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小説|青い目と月の湖 10

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 ハンスはいつも以上に馬を速く走らせていた。
 母親には用心の為にゆっくり帰って来たと言うつもりで、急いでいた。
 これほど天気のいい日と配達日が重なることは、そう滅多にないだろう。
 しかも、馬を使えるのだ。
 北の森に行くのに、これほど格好な日はなかった。
 
 ハンスはクロードに行くなと言われてから、二度ばかり北の森に踏み込んでいた。
 どちらも途中で引き返し、城を見るまでもなかったが、大体の方角の見当はついた。
 今日は途中でどんなに不安になっても、湖まで行くつもりだ。
 朝からその覚悟をしていたから、クロードの家にもう少しいたかったのを振り切って出てきたのだ。
 今日を逃がしたら、いつ行けるか判らない。
 雪が積もっていても、馬があればずっと速く行って帰ってくることが出来るんだから。
 でも、あの女の子は、まだあの城に住んでいるだろうか?
 
 暖かい季節とは違って、雪に覆われた森は奥に進む前から静かだった。
 そのせいか、ハンスは湖がすぐそこに近付いてきても、恐れを感じなかった。
 馬を降り、近くの枝の雪を払って手綱を結びつける。
 馬の鼻面を撫でてやる。
 馬は心地よさそうに首を振っただけで大人しいものだった。
 ハンスは、獣も近付かない湖に何故この馬が大人しく付いて来たのかということを、深く考えはしなかった。
 
「思った通りだ」
 ハンスは呟く。
 湖はそこに木が生えていないから湖と判るというくらい、一面に雪が積もっていた。
 それは城のあるところまで続いているように見えた。
 途中で拾ってきていた枝で湖の表面を叩くと、雪の下の硬い氷の音が響いた。
 クロードが飲み水に利用している湧き水の泉が凍っているのを見て、上手くいけばこの湖も氷が張っているのではとハンスは思っていた。
 もちろん月の湖の方が何倍も広いのだが、子供が歩ける程度には凍っているような気がした。
 大人が見ていれば彼を止めただろうが、あいにく大人しい馬が彼を見守っているだけだった。
 
 ハンスは木で氷の地面を確かめながら、そろそろと湖の上を歩き始めた。
 時々、ピシッという硬い響きがハンスを驚かせたが、どれも大きな音ではなく、ハンスの足を止めるまでには至らなかった。
 桟橋に向かってハンスは黙々と歩く。
 とりあえず、あの桟橋にたどり着けば一安心だと思った。
 そしてあの大きな門を叩いて、返事があるかないかは運任せだ。
 
 きっと、あの子は誰かが来てくれるのを待ってる。
 
 初めから、ハンスはそう思っていた訳ではなかった。
 初めは、試しに湖に行ってみようという程度だった。
 それが、湖に近付くにつれて積極的な気持ちに変わっていった。
 今、湖を歩き、城に向かって歩を進める毎に、あの少女がそこにいること、そして、彼女が誰かを待っているということを、ほとんど確信するまでになっていた。
 その確信が何処からもたらされているかなど、ハンスには知る由もなかった。
 もしクロードがここにいれば、きっと彼には判っただろう。
 何者かが、彼を呼んでいることが。
 
 あと数メートルで桟橋にたどり着くというところ。
 ハンスの踏み出した右足は、シャーベット状の氷の中に吸い込まれた。
 
 


 木の焦げる匂いが鼻腔をくすぐり、続いて薪のはぜる音が耳に届いた。
 目を薄く開けると、暖かい暖炉の火がすぐ正面に見えた。
 それからゆっくりと、自分がふわふわの大きなタオルに包まれていることを認識していった。
 
 冷たい水の向こうに長い髪の人がいて、手を差し伸べている。
 こちらはとても暗くて窮屈だけど、向こう側は明るく開かれている。
 水がキラキラと揺れて、体が酷く冷たい。
 
 ハンスはゆっくりと体を起こした。
 タオルを体に引き寄せ、自分が下着しか着ていないことを知った。
 
 氷が割れたんだ。
 
 辺りを見回した。
 
 じゃあ、ここはいったい、何処だろう?
 
 広い部屋だった。
 暖炉のある壁には、それを挟んだ両側に大きな額に入った風景画が、三枚ずつ飾ってある。
 マントルピースには銀製の燭台が二基あり、その間にフレームに入った数枚の小さな絵がある。
 どれも女性の絵で、黒いペンで描かれていた。
 上手いものあったが子供が描いたようなものもあった。
 暖炉を正面とすると、右の壁に細長い窓が三つ。
 そこから遠く白銀の森が見えている。
 真ん中の窓辺には小さなテーブルと二脚の椅子が置いてあった。

 一つの燭台は五本の蝋燭が挿してあったが、どれも火はついていない。
 部屋は暖炉の明かりと、三つの窓からの明かりだけで、多少薄暗かった。
 左の壁には窓はなく、正面の絵ほど大きくはない絵画が、すぐには数えられないほど沢山掛けてあり、適当な間隔で三つの飾り棚が置いてある。
 棚の上にはそれぞれ三枝の燭台があるが、それにも火は灯されていない。
 後ろの壁には真ん中に大きな両開きのドアがあった。
 
 ハンスはタオルを肩からはおって立ち上がった。
 ヒリヒリと痛んで、肘や膝に擦り傷があるのに気付いた。
 しかし、大きな怪我はないようだった。
 
 誰かが助けてくれたんだ。
 あの女の子が?
 もしかして、クロードに後をつけられていたんじゃ……。
 
 部屋の中央に、暖炉に向けて大きなソファーがある。
 大人が横になって寝返りをうっても余裕があるだろう大きさで、その手前に鉄製らしいテーブル。
 テーブルを囲むよう左右に肘掛け椅子が二脚。
肘掛け椅子も一人用とは思えないくらい大きく、ハンスなら三人は座れた。
 椅子とテーブルの下に絨毯が敷いてあるが、それ以外は赤っぽい焦げ茶色の木の床だった。
 部屋は充分に暖まっていた。
 下着はまだ少し湿っていたが、すぐにも乾きそうだ。
 ハンスは窓の方へ歩こうとした。
 ドアが開いた。
 ハンスは足を止め、ドアを見た。
 長い髪の少女が現れた。
 十メートルは離れていて薄暗くもあったので、はっきりとは判らなかったが、ハンスを見て少女は驚いたようだった。
 しかし、すぐに後ろを向いて、何かをゴロゴロと引きずって部屋に入ってきた。
 ドアを閉めて、窓のない壁の方を通って暖炉に向かう。
 少女が押しているものは、骨格だけのワゴンのようなものだった。
 棒が幾つも組み合わされていて、そこにヒラヒラとしたものが掛けられているのが見えた。
 よく見ると、それはハンスの服だった。
 少女はそれを暖炉の傍に持ってくると、手を離してハンスを振り向いた。


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