小説|梅の花一輪
最後のはなむけ
沖田が山南に追いついたのは、京から大して距離のない大津だ。
「やんなっちゃうなあ、もう」
弱り顔で沖田は、山南を睨んだ。
山南は鼻で笑って、手に持っていた笠で沖田の顔を扇いだ。
「まだ二月だというのに、そんなに汗をかいて」
「山南さんが止まってくれないからでしょう?何度も呼んでるのに、知らん顔して。ああ、疲れた」
沖田は手拭いを取り出して、額の汗を拭いた。
疲れはしている様だが、既に呼吸は整っていた。
「急に出て行くんだもん、みんなびっくりしてますよ」
「そうか。とりあえずその辺に座ろうか。お前、病み上がりじゃないか」
「お互い様でしょう。自分だって去年の今頃はヒーヒー言って布団から出られなかったくせに」
コツンと、山南は笠の縁で沖田の額を小突いた。
沖田はそれを擦りながら、道の隅に移動する。
二人はちょうど良い大きさの石を見つけて腰掛けた。
「お前を寄こしたか」
「え?」
「土方が行けと言ったのか」
「ああ、ええ。そうですよ。一緒に帰りましょう。皆心配して待ってるんですよ。総長の山南さんがいなくてどうするんですか」
「総長なんて、名前だけの役じゃないか」
「そんな事ないですよ。そうだ、手紙預ってきたんだった」
沖田はごそごそと懐から折り畳まれた紙を引っ張り出した。
「はい。土方さんからです」
「なんだ?」
「知りませんよ。見るなって言われたから」
山南は多少面倒に思いながら、手紙を受け取った。
沖田は話を続ける。
「山南さんの気持ちが判らない訳じゃないですよ。僕たちが尊王攘夷と言ったところで、もう誰も信じてくれないもの。でも実際、近藤さんだって山南さんだって尊王の気持ちは変わらないでしょう。池田屋の時だって、新選組はやるべき事をやっただけです。御所に火をつけようなんて、とんでもないですよ。それを防いだ僕たちは悪者ですか?人斬りと言われようが狼と言われようが、京を守らなきゃいけない。それが僕たちの仕事なんだから」
「総司」
「はい」
「一緒に江戸に帰るか」
「は?何言ってんですか」
「お前は養生した方がいいよ。大人しくしていれば、今以上に悪くなる事はあるまい」
沖田はむっと口を歪めた。
「嫌ですよ。人を重病人みたいに言うのはやめてください」
「今みたいな仕事を続けていれば、その内そうなるかも知れん」
「平気です。こんな事で帰ってたら、恥ずかしくて江戸じゃ暮らせませんよ」
「そんな事はない」
「嫌です。皆が命がけで走り回ってるのに、僕だけ呑気に布団に入って、ご飯食べたり猫と遊んだり厠へ行ったりする時だけそこから出るんですか?バカみたい。そんなじっとしてられる訳ないでしょう。それに、家は貧乏だったけど、それでも僕は白川藩士の子ですよ。農家に生まれたあの二人があんなに頑張ってるのに、僕が帰る訳には行きませんよ」
「そうか。どうしても嫌か」
「嫌です。そんなに帰りたいんなら、山南さん一人で帰って下さい。明里さんのことは僕が引き受けますから」
山南は笑い出した。
明里は山南の馴染みの遊女の名だ。
「お前がそんなこと言うなんて、似合わないよ」
「ふん。近藤さんに取られるよりいいでしょう」
「まあ、それはそうだ。あの助平には絶対にやれんよ。お前に頼む方が余程安心だ。うん。じゃあ、総司に頼むとしようかな」
沖田は急に不安な表情になって、山南の顔を覗いた。
「本当に帰っちゃうんですか?」
「心配しなくても、明里はお前みたいな子供は相手にしないだろう」
「また子ども扱いする!それに、僕が言ってるのはそう言うんじゃなくて」
「判ってる」
山南は優しく微笑みながら立ち上がった。
沖田も慌ててそれに続いた。
「一緒に帰ろう」
「どっちへ?」
「京へ」
「よかった!」
「お前一人を帰す訳には行かないだろう。……途中で血を吐かれたら困るからな」
「だから、そういう心配は余計ですって。まったくもう」
二人は都の方角へ、並んで足を向けた。
「何処かで何か食べよう。ここまで来た褒美に奢ってやるよ」
「わーい。あ、さっきの手紙、何が書いてあったんですか?」
「大したことじゃない」
「付文ですか。気持ち悪いなあ」
沖田は再び頭を小突かれ、からからと笑った。
土方からの手紙には、大したことが書かれてあった。
沖田を連れて江戸に帰れというのだ。
山南は隣の沖田に目を向けた。
市ヶ谷にある近藤の道場、試衛館を訪れた時、沖田はまだ十代だったが既に天然理心流の免許皆伝を受けていた。
上洛して実戦を重ね、更にその腕は磨かれている。
それでも、出会った頃のあどけなさは今も変わっていなかった。
殺伐とした京にあって、素直で優しい本来の性質を崩さないのは、沖田の心の強さの現われだろう。
「総司」
「はい?」
「あの頃は楽しかったな」
「あの頃って、試衛館にいた頃のことですか?」
「ああ。今考えれば、あの頃が一番楽しかった。近藤さんも、もっと快楽な男だった」
「まあ、あの頃と今とでは事情が違いますから。あの頃は呑気でしたね、僕たち。僕は剣術さえしてればそれで満足だったもの。そう言えば、山南さんともよく出稽古に行きましたね」
「そうだな」
「楽しかったなあ」
山南が自分を見ているのに気付いて、沖田は聞いた。
「何ですか?何か付いてます?」
そう言って、肩を払ったり、袂を振ったりする。
「いや。お前、また背が伸びたんじゃないか?」
沖田はぷっと膨れた。
「だから、人を子供みたいに言わないで下さいよ」
「子供じゃないか」
「もう!幾つだと思ってんですか!」
山南は笑い、沖田は子供のように喚いた。
途中川を見つけると、山南は土方の手紙を千切って流した。
手紙にはこんなことも書かれてあった。
己が法令を犯したこと、忘るるべからず。
戻れば切腹という訳だ。
自分に隊規を適用しようというのだ。
今まで脱走の罪で切腹を申し渡された者など一人もいない。
それを総長である自分に、だ。
土方に対して、少しずつ反抗心が芽生えてきた。
沖田を江戸に連れて行けそうにないし、帰りたがらないその気持ちも判る。
ならば、みすみす京に戻ってやろうじゃないか。
近藤も土方も、自分が戻れば幾らかは動揺するだろう。
親切にこんな手紙を寄越したのだから当然だ。
その内心を面に出す事はないだろうが。
それに、規律を重んじる新選組に、自分はそれなりに役に立ちそうだった。
これから先、隊はますます厳しく身を引き締めなければならなくなるだろう。
新選組は様々な人間の寄せ集めだ。そうでなければ隊の統率がきかなくなる。
法令違反者は何人であろうと、例え旧知の仲間であろうと、必ず処分する。
それは良い見せしめになるに違いない。
この先を生きなければならない新選組への、これが俺からの最後のはなむけだ。