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私が天使と呼ばれていたころ2

息子が小学校5年生のとき、週一度、公民館の英語教室に通っていました。クリスマスに、米軍基地のボランティアが、パーティを開いてくれました。
場所は、公民館の体育館。毎年、開催してくれているとのこと。基地の人々から、お菓子や飲み物やピザなどが振舞われて、にぎやかに夕食。そのあと、いろいろなゲームをしたり、クリスマスの歌を歌ったりして楽しく過ごします。サンタもやってきて、子どもたちにプレゼントをくれます。

こうした交流会で、子どもたちは学んできた英会話を使ったり、使えなかったり、恥ずかしがったり。でも、基地から来た人々は底抜けに明るくて、言葉の壁は笑顔で吹き飛ばす! 恥ずかしがり屋の子どもたちも、どんどん打ち解けて楽しそうに過ごします。

その時、あらかじめ保護者のミーティングがあると案内がありました。子どもたちが遊んでいる間、保護者が集められました。リチャード先生と、リチャード先生をサポートしている通訳の方が前に立って説明を始めました。

これまでの英語教室は、リチャード先生が運営してきたのだけれど、町役場の要請で、保護者も運営に参加して欲しいと言うこと。連絡係という名目で、三つの公民館の保護者の代表を決めて欲しい。運営そのものは、これまで通り、リチャード先生が行うので、名前を貸して欲しいといった内容でした。それなら、ということですぐに3人の代表が決まりました。私も引き受けた一人でした。

保護者会は気楽にすぐに済んで、クリスマスパーティは賑やかに、お掃除まで愉快に済ませて解散になりました。


その翌年の3月、東日本大震災が起こりました。3月の基地交流会の直前で、停電が3日続いたため、連絡を取り合うこともできませんでした。町の海岸沿いでは家屋や港に大きな被害が出ましたが、幸いにして人命の被害はありませんでした。基地交流会の日程は二転三転しましたが、米軍基地司令の好意でバスを出して頂けて、なんとか開催にこぎつけました。その時に、民間人でありながら、基地とも深いつながりのある、リチャード先生を通して、米軍基地の人々の支援と、アメリカと被災地を繋ぐ民間レベルの支援などについて、いろいろと教えてもらいました。感銘を受けました。このことが、その後の英会話教室の活動に、大きな影響を持つことになりました。


英会話教室に関しては、4月になるととんでもないことが発覚しました。

町役場の要請というのは、保護者の名前を貸すとかそんな話ではなく、社会教育団体を発足してください、ということだったのでした。そのために3年の猶予期間があり、その3年は過ぎていました。これまでのリチャード先生のお教室の在り方だと、公民館の利用規定に触れるとのこと。リチャード先生が、町役場から招へいされてこの町に来たという流れで、なぁなぁで、公民館での英会話教室が行われてきたということらしい。

3人の代表が町役場生涯学習課に呼ばれました。一人は離婚のため所在不明になっていました。それから押しの強そうなAさん。私はお腹に直撃+高熱が続く酷い風邪を引いていて、最初の会議には出席できませんでした。Aさんから電話をもらってぶっ飛びました。3年の猶予はいったいどこへ消えてしまったのか。

どうも、裏のある話のようでした。ぶっちゃけて言えば、リチャード先生と生涯学習課の間に、言葉の壁があって、意思の疎通が難しい場面が多発していて、トラブル含みだったようでした。私とAさんが代表になって、社会教育団体を立ち上げることができれば、私たち保護者が運営する英会話教室になり、先生を雇うかたちになる。この事実を先生は理解していない。通訳の方も。そして、薄々、生涯学習課はリチャード先生と縁を切りたがっている……ような……。そうならそうと言ってくれれば、代表を辞退するのにさ。

さて。

Aさんは頭の回転の良い人で、素早く事情を呑み込み、故郷の役場勤めの友人たちから、情報をかき集めていました。しかし、感情的で、自分の都合の良い情報だけを、かき集めようとしているように見えました。弱りました。とにかく、先生と通訳の方に来てもらい、4人で相談をすることにしました。事情をはっきり知った先生は激怒。怒るだけの理由もあるのでしょうし、社会教育団体とはなにかを、説明する力が私たちにはない。が、はっきり言えることは、先生の立場がこれまでとは変わるということ。ボスは私たち。嫌なら英会話教室は消滅。主導権はこちらにあることを、先生に納得して頂き、何はともあれ、必要な書類の草案を作り始めました。生涯学習課はその辺の事情を理解して下さり、猶予を与えてくれました。私はインターネットで調べ上げて、必要な書類をピックアップし始めました。会の趣旨であるとか、運営の計画、会則の作成、他に傷害保険への加入が不可欠と思われました。英会話教室ですが、スポーツの傷害保険が使えることがわかりました。要するに、サークル活動で、スポーツ少年団と同じ活動の範疇に入るということなのでした。保険会社に問い合わせると、その前の年から日米の地位協定改正があり、基地内の活動中の怪我なども保証の対象になる、と。ちいきょうてい...…はぁ。とにかく、何か起こった時に備えないと!長く使ってきた教材も、実は著作権法に触れるので、作り直しの必要がありました。些細なことでも、落ち度は許されないという緊張感がありました。

頭の回転は良くて、押しも強いAさんでしたが、気分がくるくる変わり、電話魔で、毎晩4時間以上も愚痴を聞かされました。初めは通訳さんが電話を受けたらしいのですが、フルタイムで働いている方なので、とても対応できず、お鉢が私にまわってきました。言いたいことを言わせておくだけでは時間の無駄なので、こちらからアプローチして、細かなことを組み立て、すり合わせていきました。

それから、公民館で夜警をしているご近所さんを訪ねたり、知り合いの町会議員に話を聞いてもらったりしました。町会議員から、元町長を紹介して頂き、相談に乗ってもらえることになりました。Aさんは、仕事を持っていて、車の運転ができないので、機動性がなく、私が一人で動くことに嫌悪を示しましたが、背に腹は代えられない。そときのAさんのセリフ。

議員?元町長?私だって議員の一人や二人知ってるわよ。元のバイト先で、元町長はお得意さんだったから、面識くらいあるわよ!それで、あなたが彼らとなにが話せるっていうの?

はて。

ま、ドラマチック思考のAさんと議論するのは、時間の無駄と思われました。Aさんは仕事を休んでまで、行動する気は無さそうなのをこれ幸いに、私は行動開始しました。リチャード先生のレッスンを、引き続き息子に受けさせたい。そして、アメリカの人々の社会性と献身に思い致し、私にできることを、震災とは直接関係ないにしろ、人々がつながるツールである英会話を、子どもたちが学ぶ機会を残すことは、大切なことだと考えました。

続く

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