連載・長編小説【新入社員・山崎の配属先は八丈島!?】㉓
料飲マネージャーにはフロントから持丸茂さんがくることになった。
「山崎!!よろしくな!」
「はい」茂さんの笑顔に救われた。
フロントは田中課長の体制となった。
そんなある日、太田GMから呼ばれ「今野を金沢にあるグループ内のホテル・スクールに出すことにした」と話があった。
「今ちゃんまで行ってしまうのか」心の中で思った。
「しかたないかもな、早くシティーホテル勤務になりたいと総支配人にも伝えていたみたいだし」
この頃、社内では金沢にあるシティーホテル内に将来の幹部候補生を一年間限定で育てる「社内ホテル・スクール」が発足していた。
同期にも数名が選抜されていた――その中の一人が今ちゃんだった。
「寂しくなるな」と一人呟いた。
今ちゃんが旅立つ前の晩は二人で酒盛りをした。
来た当初の話で盛り上がった
・八丈ゴキブリに苦戦したこと
・冷蔵庫の食べ物をことごとく勝手に食べられたこと
・洗濯物をたびたび畳んでベットの上に置いておいてあげたこと
今ちゃんが乾いたパンツなど、そのままピンチハンガーから取って履いているのが気になってしかたがなかったからだ。
随分前に、別館の個室にそれぞれ移っていたが、そんな、いつも一緒だった六角小屋時代が懐かしく思い出された。たった一年ほど前の出来事が随分と前の出来事のように思えた。それほど、ここでの最初の二年間はお互いに苦労の連続だった。
「山ちゃんも頑張れよ。きっとここでの仕事もあと一年くらいだと思うから」
この頃、時代はバブルがはじけ始めていた時期だ。
私たちが入社した平成元年、1989年はバブル後期であり、時代はまだまだイケイケの時代のままだった。ホテル業や百貨店業は黄金期であり、サービス業を目指すなら間違いなくこのツートップだったと記憶する。内定していた当社はまさに破竹の勢いであり、海外の大手ホテル会社の経営権を取得したばかりだった。内定を頂いた指定の拘束日(当時は青田買いで、良い学生を早めに囲い込む為に、各社が同じ日に合わせた指定日に内定者を会社に集合させた)には、バブルの匂いプンプンの内定者懇親会が用意されていた。
高輪にあったシティーホテルの中国料理でランチをしてから後、貸し切りサロンバスで飲みながらのカラオケ三昧――八ヶ岳のリゾートホテルへ移動をして宿泊、翌日は逗子にあるマリーナで食事後にクルーザーに乗って遊覧するなどの豪華絢爛な旅だった。この時に生まれて初めて「タピオカ」なるものを知った。中華のコース料理の最後のデザートに「ココナッツミルクに入ったメロン・タピオカ」が出てきたのだ。
仕事柄、今でこそ様々なものを食べ、知識もついたが、当時は見る物、食べるものすべてが新鮮で輝いていて衝撃と驚きの連続だったのを憶えている。
今ちゃんとの話しをもうちょっとしよう。
配属式の前、研修先のホテルから私たち二人は同期の別のメンバー数人と一緒にヘルプ招集されていた。
四月の入社式後、一週間ほどの集合研修の後にそれぞれのホテル研修先へと行くことになったが、わたしは京都にあるシティ・ホテルで今ちゃんは銀座のホテルだった。
二ヶ月ほどしてから、各研修先でのホテルの人事担当者から「横浜のイベントにヘルプで行ってほしい」と突然に言われた。
時は横浜開港130周年、桜木町では「博覧会」が開催されていた。
グループがこのイベントに出資をしていた――横浜市とM物産と当社の三社が母体となって開港記念イベントを運営していたのだ。
その目玉となっていたのが大桟橋に停泊したキュナード社が保有する英国客船クイーンエリザベス2の洋上ホテルだった。そこに私たち二人は期間限定で派遣された。
わたしはフロントインフォメーション勤務、今ちゃんは船内のレストラン受付業務――900室超もある客船は、船とは思えない豪華な施設に満ちあふれていた。レストランやバーなどの飲食施設が数十カ所、プールやカジノ、映画館やアスレチッククラブまである。
人手不足によって急遽駆り出されたのだが、寝る間も惜しむとはこのことだと思った。
船内の部屋に戻れるのはいいとこ三時間ほどであり、仮眠後にまたすぐにフロントに立って、チェックイン準備やお客様ご案内などに追われまくった。
立ったまま寝るという技術をはじめて身につけたのもこの頃だ。今ちゃんの話では船内のレストランのほうが、随分と勤務態勢は楽だったようである。
さらにわたしには数十名いる「コンパニオンの管理監督」も業務内であった。大勢のコンパニオンが出勤してくると、朝礼を実施して連絡事項などを伝える。一緒になってオペレーション業務も行い、ナイト業務も交替でこなした。
毎晩のように繰り広げられるパーティーの準備も手伝った。「近藤真彦ショー」や「パリコレクション・ファッションショー」――企業による「シップ・レンタル」いわゆる船一晩貸し切りだ――バブル期らしく、一晩で数億円の金が動いた。
連日連夜、この時代でなければ経験できないことの連続だった――船がハワイ航海に向うまでの二ヶ月ほどを横浜で過ごした。この時の給料明細は残業時の加算もあり、新入社員としては考えられないほどの手取額に驚愕した。
その後は再度、元いた研修先ホテルに戻り、のちに本配属を迎えたのだ。
今ちゃんとは、八丈島リゾートよりも前に、すでに「同じ釜の飯」を実は食べていたのだ。
to be continued……