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小説|青い目と月の湖 6
ロディーと喧嘩になったのは、ジョーンズの葬儀が終わった二日後のことだった。
悪魔のために食べ物を運んでやるなど許せないと、ロディーがハンスに絡んできたのだ。
「痛っ!」
ハンスは擦りむいた腕に消毒液を塗られ、悲鳴を上げた。
「これくらい、何言ってるの」
「だって、痛いんだもん」
母親はあきれたように溜め息をついて、再びピンセットで摘まんだ脱脂綿をハンスの赤い傷に当てた。
「だったら、もう喧嘩なんかしないの」
「ロディーが悪いんだ」
「そうかしら?」
「そうだよ」
「さーあ。お母さんは見てた訳じゃないから判らないけど」
「自分の子供の言うことを信じないの?」
「あら、言うわねえ」
エレンは消毒を終えると絆創膏を張って、そこをパチンと軽く叩いた。
「痛いって!」
「はいはい。じゃあ、おやつを持ってくるわね」
「痛いって言ってるのに……」
恨みがましく見つめるハンスの頭を一撫でして、エレンはソファーから立ち上がり、救急箱を持ってキッチンに消えた。
隣に座っていたハンスはふて腐れてそのままゴロンと横になった。
ベージュのペンキで塗られた天井板の継ぎ目の数を、窓側から意味もなく数えていく。
居間にキッチン、二つの寝室と、決して広くはないが、日当たりのいい家だった。
壁や床の色もベージュあるいはオフホワイトで、外光を受けてさらに明るい雰囲気になっている。
家の中の家具はほとんど父親の手によるものだった。
ハンスが寝ているソファーも、その前のテーブルも、向かい側の肘掛け椅子も。
ロディーは判ってない。
クロードは医者じゃないんだ。
原因が魔物じゃないなら、助けられる訳ないじゃないか。
それなのに。
香ばしく甘い匂いに釣られてハンスは体を起こした。
エレンが皿の上に油取り用の紙を敷いて、その上に揚げ菓子を盛って運んできてくれた。
「やった。ドーナツだ」
「揚げ菓子よ」
エレンはハンスの隣に腰掛けると、一つを手にとって見せた。
「ほら」
確かに環状になってはいない。
「いいんだよ、べつに。ようは同じでしょ?」
ハンスはパクパクと食べ始め、エレンは微笑んで、それを小さくちぎって食べた。
「でも、クロードは悪魔じゃないもん」
話しが元に戻り、エレンは軽くかぶりを振った。
確かにそうかも知れない。
しかし、人が彼をそう呼ぶことを理解もしていた。
人々は彼が怖いのだ。
魔物を見ることができる彼を恐れ、疑っている。
魔物を退治できるものなら、やってみろと思っている。
その機会を与えても、彼は完全にそれに応えることはできない。
何故なら魔物が原因でない場合、彼にはどうしようもないから。
でも、それが普通の人間に判るだろうか?
助かったり、助からなかったり。
彼に言わせれば、魔物が付いている場合とそうでない場合。
でも、普通人には判らない。
助かる助からないは、単なる偶然にしか見えない。
「ジョーンズさんは仕方なかったんだ。病気だったんだから」
「ハンス。ロディーにあまり突っかかっては駄目よ」
「だって」
「判ってるでしょう?彼は今、とても辛いのよ」
「でも、クロードは」
「クロードは大人だし、自分の立場が判ってるわ。ロディーに何と言われようと、我慢することができる。あなたの場合もそうだったでしょう?あなただって初めはクロードを恨んでいたじゃない。でも、今は彼を理解している」
この子は彼を理解できた。
どうしてだろう?
エレンの目に陰りが現われた。
私は理解できない。
彼が本当に魔術師なのか。
もし本当に超常的な力を持っているのだったら、ロバートを助けて欲しかった。
私だって、助けて欲しかった。
「僕は……。だって、父さんは事故だったじゃないか。製材所にいい木がなかったからって、自分で森に入って」
そして崖から転落した。
三日の昏睡状態を経た後に結局は死んでしまった。
エレンは揚げ菓子を皿に戻し、膝の上のハンカチで手を拭いた。
でも、誰に判ると言うのだろう。
その昏睡状態が、魔物の仕業ではないと。
私は助けて欲しかった。
ロバートの目を覚まさせて欲しかった。
でも、彼にはそれができなかった。
何のための魔法使いだろうと、私もその時思ったのだ。
何のために村は彼を養っているのだろうと。
そして、きっと今でも、心の奥ではそう思っている。
「ロディーを、責めては駄目よ」
「……判ってる。別に責めるつもりなんかないんだ。ただ、判って欲しいんだ。クロードは悪人じゃないんだよ。悪魔でも詐欺師でもないんだよ」
私には一瞬、悪魔に見えた。
森で重傷を負って倒れているロバートを発見したのは、他でもないクロードだった。
彼はロバートを背負い、森を歩いた。
ロバートはクロードよりもずっと体格のいい男だ。
身長はさほど変わらないにしても、逞しい筋肉の量は本人も自慢だったくらいだ。
森の途中で村人を見つけ、診療所へはそこから台車を使うことができたが、それまでの道のりはクロード一人だった。
それだけでも大変だったろうと思う。
感謝したいと思う。
しかし、ロバートを助けることはできなかった。
診療所のベッドで死んだように眠るロバートを挟んで、エレンは哀願するようにクロードを見つめた。
黒い服を着ていた彼は言った。
「私に出来る事は、もうありません」
その時、彼が黒衣の悪魔に見えた。
エレンには彼が「ロバートはもう死ぬ」と、言ったように聞こえた。
そして、死んだ。
「母さん?」
気付くと、ハンスが心配そうに見上げていた。
エレンは慌てて瞬きを繰り返し、昔の映像を頭から追い払った。
「とにかく、ロディーと仲直りしなくちゃいけないわね」
「すぐには無理だよ」
「そうね。でも、いつか仲直りしなきゃ」
「判ってくれるかな、ロディー」
「あなたも判らなくちゃいけないわ。ロディーの気持ちを」
「でも」
「いい?ロディーは友達でしょう?」
「クロードだって友達だよ」
「彼はいいの」
「母さん」
「いいのよ、クロードのことは。彼はそのうち、この村を出て行く人だわ」
ハンスは目を大きく開いて、エレンを見つめた。
「母さんは、母さんも、クロードが嫌いなんだ」
「ハンス、私は」
「どうして?クロードは村の人を助けてるじゃないか。マシューさんもボビーもフランツも、助けてくれたじゃないか?どうして信じないの?」
「ハンス、お願い、大きな声を出さないで。私は、皆の気持ちも判ると言ってるのよ」
「僕には判らないよ!」
ハンスは立ち上がると、揚げ菓子を睨み付けた。
そして、紙で菓子を包み始めた。
「ハンス、何処に行く気なの?」
「悪魔の住む森だよ」
そう言うと、ハンスは玄関に向かった。
エレンは立ち上がる。
「今からじゃもう遅いわ」
「夜になったら泊まる」
「待ちなさい」
「僕が帰ってこなかったら、クロードを悪魔って言えばいい」
「ハンス」
「それで気が済むんなら!」
「北は駄目よ。北の森に入っちゃ駄目よ」
「判ってるよ!」
ドアが勢いよく、刺々しい音を立てて閉まった。
エレンはどっと疲れを感じて、ソファーに座り込んだ。
そして、ハンスがあまりにもクロードに肩入れしていることに不安を覚えた。
あの子は大丈夫だろうか?
クロードはきっと、あの子の言う通りの人物なのだろう。
無愛想で、冷酷に見えても、本当はユーモアがあって、優しい人間なのだろう。
それならそれでいいし、そうあって欲しい。
しかし、信じ過ぎるのは決して、ハンスにとっていい事ではないような気がした。
クロードはいずれこの村を出て行くに違いない。
今までの魔術師達がそうであったように。
もし彼が出て行ったとすれば、ハンスはどうなるだろう?
魔術師だからといって、ハンスの見ているクロードのような人間ばかりではないのだ。
中には狡猾な人間もいる。
そんな噂は他所の村から幾らでも流れてくる。
クロードの思い出が強過ぎて、全ての魔術師に好意を抱くようになったら、盲目的に信頼するようになったら……。
エレンは顔を両手で覆い、一息つくと、テーブルの上に転がり落ちた揚げ菓子を皿に戻していった。
ロバート。
あの子を見守っていてね。
ハンスは優しい子よ。
悪魔のような人間に利用されないように、ずっと見守っていて。