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「私の考えは他者の考えによって確定して(されて)いく」という仮説検証または思考実験としての映画評. 『aftersun』
※1 映画『aftersun』のネタバレ有りきで書きますのでご注意ください。
※2 (2/8 19:40追記) タイトルを一部変更しました。
「私の考えは他者の考えによって確定して(されて)いく」という、ある意味不愉快な仮説検証または思考実験としての映画評. 『aftersun』
(理由)「前節のことが不愉快かどうかは、主観によって左右されるものだな。
例えば、懲罰房や流刑地に居るとかで他者の考えを受け付けさせてもらえないなら、そちらの方が不愉快かもしれないな……。」と考え直したためです。
情報(ほぼ)ゼロ状態で観る
私の映画体験のメイン手段は、2025年というのに「DVDを借りてくる」だ。
アマプラやNetflixに入って(は退会して)も、やってはいるけど……。観たいなと思う映画がカバーされていないことはザラなので。
とはいえ現状u-nextに入る気にはならず、いけるとこまでDVDレンタルをメインにしていたい。
そう、消去法ではなく、選んでDVD借りをやっている。
(この「DVD借り」だってサブスクの普及により「古い方法」「時代遅れ」とされがちだ。
しかしながら、今回の仮説検証や思考実験的な文脈で言うと、周囲の動きを眼中におさめずほんとうの意味で私だけが考えの中心になれるならば、この行為は「以前と変わらないことを続けている」でしかない。
よって、そこには「古い」も「新しい」も、概念自体が存在しない。
参考まで、この考察も覚えていてほしい。)
今回、私は『aftersun』という映画を借りた。
そもそもどうして『aftersun』を借りたかといえば、まぁ何かで見て気になったから、なのだろう。映画館のパンフとか、映画サイトでちらっととか。
最近忘れっぽすぎて、この情報が抜け落ちてしまっている。
だからどんな映画なのかの情報は、頭に入っていない。読んだけど忘れてしまったものと思う。や、まったく情報がないってことはないのか。「親子の話」ぐらいの予備知識はあって、だがその親子の関係性や、あらすじがどんなものかは入っていない状態。
せっかくなので、事前に情報は仕入れないことにした。
Wikiを読んじゃうとか、レビューサイトを見るとか。
(考えてみると、これらも一種のタイパですかね)
とはいえ私は自由なので、「必ずこうする」的縛りも誓いも、自分に課さない。
事前に情報仕入れて観たい時もある、けど今回は敢えてしなかった。そんだけ。
一つの考えが浮かんだ。
「冒頭から終わりまで観て、観た後にも情報は仕入れない……。
つまり『これはどんな映画であるのか?』
『どんな感想を発するべきなのか』
のところを、外部から補わないまま100%自力で、評価してみるのはどうだろう……、
ここで、根本的な疑問が湧かないだろうか。
「えっ、いやいやいや。
映画評って、そもそもが本質的に、自力なものでしょう?
プロの評論家が描くものはもちろん、素人のファンが書くものだって、その人がその人の発想や視点に基づいて、書いているものでしょう?」という。
それへの見解を述べる前に、まず、やってみよう。
今回は、完全に、自分用の記事だ。
だから見てくれのところ、他者がどう思うかなんて気にしない、気にならない。
……って、ぼくが書く他の記事でも、他者が見てどう思うかは、あまり気にしてはいないのだけど(もっと気にして戦略的になったほうがいいのかねえ?f^_^;)
観終わりました。思いの泡、羅列しますね
(あらすじなどご興味ありましたら、公式サイトをご覧くだされば。)
とりあえず、頭に「わからん」(c『はなかっぱ』)が咲いてる
マキシマム・ザ・アートスクール学生映画臭
機能不全親子の話(離婚後だが、血のつながりとして見れば)
娘。外見的に、またほんと絶妙のキャスティング
父。本当は海に入って死んだけど、後半の父は死んでいない妄想?
「解釈待ち」「考察待ち」映画よなぁ…。トルコ絨毯の意味なんだ?
aftersun=日没?それはサンセット?暗がり、暗闇が描く対象なのは間違いなさそうだが…。
どういう人(撮り手たち)が、世界のどういう人たちに向けて、どうやって撮影資金回収しようとして、世に出てきた映画なんだろうか?
バイクゲームのガキンチョ、本当に女の子を襲おうとしてたよな?それにしちゃうまいこと(キスまで)やりやがって。
アート界隈で異様に評価が高そう。これを理解できない奴はセンスないって断言されそう。俺、堪えられるんかな……(色んな意味で)
さて、上を書いてから後、ネット上の映画評を読みまくりました結果、考えがどう変わり、確定したのか……
プロの映画評論家の記事、Fillmarks やeiga.comの視聴者レビューをさーっと見ていった。
戦前(?)の予想通り。
プロ映画評論家、絶賛。
監督を天才と呼んでいる。
視聴者レビュアーさんたちの評価はおおよそ二分。
映像美や、トラウマの昇華に★★★★★の人たち。
「わからん」と★〜★★の人たち。
それ以外の大多数の人たちの、★★★レーティング。
そして、Vincent-tenihoreさんのnote記事に辿り着き、読み込んだ。
Vincent-tenihoreさんの考察自体が、掘り下げ方、素晴らしい。
↓次章の見解と矛盾してしまうのだが、Vincent-tenihoreさんのこの記事は、ご自身の脳や感情のもろもろを総動員して織り上げられた、自力なもの。
映画『aftersun』とは別個の、独立した作品であると、私はとらえている。
結論出しの前に、世に出ている「レビュー(論評)」への私の見解
例えば、職業映画評論家の方々の手になる映画評について考えてみたい。
それらは、本当に書き手が「100%自力で書いている」のだろうか?
プロの評論家がどうやって書いているかのほんとうのところは、知らない。その職業の友人がいて、実はさとぶっちゃけ話を聞ける立場にもなく、その業界で編集者などをしてもいない。
だから以下は完全に、想像にすぎない。
想像だが、特にインターネット普及以降の世の中で、サーチをしないわけがないと思う。先行情報。先行レビュー(海外とかの含め)。
無知の誹りを事前回避するために。
誤爆を避けるために。
虎の尾を踏まないために。
空気を正しく読むために。
職業的に、ネット検索による情報収集は、好き勝手思うままに書くわけにはいかないプロ評論家たちには特に、欠くべからざる手段ではないだろうか?
その中で、先行試写会などで観ているアマチュアのファンが書くものを読みもするだろうし、時には内容的に影響を受けることもあったりするのではないだろうか。
「私の考えには、他者の考えが不可避に入り込んで、有象無象のそれらによって確定して(されて)いく。」それって、映画レビューの世界も同じだろう。
私はそう確信する。
「私の考えは他者の考えで確定して(されて)いる」と言い得るか、今回の結論
でもやっぱり、これは私には「入らなかった」映画だ。ということで、今回は、他者の意見によって私の考えが変容することはなかった。
LGBTQを無視するとか、軽視することとは絶対に違う。私にとっては、この映画がLGBTQ的見地から解釈「されるべきものだ」、「するきっかけになったのだ」というところまで、持って行かれなかっただけのことだ。
他の映画なら、持っていかれた経験があること(例 『アデル・ ブルーは熱い色』、『ボヘミアン・ラプソディ』、『ヘドウィグ・アンド・アン・アングリーインチ』など)
気づき1:私にとっては映画の映像美というものは、映画の評価において決定的な意味はないのだということ。
気づき2:「この映画を安全なレンタルDVDとしてではなく、劇場で2,000円也を払って観ていたとしたら?」、というコスパ的な考えが、根強く私の中にあるのだということ。
気づき3:そーなんだaftersunって、「日焼け後」「日焼け後用ローション」の意味だったのか。こーいうここまでの自分の中にない知識は、検索しないと絶対にわかんないや。
映画そのものを貶めるとか、そういう意図はまっっったく、ないです。
なべてこの世はマッチングの妙。
ある人には、この映画と強烈なマッチングが起こるはず。私には起こらなかった。けどそれを恨んだりはしない。
それが、この世に芸術作品と、送り手が依然多く存在し活動する意味の根本。
”次、次”ってメンタリティ、いつも持って。
合う存在を求めて、死ぬ日まで楽しく探そうと思う。
(おしまい)
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