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小説|朝日町の佳人 36

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「君影草?」
「あら、知らないの?スズランの別名よ」
「そう」
「まあ、一郎さんに教えてもらったんだけど。でも判んない。あれって春に咲くんでしょう?」
「ふうん」
「スズラン好き?」
「いや、別にそう言うんじゃ。まあ、嫌いじゃないけど」
「可愛いもんね、スズラン。ねえ、健ちゃん」
「ん?」
「本気で引っ越し考えてるの?」
「ああ、まあ。まだ具体的に決めてはないけど」
「私、やだな」
「どうして」
「だって、気軽に車出してくれる人がいなくなるし」
「そう。沢口さんに頼んだらどう」
「バカね、頼めないわよ。それに一郎さん、車持ってないのよ。あの家、置いてないでしょう?」
「そうだな。見かけないな」
「免許の更新には行ってるけど、ほとんど運転しないんだって」
「運転手くらい何人でも雇えるしな」
「だね。昔は持ってたみたいだけど。んとね、モーガンとか言ってたよ。イギリスのだったかな?よく判んないけど」
「百合情報はいつも曖昧だな」
「ええ、だって別に興味ないでしょう?」
「うん、まあね」
「曖昧情報なら他にもあるのよ。根木さんね、そろそろ結婚するらしいの」
「根木さん?」
「タカラダ運送の。何よ、忘れたの?」
「ああ、いや、忘れてないよ。誰と結婚するの?」
「残念だったね、健ちゃん。ガールフレンドが一人いなくなって。淋しい?」
「いいから、誰と結婚するって?」
「んと、なんか会社の人みたい。社長とか何とか?よく判んない、又聞きの又聞きだもん。でも会社の人らしいよ、上司って言ってたかな?」
「はあ、そう」
「心当たりある?なんでも年の差が結構あるらしくって、それでヒロミが騒いでたの。私には関係ないけど、健ちゃんが興味あるかなと思って聞いてきてあげたのよ」
「ふうん、そう。それにしては曖昧だな」
「曖昧情報だって最初に断ったでしょ」
「そうだった。まあそのうち、本当はどうなのか判るだろう」
「そうね。取引先だもんね。でも、健ちゃん、やっぱり元気ないね。もしかして、根木さんと関係があったりして」
「全く関係ない」
「そう。ねえ、本当に引っ越すの?」
「何度も聞くなよ。具体的には決まってないって言ってるじゃないか」
「ふうん」
「なあ、百合」
「ん?」
「沢口さん、もしかしたら、百合のこと好きなのかも知れない」
 百合がこっちを見上げた。
 驚いていた。
「まさか。何言ってんの?」
「何って、百合だって何とかしようって頑張ってるんだろう、それでそんなに驚くか?」
「だって、まだちゃんとしたデートもしてくれないのに。いつだって優しぃーく、私が傷付かないよぉーうに、断ってくれるのよ」
「そういう気安いことは出来ない質なんだろう。大体、喫茶店の方には何度も来てるんだろう」
「まあ、ほぼ常連さんみたいだけど、あれは親切よ。どうせコーヒーを飲むなら、百合さんの所で飲みましょうか、ってな感じで」
「はあ。さあ、どうだかな。でも、例えばの話として」
「うん」
「もしそうだとしたら、百合、お前の方こそ真剣に向き合わなきゃいけないぞ。あの人、相当参ってるんだよ、昔、婚約者と別れたことで。多分だけど」
「そう言うのってさ、多分、取り越し苦労って言うんじゃない?」
「冗談で言ってるんじゃないんだけどな」
 僕は溜め息をついた。
 百合はそんな僕を、不思議そうに見上げているだけだった。
 赤信号で立ち止まる。
 横断歩道を渡りきった所が、目指している駅だ。
「なあ、百合」
「うん?」
「僕と結婚しないか。もし返事がノーなら、引っ越し確定だ。会えば気まずくなるような男が、同じ町にいるのは嫌だろう」
「……は?」
「あのな、百合。こういう事は聞き返さないのが大人のマナーだぞ。こっちだってそれなりの覚悟を決めて言ってるのに、そんな風に聞き返されたら、『ああ、別に何でもない』って、つい言いたくなるだろうが」
「……だって、もしかしたら空耳かもしれないじゃない。確かめとかないとさ」
「空耳じゃないよ。まったくもう」
 僕は仕方なく百合の耳を引っぱって、口を近付けて、至近距離で言ってやった。
「僕と結婚してください」
 耳から手を離す。
 百合はくすぐったかったのか、ガサガサと、割と乱暴に自分の耳を手で擦った。
 そして、ひどく弱った様子で、口を開いた。

「そんなこと、信号待ちしてる時に急に言われても困るんだけど」
「どう言う時に言えば良かった?部屋に二人でいる時に、音楽でも聞きながらそろそろと様子をうかがって、なにげなく言い出した方が良かった?でも別に、何処で言おうが内容は同じことじゃないか」
「だって、こんな、まだ青にならない、まだ青にならないって、焦ってる時に言われたら、『煩いな、後にしてよ。とりあえずゴメンね。はい』って、思わず言いそうじゃない?」
「そんな長いセリフを思わず言わないだろう」
「そうか」
「で、つまりそれは嫌だって返事なんだな」
「……それ、今返事しないと駄目なの?」
「考える余地があるのか?」
「だって、今、思考が停止してるもん。って言うか、早く青になれって信号見ながら念じてるから、他のこと考える余地がないのよ」
「……百合、信号待ちしながらいつも念じてるの?」
「ええ、普通そうでしょう?」
「いや、普通かどうかは判らんが、まあ、念じることもあるかも知れないな」
「あるわよ」

 百合の念力で信号機が青に変わった。
 僕は歩き始めた。
 百合は少し遅れて足を踏み出し、そして、隣に並んだかと思うと、僕の手を自分から握ってきた。
 百合が腕を組んでくることは割とあったが、大人になって百合と手を繋ぐのは、おそらく初めてのことだった。
「ねえ、健ちゃん」
「はい?」
「私がススキを取りに行くって言った時ね、健ちゃんが買ってやるって言ったでしょ」
「言ったな。確か」
「私、あの時、なんだか凄く淋しかったの」
「どうして」
「私もどうしてだろうって考えたの。それで思ったんだけど、私、健ちゃんとススキを取りに行きたかったのよ」
 それきり百合は何も言わなかった。
 僕はそれが果たして返事なのか、よく理解が出来ないまま歩いた。

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