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2019年のあいちトリエンナーレには結構考えさせられた件

前々回の投稿で「妄想・表現の不自由展」を開催したところで、当時実際に考えていたことを書き散らかしてみる。

なぜ差別の根本的な観点を誰も語ってくれない? —Are you “Charlie”?—

作風は政治的な内容だったことから話題を呼んだのがあいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」だったわけだが、私は政治的には一部話題になった表現についてはNOを唱えたいかなと思う派。
とはいえ特段詳しいわけでもないし、「どの人が言ったから」「どの人がやったから」で語られることも多い政治的な話題に飛び込んでいくつもりはないので、政治的な中立に関する話はXの政治クラスタにお任せしたい。

やはり人の写真、しかも一部の人にとっては信条(のよう)になっている人物の写真を燃やすのは違うのかなと感じた。チンギス・ハーンも、毛沢東も、金正恩も、みんな平等に焼くのはダメだと思うのだ。侵略者だと感じる人もいるかもしれないし、犯罪者だと感じるいる。けれどそれと同時に英雄だと感じる人もいるし、神のように感じている人もいる。
特定の信条を使って人を嫌な気持ちにさせるのは差別的な攻撃と取られても不思議ではないのではないか。

これは個人差が大きな問題だと思うのだけれど、写真や手紙、絵、人形を粗末に扱うことに抵抗がある人とない人がいるはずなのだ。これこそ完全に信条の問題で、「そこに魂が宿っている」と感じたり、粗末に扱うとなぜか「罪悪感を感じる」のはアニミズムそのものだ。宗教なのだ。
私は今でも人からもらった手紙や絵を捨てられないでしまってある。写真がデジタルになって良かったと思う次第だ。

シャルリー・エブド襲撃事件から学ぶものはなかったのだろうかと考え込んでしまう。テロリズムは断固として支持しない。しかし特定宗教を表現の自由の名の下に下品に表現して、「怒るな」というのは無理筋ではないか。いや、「怒るな」とまで言ったのかは正直よくわからないで書いている。しかし人を怒らせる意図で描いた風刺画であったことは間違いなくて、怒らせるとえらいことになる人々を怒らせてしまった事実が、そこにはある。
世界の一部では「信条」を蔑ろにすると相手に「死」を突きつける人々がいるのだ。これは現実であって、模範ではない。しかしこの世にはそういうことがあって、そこから目を背けてはならない。

「表現の自由」が高らかに歌われるアート業界だが、憲法はあくまでも国民が守っていくものであるという話は前回もしているので割愛。

多様な反応を受け入れられない人は芸術家に向いているか? —メッセージの伝達—

時には、少なくとも今回の例では「芸術=メッセージを伝える」ものとして観られる。そして「表現の不自由展・その後」はメッセージ性の塊だったんだと思っている。

もし自分が作った作品に1つの明確なメッセージを込めたのに、受け取り手に複数解釈されたらどう思うだろうと考えることがある。

私は過去の投稿について「差別的である」と指摘を受けたことがあるが、「その人がそう受け取ったんならそうなんだろう」と議論はしなかったし、投稿を消すことも選ばなかった。読み違えているところは指摘したが会話が成立しなかったのでそれ以上の返事はしなかった。

それでもいまだに思うのは:発信メッセージは1つだったのに、受け手に複数解釈されたら、その作品は失敗。見てる人に言い訳するのはお門違い。

「表現の不自由展・その後」は炎上を狙っていたなら成功、狙っていなくて拡大解釈されてしまったなら失敗表現だったのかもしれない。
わからない。
専門家でもない私はジャッジするのもお門違いかもしれない。

そして映像作品でもCMでもなんでも、コンテンツにおいて、受け手にとっての快不快は文脈で決まる。

例として、推しグルの似顔絵コーナーがあげれられるかもしれない。
Aが書いたBの似顔絵がひどくてBがキレる
→絵を笑われて+キレられてAが不機嫌になる
→おもろい流れ完成
→これを動画の間擦りまくる
彼らのコンテンツ内で共有されている文脈としては、登場人物はオーディション番組から結成されたグループで、メンバー間の仲が良好である(少なくとも無期限で同じプロジェクトに関わるので仕事に差し支えない程度に関係性は良いと推測される)ということ。さらにファンとの間で共有される文脈がBが年下のAからイジられるという役割を普段から買っていて、お約束的な流れがある(本気で怒っているわけでないと本人と周囲の態度から読み取ることができる)ということ。

文脈がない、あるいは不明瞭のまま思想に深く踏み込む表現(誰かを悪者にするなど)をすると、批判が集まるのは自然ではないかと思った次第だ。

あの展示がどういうきっかけで火がついたのかはよくわからないのだが、誰かが初めに文脈を理解できず、あるいは感じ取れず不敬/不謹慎と感じたのではないかと想像する。

結局のところ政治的メッセージを含んでいる以上、それはプロパガンダなのであって。そしてプロパガンダの展示に税金が投じられるのってどうなの?って話であって。アートと政治を切り離して考えたい人々が度々いるが、実際は切っても切れない関係にあるのであって。そしてそれは作り手/受け取り手双方にとってvalidな話で。
この続きはまたいつか。

#日記 #アート #表現の自由 #あいちトリエンナーレ2019 #表現の不自由展

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