小説|青い目と月の湖 21
二人が帰り、夕食の準備にとりかかろうとキッチンに入ったところで、玄関のドアがノックされた。
鳩を使わず直接仕事の依頼に誰かが来たのかと思い、クロードは急いだ。
途中で二人を見られなかっただろうかと不安になった。
ドアを勢いよく開けると、その向こうにいたのはマリエルだった。
クロードは拍子抜けして、思わず微笑む。
「どうしたんだい?」
彼女の後ろに目をやったが、ハンスはいなかった。
マリエルは言った。
「あの、先刻、お台所に入った時、ハンカチを置き忘れたんじゃないかと思って」
「おや。見てこよう。ああ、とりあえず、お入りなさい」
クロードはマリエルを中に入れ、ドアを閉めると改めてキッチンに入った。
ざっと見渡すと、確かに窓枠に白いレースのハンカチが置いてあった。
どうしてこんな所に置き忘れたのだろうかと思いながら手に取り、振り返ると、入口にマリエルが立っていた。
「あったよ。これだね?」
「ええ。ありがとう。ごめんなさい、うっかりしていたわ」
「構わないよ。ハンスはもう帰ったのかな?」
「ええ。別れた後で気付いたから」
マリエルは受け取ったハンカチを上着のポケットにしまうと、俯いたままでその場を離れなかった。
クロードは何か話しかけた方がいいのだろうと思い、言った。
「君はいつも綺麗な服を着ているね。そういった服も例の岩の上に置いてあるのかい?」
「ええ、そういう時もあるけれど、この服は母のです。衣裳部屋に服は沢山あるけれど、新しい服はあまりないの」
「そう。それじゃあ、代々受け継がれた服があるんだね」
「ええ。もの凄く古いドレスもあるの。舞踏会にでも行かなきゃいけないようなものよ。綺麗だけど、着る機会なんかないの。私でも判るくらい古いデザインだし、生地が傷んでるものあるし。もし着て見せたら、仮装してると思われちゃうわ。だけど、今着てる服だって、きっと時代遅れね」
「いや。なかなか上品で可愛らしいワンピースだ。似合っているよ。散歩には勿体無いようだけど」
「でも、こういうのしかないから」
「そう。でもそうなると、君は驚くほど沢山の服を持っていることになるね。子供の頃からサイズが揃っていないといけないんだから」
「ええ。赤ちゃんの服もあるし、乳母車もあるわ。靴も、ほんの小さなものから、あなただって履けそうな大きなサイズもあるの。もちろん女物の靴よ」
マリエルは可笑しそうに笑い、クロードも笑った。
「どれくらい大きくなるか判らないからね」
「ええ。私は多分、これ以上大きくなりそうにないけど」
「どうかな?身長はもう少し伸びるかもしれないよ」
「そうかしら?もう子供じゃないのよ」
「二十歳くらいになっても伸びることはあるんだよ」
クロードはマリエルの背に手をあて、居間に促がし歩いた。
「帰りは一人で大丈夫かい?ハンスに二人で遊びにおいでとは言ったが、こう度々じゃ君も疲れるだろうね」
「そんなことないわ。私も楽しいの」
「それならいいが、気を付けることは忘れないように。残念ながら、村からすればやはり君は魔女だから」
「私、魔女と言われるのを嫌だとは思わないのよ。魔女じゃないという方が、変な感じなの」
「そうか。まあ、魔女だろうが何であろうが、私にとっては大した問題じゃないんだけどね。さて、お望みなら、好きな所まで送っていこうか?」
「いいの?」
「もちろん」
マリエルは微笑んでクロードを見上げたが、その申し出は断わった。
「あなたと一緒にいるところを見られるのも、きっと困るでしょう。それこそ、村を追い出されるかも」
「気を使ってくれてありがとう。でも、本当に遠慮はいらないよ。人の気配には注意するし、ハンスのように普通の道を通らなければいいんだから」
「そうね。ありがとう。でも、いいの。あの……クロード」
二人は玄関ドアの前で向かい合っていた。
「なんだい」
「私、時々、遊びに来てもいいかしら」
「え?」
「ここに」
一瞬、意味が判らなかった。
マリエルは今でも、週に一度はハンスと一緒に遊びに来ている。
クロードが黙ったままでいると、マリエルは心なしか不安な表情になり、言葉を続けた。
「一人で」
クロードは急に手持ち無沙汰を感じ、とりあえず腕組みをした。
それでも足りずに、左手の指で軽く自分の顎をつまんだ。
そしてなおも黙っていた。
マリエルはそのうちに、いたたまれないといった表情になった。
「あの、私、帰ります」
ごめんなさいと、ドアの取っ手に手をかける。
クロードは慌てて、その手を押さえた。
「待ちなさい」
そう言って取った手を引くと、立っているのも辛いといった様子でマリエルが顔を上げた。
潤んだ瞳を見て、クロードははっきりと理解できた。
なんてことだ。
マリエルは、私を。
「なんでもないの。本当に。手を、離して」
マリエルは美しい娘だった。
ハンスが魔物に取り込まれないように注意するばかりで、マリエルを女として見てはいなかった。
ハンスが湖の望み通りの青年に成長するまでにまだ何年かの猶予がある。
その間にマリエルをあの湖から引き離すことだけを考えていたのだ。
しかし、そんな自分を愚かしく思うほど確かに美しい娘だった。
こう間近に見ると、その澄んだ瞳に吸い込まれそうだ。
「君の目は、宇宙の色をしている」
見つめるうちに、思わずそう呟いていた。
クロードは首を振った。
そのセリフは限りなく誘惑に近かった。
何を言っているんだと自分を叱責し、マリエルの手を離した。
マリエルはその対処に戸惑っていた。
当たり前だ。
一つ呼吸をし、自分を落ち着かせる。
「すまない、マリエル。少し驚いてしまった」
マリエルの唇は「いいえ」と動いたが、声は出ない。
「その、来てくれて構わないよ。ハンスと一緒でも、君一人でも、私は歓迎する。しかし、できれば二人の方がいいんじゃないかな。君はハンスの友人だから、もし君が一人でここに来ることをハンスが知ったら、彼は少し淋しく感じるような気がするよ。判るかな?友達付き合いというのはそういうものだよ。特に子供の頃はね。ハンスが疎外感を感じるようなことは、私はしたくないんだ。君にとって私たちは初めての友達だから、そういう感覚が判らないかもしれないが」
「……いいえ。判ります」
「そう。君は物語をよく読んでいるから、きっとそういう機微も理解できるんだね」
「おかしなことを言って、ごめんなさい」
「いや、いいんだ」
マリエルは力なくドアの方を向いた。
クロードはドアを開けてやった。
「しかし、マリエル。君に何か、ハンスの前では言いにくい相談事でもあるのだったら、今私が言ったことは気にしなくてもいいよ。困ったことや、緊急を要することがあれば、ここに君一人で来ることに問題はないから」
「ええ。ありがとう」
「じゃあ、気を付けて」
「さようなら」
クロードはマリエルを見送ったが、その姿が完全に見えなくなる前にドアを閉めた。
ドアを背にして深呼吸をし、額を手で覆う。
彼女がもし一人でここに来たら、私はどうすればいい。
これまでは平気だったろう。
だが一度意識してしまった今となっては。
マリエルがあれほど若くなく、既に大人の女性であったなら、きっとこんな可能性もすぐに頭に浮かんでいた筈だ。
可能性だと?
しかし、どうして私なんかを。
彼女は知らない。
孤立した生活のせいで世間を知らない。
魔術師が世の中でどんな扱いを受けているのか。
私が彼女を受け入れてどうなる?
彼女を不幸にするだけだ。
望みがあるとすれば、あの湖から離れられるかも知れないという一点だけだ。
それも儚い望みじゃないか。
離れたところで、離れなければ良かったという不幸が待っているかも知れないのだから。
それを覆すほどの力が、私にあるのか?
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