小説|朝日町の佳人 33
沢口氏の手が再び酒瓶を掴んだ。
今度は三口くらい続けて飲んだ。
上に伸びた喉の線が、それにあわせて動くのを、僕は蝋燭の明かりで見ていた。
顔を下げ、庭を見つめ、瓶を持った手で口元を拭った。
今度は瓶を手から離さなかった。
「かつて、そうあろうとしたことは、ありました。でも駄目だった。私は落馬し、惨めに泥にまみれてしまった。私はカナエを、幸せに出来ると信じていたのに」
「でも、それは、カナエさんの方が、あなたを裏切ったんでしょう」
「そう。私は自分たちが幸せだと信じていた。私と同様、彼女も幸せでいると思っていた。そしてこれから先も、もっとカナエを幸せにしてやれると思っていた。でも、全て、私の思い上がりだった。カナエは、川島を選んだ。正直今でも判らない。私よりも川島の、何が良かったのか、私には判らない。けれど、きっとそんなものなんだろう。恋愛なんて、結局は、訳が判らないものなんだろう。百合さんが、私なんかよりずっとまともな、君に気付かないというのも、訳の判らないことの一つだ」
僕は口は出さなかったが、内心、百合の気持ちは判ると思った。
沢口氏には僕より優れたところが山程あったからだ。
一々列挙する気はないが。
「沢口さん。あなたはこの先もずっと、月を怖れ続けるんでしょうか」
「去年は、酷かったんです」
「何がです」
「去年の今日は、とてもいい天気だった。月の光がこうこうと庭に満ちていた。私の体を、溶かそうとでもしているようだった。今日はいい。少しは雲があるから。それに、最近は、あなたや百合さんと、随分親しくなった。それも良かった。しかも今は、田中さんが、そこに居てくれる。酒にもそれほど、酔っていない」
「沢口さんの気を紛らわすのに一役買っているのなら、僕も良かったと思います」
「私の役になど、本当は立たない方が、いいんですがね」
「どうしてです?そりゃ、百合に関することでは嫉妬はしますが、基本的に、僕はあなたが好きですよ。穏やかで、思いやりがある。自分の出自を鼻にかけないどころか、お人好しだ。時々、早出の時なんか、仕事に行く途中であなたを公園で見かけます。一人で草むしりしてるでしょう。あれ、自分でやってるんですよね。会長とかに頼まれたんじゃなくて。グラウンドゴルフの裏方仕事も手伝ってるし、町内でイベントがある時は、必ずと言っていいほど力仕事をしてる。こんな事を言っては何ですが、明らかにあなたに対して、一種の悪意を持っている人間はこの町にいますよ。あなたが溝掃除をしたり、公園のトイレ掃除をしたりするのを、」
「それが何だって言うんです?どれもこれも、大したことじゃないでしょう。誰かがすることを、私がやっているだけです」
氏の態度は依然静かではあったが、それは少し苛立った口調だった。
「僕は何も、汚れる作業をすることが厭わしいと言ってるんじゃない。それをさせようとする人間の根性が嫌なんです。汗水流しているあなたの姿を見て、卑屈な喜びを得ている人間が、少なくてもいるんです。僕はそれが堪らない」
「つまらないことを気にするんですね、田中さんは」
「本当に、自分でもそう思いますけど、仕方がない。とにかく僕は、あなたが嫌いじゃない。そんな悪意のある人間に対しても、決して厭味なことをやり返さない、あなたのことが好きですよ。あなたが言うように、僕の方からあなたを友人だと言うのには、気後れしますが、でも、それでも、嫌いじゃない」
「友人とは、思ってくれていなかったんだ」
「気後れすると言ってるんです」
「どうして?沢口の人間だから?」
「そうですよ、はっきり言ってしまえば」
「そうですか。まあ、それは正直なんでしょう。私は昔から、友人には、恵まれないんです。私はあまり、好きではないのですが、学生時代からずっと、よくパーティーに行かされました。知り合いが増えるのは、それなりに面白いが、ああいう集まりの本当の目的は、同程度の家と知り合うことにある」
「財産の程度ですか」
「そう。もしくは、家柄と言われるもの。今現在の財力がそれ程でなくとも、先祖に有名な政治家がいたり、近い親戚に有名な芸術家がいたり、有名企業の創立者がいたり、まあそんなところを見繕って、それとなく引き合わせる場です。各家は、同程度か、それ以上の家と結びつきたいと思っているから、大学で知り合った、何の後ろ楯もない娘なんかと、結婚されたら大変なんだ。だからわざわざ、飽きもせずに毎度毎度、ことある毎に集まりの場を作って、出来るだけ有利で、そのうえ趣味に合う相手を探させる。この枠の中でならどの女でもいい。親切な話だが、私はうんざりしていた」
「カナエさんとは何処で知り合ったんですか」
「残念ながら、そんな場所で知り合いました。顔だけは前から知っていたが、ちゃんと話をしたことはなかった。私は反抗して、そこで知り合った女なんかとは、絶対に結婚しないと考えていた。でも、香奈枝を好きになってしまった。そうなったらもう、仕方がない。だから私は、家の為にプロポーズしているのではないと、彼女に判ってもらうのに必死でした。そこで知り合うのは女性ばかりではない。当然男もいて、一応の友人は出来るが、私は運が悪いのか、ろくな人間には出会えなかった。多分香奈枝は、一番の友人でもあったんです。恋人であり、友人であり、妹であり、姉であり、母でもあったんです。私は彼女をそんな風に感じていました。そして、妻という未知の要素を、彼女に取り込んだらどうなるのだろうと、期待していました。でもそれは叶わなかった。田中さん。あなたは香奈枝以来の、初めての友人です。私はそう思っています。五年前の今日、この月の下で香奈枝を失ってから、初めてのね」
僕はふと、何かがおかしいと感じた。
「家とは関わりのない場所で、出来る友人もいましたが、彼らは私に対して、遠慮するんです。だから私は、あなたと知り合えたことは、嬉しかったんですよ。田中さんは、割と遠慮のない人だ」
「してるつもりですが、百合のことがあるから意地悪したくもなる。それでバランスがとれてるんでしょう」
「そうかもしれない」
氏はうっすらと笑い、酒を飲んだ。
話をしている間、彼はずっと庭を見ていた。
僕は自分の頭を整理した。
「沢口さん」
「はい」
「カナエさんは、生きてらっしゃるんですか?」
氏の笑みが止まった。
それがそのまま固定されたような顔が、ゆっくりと僕を見る。