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「いまを歩く」は、そのままの意味ですが

ぼくという他者に居続け50年、いよいよ降りられないし、降りない


数ヶ月前に50歳になったのだが、その前後あたりから心にホワホワとあった感情が

「ああ。あれだ、もう、ぼくという存在から降りるのは不可能だな」

というようなこと。
言語化すると少し違ってしまうけれど、近似値というかまあ、そんなようなこと。

「歳をとった」とかそういう感想ではなく、ぼくを50年やってしまったことで、
ぼくという他者・・・・・・・が何者なのか、その解像度は上がったというか。
「上げざる得ないじゃんかーチキショーメ!」と腹が決まったというべきか。
いよいよもって、ここから別の誰かになることはできないから。
ぼくと付き合っていかなきゃいけない!というね。
まあ、神だか悪魔だかから脳に唐突な「よし、降りようか」って指令がきても、
「やー無理っすね」って、拒みますけどね。

上で、「ぼくという他者」と書いたけれど、聞きなれない表現だったですよね。
ここではさらっと書くにとどめますが、ぼくは幼少期から
「生きている、生きていてここにいる」
という状態に不思議さ/違和感/居心地の悪さをおぼえる子供でした。
いつもいつもではなく、ふっとそれが発動した。
デパートや駅あるいは高速道路のサービスエリアのような、知らない他者が多くいる場所で発動することが多かった。そういうとき、ぼくは手のひらを見つめ、指のそれぞれをわにわに動かし、そこでまた変な感覚に陥ったりしていた……。
別の記事で詳しく書くことにしますが、ぼくにとっては、「ぼくがぼくであること」は自明のことでは決してなかった、ということです。

ともあれ、「もう降りれねーぞ感」を自覚していたような、無意識なような半々な感じで、2024年はライブ会場に割とよく足を運んだ年になった。トークライブ3回、音楽ライブ1回。
ライブ会場ではないが、居住地にあるコミュニティバーのデビューも果たし、4〜5回訪れた。
ってまあ取り立てていう数じゃない気がしますが、それでも自分としては多い。
コロナ禍が、(いつのまにか的に)本格的に明けた年だったこともあったのかも。

全国約198万人のフォーティーナイナーズの皆さんに、
「そのうちのひとりのぼくは、こんなかんじでやってます。」
と伝えてみたい。
シンプルに言えば、書きはじめた理由はそれだけ。
そのためには、ぼくの来し方(来歴、過去、ここまでの人生のエピソード、その記憶)について触れるのも大事だと思うし、いっぽうぼくが今感じていること、幸福感や違和感だったりについても触れないわけにはいかない。

まぁなどと言いつつこれは
「自由きままに書く」
ための保証、「逃し弁」なんですけどねー。

実際問題、イントロダクション記事を4つ書くことを終えたら、真っ先に書きたいのはゆうべ12/27のビッケブランカ(非フォーティーナイナーズ)のライブ参戦記ですんで。

歩くこと、好きです

20代後半から40代半ばまで、草サッカーチームに入れてもらい、ボールを蹴って楽しく過ごしていた。
40代に入り、サッカー理由の腰痛(ぼくの場合は筋筋膜炎、いわゆるぎっくり腰)の発動率が高まって、それは筋膜の炎症が引くまで数日寝たきりで過ごすことを意味し、サラリーマンとしてそれはないんだろうなと引退。

ジョギングやジム通いを経て、いまやってる運動の筆頭にくるのが道端や公園のウォーキング。暑い時期に泳ぎ、春秋たまに低登山。

歩いてしばらくすると自我が半分くらいに薄まって、歩行の揺れで脳がいい感じにシェイクされることもあってか、ぽっと考えが降りてきたりすることも。
それも楽しい効用(高揚)。

現状のウォーキング時の相棒2大巨頭は、onのクラウドモンスターとナイキのエアマックス1。
クラウドモンスターはジョギング用シューズであり、一般的にジョグシューはジョグ、歩くならそれ専用のがいいとされているしぼくも一般論としては同意するけれど、何百キロも歩いて快適なのだから個別論では
「あえば別に、何用とか関係ないんでは」
っていう、その実感を取る。足裏の個性もいろいろなはずで。
それ言えばエアマックス1も、販売当初はジョグシュー、今はカジュアル用ですがね。知らんけどじゃなく知ってるけど、でも、歩きやすいんだからしょーがない。

そしてなんだかうまい具合に
「ぼくの人生の、個別なことを伝えたい」
っていう、書きたいことの方向性にフィットしてしまった。







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山本蛇内
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