小説|腐った祝祭 第一章 36
本国から嬉しい通知が来たのは、それから程なくした風の強い日だった。
吉報とは言え、それは仕事に関するものだ。
サトルはクラウルに辞令を渡す。
クラウルは首をすくめる。
「残念ながら、これを読めるほど閣下の国の言葉を覚えられていません」
「少しは判るだろう?」
「ええ、まあ」
クラウルはしかめっ面で書面を読んだ。
「延期ですか?」
「そうだよ」
サトルは立ち上がり、笑いながら書類をクラウルから取り返す。
窓の前に立ち、庭を眺める。
外は吹雪だった。
ひ弱な雰囲気のライラックが寒そうに揺れている。
サトルは窓枠に手をついて、外を見たまま言った。
「赴任期間二年の延長だ。よかった。安心したよ」
微笑みをクラウルに向ける。
「またしばらく世話になるよ。残念だったな、私から解放されなくて」
「何をおっしゃいますやら。私だってほっとしておりますよ」
「へえ、めずらしく可愛いことを言ってくれる」
辞令の入った封筒には他にも書類が幾つか入っていた。
特に一枚は重要なものだった。
サトルは窓枠に寄りかかりそれを読む。
「ふうん、これは嬉しいね。オルバラ伯爵が口添えしてくれたらしい。大使は実に優秀で、我が国への貢献度は高く、それを失うはルル王国にとっても大いなる損失である。って、それは言い過ぎでしょう」
サトルは笑いながら書面をブツブツと読んでいた。
それから少し慌てて他の郵便物を探り、宮廷からの書類を見つけると開封してそれを読む。
あきれた声を出した。
「いやあ、まったく驚いたね」
「どうされました?」
「これも辞令みたいなもんだ。今すぐって訳じゃないが……そうか。卿の告別式を終えて、時機を見てだってさ。困ったな」
「なんです?」
「宮廷審議会にかけられるようだ」
「えっ!な、何をされたんですか?閣下!」
目を剥くクラウルに、書類を読みながら軽く手を振る。
「落ち着けよ。吊るし上げられるんじゃないって。私に爵位を授与するかどうかの審議があるそうだ」
「えーっ!」
クラウルは本来の理由で再び驚いた。
「君は面白いな」
サトルは呟いて書面を読み続ける。
クラウルは取り乱した自分を恥じて、口に手をあてた。
少しは落ち着いたようだった。
「参ったな……。クラウル、どうやったら角を立てずに辞退できると思う?」
クラウルは興奮しないように注意しながら言う。
声がやたらと低くなっていた。
「何故、辞退などと?こんな名誉なことはございませんよ。外国人に爵位を与えるなんて異例のことです」
「爵位をもらうってことは、貴族院に入るってことだよ。単純な称号じゃないんだ。面倒じゃないか。あれは月例会議もあるんだぞ。報奨金や勲章なら幾らもらっても楽しいけど、爵位はな……」
「閣下、なんて怖ろしいことを」
「それにがらじゃないよ。この私が貴族だって?ルルほど上品な人間が揃ってる貴族界も珍しいって言うのにさ。バカバカしい。まあ、いい。殿下に相談してみよう」
クラウルは納得いかない様子のまま書類の整理を始めた。
サトルは時々渋い顔をしながら書面を最後まで読んでいく。
そして、不意に顔を上げてクラウルに聞く。
「君がほっとしてるのは、きっと私だけが原因じゃないんだろうね。ナオミが悲しまなくてすむから、でもあるんだ」
急に話が戻ってクラウルは面食らっていたが、しばらく考え込んで、それを認めた。
「そうでございますね。それに、ナオミ様とお別れするのも悲しいですし」
「私では惜別をそそるには役不足か」
「そうは申しておりません」
「ありがとう。ほっとしたよ。みんなにも伝えておいてくれ。辞めたい人間や、結婚の予定がある者がいないかも一緒に聞いておいてくれ」
大使館で働く者の中で、既婚者はシェフのジョエルとその助手二人、クラウルの部下一人の合計四人だけだった。
彼らは通いでこの大使館に出勤している。他は全て住み込みだ。
部屋は独りの個室ばかりとは限らないし、それは強制ではないのだが、使用人達はその生活に満足している様子だった。
住居が確保できているというのは厚待遇のうちなのだ。
クラウルと女中とまかないの料理人二人は公邸に、それ以外は本館の部屋を使っていた。
「承知しました」
その夜、ナオミにルルへの滞在が延期になったこと、本当は転勤の可能性もあったことなどを話すかどうか考えていた。
サトルが奇行に走った日から、ナオミはサトルの言うことを聞いていた。
約束した時間に遅れることなく帰宅したし、サトルが帰って来た時には出来るだけ家にいるようにしてくれていた。
ベッドの上でナオミの髪を撫でながら、伝える程のものではないと判断する。
せっかく仲良くやっているのだから、余計なことは言わない方がいいだろう。結果は良かったのだ。
ナオミが腕を伸ばし、サトルの右腕を触る。
二の腕の外側をそっと撫ぜて言った。
「これは何?」
「ん?」
サトルはナオミがなぞる部分に目をやった。
「前から思ってたの」
そこには十センチほどの長さの傷痕があった。
周りの皮膚よりも少し白っぽいだけの、気にもならないかすかな線だ。
「ああ、子供の頃のだよ」
「痛かった?」
「さあ、もう覚えてないな」
サトルは微笑んだ。
「ずいぶん昔のことだから」
「そう」
ナオミとの仲は上手くいっていた。
吹雪で外に出るのが億劫な日は二人で映画を見たり、天候が落ち着けば寝台列車で小旅行に出かけることもあった。
ナオミの乗馬の練習に付き合うこともあった。
今まで経験のなかったこともやった。
ジョエルを師匠にナオミと二人でケーキを作ったのだ。
腕のいい師匠のお陰もあって、美味しいケーキが完成し、手の空いている使用人たちを本館の食堂に集めてお茶会を開いた。
翌日、参加できなかった使用人たちから不満の声が上がったので、後日サトルはナオミと一緒に再びケーキを作り、お茶会を開く事になった。
ケーキを作ったこともだが、使用人たちとあんな風に時を過ごしたのも初めてだった。
ナオミはとても楽しそうだった。
もちろんサトルも楽しかった。
パーティーにはほとんど二人で出席した。
賑やかな場になかなか顔を出さないオルバラ伯にもナオミを紹介できた。
グリーン卿の思いがけない逝去のため、婚約披露パーティーをしないと決めた事に、ひどく同情してくれた。四月の挙式には是非招待してくれとも言われた。
サトルが仕事の時、ナオミがセアラたちと出かけることも無くなりはしなかった。
サトルが、わざわざこんな日に出かけなくとも、と思うような風の強い日でも、ナオミは行くと決めた日には出かけた。
サトルは執務室を出て、玄関でナオミを見送る。
「別に、無理して出かけなくてもいいんだよ。退屈なら執務室にいて、私の話し相手になってくれよ。年中クラウル相手に仕事をしてるんだ。時々つまらなくなる」
「だって、無理してるんじゃないもの」
笑うナオミの首に、サトルはファーを巻きつける。
食べられてしまったウサギの、リアルなマフラーだった。
「本当に?私があんまり煩いことを言うから、仕方なく予定通りに進めてるんじゃないのかい?」
「そんな事ないわ。嫌だったら出かけない。ねえ、こんな日の街だって綺麗なのよ。サトルさんはもやしっ子だから知らないんでしょう?」
「なんだと?私はそんなにひ弱じゃないぞ」
「あら、私はそんな健康野菜が大好きよ」
ナオミにキスされて会話は終わった。
「気をつけるんだよ」
「ええ。リックがいるから平気。何かお土産を買ってきてあげるわ。いい子で待っててね。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その日の土産は亜麻布と刺繍糸だった。
ナオミは夕食をすますと、不思議そうな顔のサトルの前で刺繍を始めた。
一つにはヒイラギのぎざぎざの葉と赤い実を作り、もう一つにはイチイの線形の葉と赤い実を作った。
器用に刺繍を続けるナオミに、サトルは読んでいる本から顔を上げ、時々声をかける。
「イチイの種には毒があるんだぞ」
「そうなの?知らなかった。それじゃあ、これはサトルさん用ね」
「どういうこと?」
縫い物をする女をゆっくり眺めるなど初めてのことだった。
それは実に穏やかな感覚だった。
食後のゆったりとした時間に、紅茶やコーヒーとサトルを傍に従え、ナオミは一週間ほどでそれを完成させた。
出来上がったものは枕カバーだった。
「手作りの枕カバーなんて初めてだよ」
ナオミの枕カバーは一日使うと次に戻ってくるのは三日後だった。
サトルは三日おきのその日が待ち遠しいくらいだった。
素朴な風合いだったが、何となくいつもより熟睡できる気がした。