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日本人と海外と差別の形

※SPOILER:この投稿は「日本の差別はどのくらいひどいですか?」への回答ではないし、地方の事情は知らないのでこれは私の経験則で出した「結論」である。
 尚、「差別」と「外国人嫌い」は全く別の話だろうと思うので、いずれ投稿すると思う。

「日本に差別とかないだろ」論

差別が日本のネットで話題になると時折この言説が囁かれることがあるが、あるに決まってるやん…と思うと同時に、その言葉の裏もなんとなく理解出来る私がいる。
私自身が外国で差別され(過去の投稿参照)、親戚のロシア人は戦後の日本で差別された、もっと言うと(間接)被爆者の祖母は差別を恐れ素性を隠したがったこともあって、色々思うところがある。

これは"差別"と言う言葉でどんな内容を想定してるのかによって、意見が分かれてるところなのではないかと考えている。表現しようにも適切な言葉が日本語にはないので「差別はある/ない」としか表現できないという問題で、しかも日本を含む多くの地域ではracismとdiscriminationが"差別"の一言で一緒くたにされてるというところに難所がある気がしている。
つまり一緒にすべきでないものがごっちゃになってるのは結構問題だと思うのだ。というわけで個人的に実感のある範囲内のパターン幾つか例に挙げてみたい。

"見下し型"差別と"引き離し型"差別

今回は便宜上"見下し型"差別と"引き離し型"差別という名前をつけて考えてみた。
前提として、同じ国籍で国内で育っている人との間に発生していることを想定し、それぞれのルートの先にいじめが発生する場合もあるが、それは一旦問題にしない。

"見下し型"差別:

①「黒人やイエローって見た目がゴリラとか猿みたいで前頭葉が小さそう。私たちと同じ知能を持たない動物のはずだ。」(権利は同等じゃないと一般的に見なされている)

これはアメリカの人種間、またはアジアの地方間で存在している形の差別である。
ここでは彼らは互いを同じ人間と見做していないので、危害を加えても良い;原因は向こうにあると考えており、反撃してきたところでその世間的には"不良人種"等が悪者になるので問題にならなかったりもする。
そして"同じ人間ではない"ので、社会から排除はしないが、低い報酬で危険または過酷な労働などに利用することもある。一応ここでメンションしておくと、日本の技能実習生の悪い状況は制度の悪用によって発生しており、日本社会には「技能実習生は同権ではない」というコンセンサスはない。もっと言うと日本人労働者でも、俗に言う「ブラック企業」などに騙されたり、悪用されていることが多々あり(私もその経験がある)、社会の中の"悪人"を見分ける能力は外国人より日本人の方が高いため、被害に遭っている比率は現実として少ないかもしれないが、分母が多いだけ人数が多い可能性もある。

"引き離し型"差別:

①「挨拶や愛想、気遣いがなかったりして、態度/印象が悪い人達だ。付き合いづらいから距離を置こう」(権利は同等でよいという見方が一般的)

「電車に乗ると誰も隣に座ってきてくれない」と主張する外国人全般に当てはまるのはこれかもしれない。ここで大切なのが、差別になるのは基本悪意がある場合に限ると言うことだ。マジで体がでかいとか、(先日遭遇したのだが)足を広げて1.3席占拠している場合は仕方ないじゃないかと思っている。
つまり同じ人間だとは思っているが、しきたりを教えることが面倒だったり、コミュニケーションに壁がある、または教えたが従う様子がない、反発された等の経験をした結果発生する「諦め」によるものである。

②「善悪の境界線が大きく異なる人たちだ。困った行動を起こす前に出て行ってもらおう」(権利の同等さは焦点でなく、ルーツの国に帰ればお互いにとって良いだろう、という考え)

これは例えば、他人のペットや公園などにいる動物や昆虫を捕食してしまう一部のアジア人を指す。同じ人間のはずなのに、時折"動物的(に見える)"ような行動に出られてショックを受ける結果、排除に繋がるものである。

「日本に差別はない」の本当の意味

この言葉の真意は「"見下し型"差別は存在していないだろう」という主張だと思われる。西洋の差別は"見下し型"であることが比較的多いイメージだし、肌感としては事実である。
私としてはこの言説には(上記のような意味合いである限り)割と納得していて、それは具体的な"見下し"表現を日常的/文化的には見かけないことにある。悪意があって悪口を言う人はいても、天然で見下している人はまず見た記憶がない。

「日本人は閉鎖的で外国人を受け入れない」ではない

この言説は海外で広まっている日本に対するステレオタイプである。これを積極的に広めようとする人たちがいるというのが現実なのだが、それはまた別の話なのでここでは割愛したい。
日本の現状として、外国系の著名人は嫌われていないし、排除されていない。むしろ積極的にメディアに起用されている側面がある。"敵対国"(という概念)の出身者であっても活躍を見せれば邦人と同じように人気者になる。多様性は(少なくとも西洋諸国よりは)認められている空気感があると私は感じている。日常生活では外国人だからといって著しい活躍を見せる機会は少ないため比率として"引き離し型"①に遭遇しがちな印象を受ける。

過激になりがちなのは"引き離し型"②な気がしていて、政治的対立や民族対立と悪魔合体してそうなるのではないかと考えている。

余談として、国内の身体障害者で例えると:

  • 病気がうつる(かもしれない)ので触りたくない、気持ち悪い
    →"見下し型"差別①

  • - 同じ仕事ができないのだから健常者と同じ報酬を与えるのはおかしい
    →"見下し型"差別①

  • (個人のコストに依存する)サポートがめんどくさいので関わりたくない
    →"引き離し型"差別①

  • 障害で穏やかな物言いができないことは理解できるが、それで自分のメンタルが疲弊していく一方なので付き合いきれない
    →"引き離し型"差別①②(ただし悪意によるものではないので差別とは言い切れない)

といった具合だろうか。あまり身体障害者の状況に詳しくないので異論は大歓迎なので忌憚なきご意見募集中だ。

こう言った場合はバリアフリーなどで外の環境を整えてあげたり、うまくサポートできる仕組みを作っていくと、障がい者自身も「自分でできるんだ」とself-esteemが上がるし、周囲がサポートするときも個人のコストを犠牲にしなければいけない場面が減るのではないか。
(ここ最近話題になったイオンシネマでの出禁の件も労働者という個人のコストを犠牲にしたことが一つ大きなポイントになっているように思う。)

蛇足かもしれないが「日本=無関心」と言われがちな環境問題もそうなのではないか。米のとぎ汁/うどんのゆで汁はそのまま流すと水中酸素濃度を下げてしまうため環境に悪いが食べるのをやめるのではなく、無洗米や浄化装置を作ったりすることで「ライフスタイルを買えずそのまま暮らしていく」ことを諦めなかった結果ではないか。形成外科学(美容整形)と戦争被害、リディア・オリリーとカバーマークと原爆乙女の歴史が思い出される。

同じ人間と思えているか?が大きな分かれ道

「差別はやめろ」という"お題目"で啓蒙するスタイルが効果的なのは"見下し型"差別①までである。社会全体で「特定の属性の人は同じレベルの生命体でない」という認識が共有されている場合、つまり「同権としない」のが常識の社会である場合に限られると思う。

"引き離し型"差別は相手を人間と認識できてるという更に1歩先の段階にあると考えている。ここまで達してるともう"お題目"に効力がなく「知ってるわアホか」というリアクションを引き出すことになってしまう。この場合は"啓蒙"ではなく具体策を講じなければいけない段階にある。一方で策の確立が難しかったり、進みが鈍化する段階でもある。
ここで反差別運動でそういった"難しい"ことに参加できない人は"お題目"に逃げてしまうのである。そしてその場にいる個人間でコストを負担する案しか提示出来ないことが多い。個人にコストを負担させたくなる心理についてはまた別の機械に。

個人的な考えに基づく結論

私たちはお互いの生物としての差は埋められないが、同じ人間と認識できているなら環境整備などの具体策で各々抱えるハンデを埋めることはできるんじゃないかと考えている。

  • 他民族を"逐一気遣ってあげる"/"相手の風習について勉強する"(使ってはいけない言葉/食材があるかなど)

  • 外国に行って現地に100%即座に溶け込む努力

上記2点はどちらも各個人のコストに依存してしまう。これを50:50%にするとかでなく、なるだけ0%に近づけるよう整備をした方が良いと思っている。なぜなら特定の誰かのせいで自分が割を食わなくて済むからである。
平たくいうと、階段しかない場所で、車椅子の為にスロープを足すと全員が嬉しいじゃないか、という話である。車椅子の人は介助を呼ばなくていいし、周りは手伝わなくてもいいし、スロープを作る会社は施設に商品を売ることができるという良い循環が生まれると信じている。

個人的な気持ち

上記投稿でemotionalになってキレちらかしたわけだが、要するに"お題目"唱える方が楽な社会になっちゃったという側面を問題視したい。

お題目唱えるとなんだか仕事してる風に見えるし、言う側はいい人に見えるしいいことだらけなのかもしれない。しかしぶっちゃけそれ以外何もしなくてもいいと捉えられるようになる側面もあり、これがヤバいんだと思う次第である。

アメリカがこのスタイルを、例えばNikeのCMという形で、日本に輸入してはいけないと思うわけである。
この楽して反差別アピールすることに対しては被差別者としては圧倒的にNOでしょ、と言いたいのだ。楽な方に逃げないで前に進もうぜと。取り組もうぜと。

16世紀とかより圧倒的に人の人権意識は高くなりつつあるのだから次のフェーズにとっくに行ってないといけないと思うのだ。

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