ。だけど、もちろんそれは、ちゃんと仕事があっての話なんだけど」
「一人暮らしなんか許さないよ」
ナオミを抱きしめる。
ナオミは耳もとで言う。
「私だってサトルさんと一緒がいいに決まってるでしょう。例えばの話よ。ねえ、小さなお店にあるじゃない?入口の上のぶら下がっている看板。そう、サインボードよ。あれも素敵。デザインがそれぞれ可愛いわ。見ていてちっとも飽きない」
ナオミはサトルの腕を掴まえて、自分から引き剥がす。
名残惜しいが言うことを聞く。
「なに?」
「サトルさん。私も、一人でなら帰りたくない。ここにいたい。私、ここに来て初めて判ったわ。街って、こうあるべきじゃないのかしら?私が今まで生活してきた街は、ただの、建物の集まりよ。車が走るための道の脇に箱を建てただけ。歩行者がビクビクしながら歩かなきゃならない道なんてざらにある街だったわ。センスのない看板やのぼりが歩行者のことを考えずにあちこちにあるの。ゴミは何処を見ても落ちてる。動物を散歩させてる人は他人に気を使わない。歩道を自転車が疾走して、自動車はマナーを守らない。でも結局、全てが人なのよ。汚い街で育って、感覚が麻痺してるのよ。私も、こんな街嫌だって感じてたけど、ちゃんと生きてたわ。半分は麻痺してた。だって、麻痺しなきゃ生きられなかったんだもの。もう、私帰りたくない」
「君の言いたいことは判るけど、君が帰りたくない理由はそれだけかい?私は愛されているかな?」
「愛してるわ」
「安心した」
言ってキスをすると、ナオミは少し落ち着いたようだった。
「ごめんなさい。興奮しちゃった。バカみたいね」
「ううん。私も同じだ。気持ちは判るよ。私はルルの文化に感謝しないといけないね。この街がこうでなければ、もしかしたら君は……」
「違うの。ごめんなさい。私、あなたが好きよ」
「うん。判ってる」
でも、君の情熱は、街の話をする時の方に強くそそがれているように感じた。
「じゃあ、ご両親には粘り強く手紙を書こう。そうだ、今度は写真も送ろう。私はなるだけ人が好く写るように努力しなきゃね」
「大丈夫よ。あなたはきっと写真写りだって良いと思う」
「よし、じゃあ、明日クラウルに頼もうかな。明日は晴れる予報だったから。ナオミ、これから買い物に行かないか?雪も降り始めたことだし、コートを買いに行こう」
「あ!」
「なに?」
「クロゼット見たのよ。物凄い量の服が入ってたわ。恥ずかしくて着られそうにないドレスも」
「ああ。宣伝になるから着てくれって店が送ってきたんだよ。気に入らないなら送り返せばいいさ」
「コートも入ってたと思う」
「いいじゃないか。自分で選んだ方が楽しいから。さあ、行こう」
サトルはナオミの手を引っ張って部屋を出た。
顔には出さなかったが、気分は少し沈んでいた。
ナオミの反応が気になっていた。
胸の隅に、小さな赤い錆のようにそれは張り付いていた。
それは、まだナオミがルルの貧民街を目にしていないせいなのか。
ルルへの嫉妬なのか。
考えるべきだったかもしれない。
しかしサトルは考えるのをやめ、恋人とのショッピングを楽しむためだけに街へ出かけた。
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