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夜鴉の卵

 夏近くになって能願はすこし年上の友達と夜鴉の卵を取りに行った。卵は家に鶏の卵があるから欲しくはなかったが、夜鴉の卵がどんなものか興味があった。池の上にある小高い木の上にあるらしい。能願は池の反対側から見ていた。鳥も考えたものだ。池に張り出した枝に巣を作るなんて。なんで取るのかな。食べるのかな。ワイワイ言って登っているはずなのに、なぜか池の上はしーんとしていた。不気味だった。嫌な予感だ。

 しばらくして2人、木からおちてしまった。やっぱり。落ちた2人はこっちに泳いで来ると思ったのに来ない。泳いではいるのに池の縁に上がれないのだ。こっちの手も届かない。そういえば池の底はすり鉢状態になっているらしいから。能願はすぐにきびすを返して夢中で駐在さんに走った。よかった!修兄さんがいた。「友達が池に落ちた!」「また夜鴉の卵か!」修兄さんはすごい勢いで駆け出して行った。能願は疲れて、怖くて行く気がしなかった。じっと待っていると、何時間も経って、「一人は助かると思うが、もう一人はだめだった。肛門がひらいとった。」修兄さんはがっかりして帰って来た。

 9月の薄い雨の日、能願はまた学校に行けなくなって、川を隔てた向かいの山からぼんやり自分の家を眺めていた。うまい具合に雨はしのげる。黒くて古くて大きな家だ。母屋があって、倉があって、納屋があって。家の真ん中に一人では抱えきれない大きな大黒柱あって。そうだ、この家におじいさんもそのまたおじいさんも住んでいたんだ。会ったこともない人だけど、なんか家を見ていると懐かしい気がする。なぜ人は遠くに行ってしまうのだろう。亡くなってしまえばもちろんだけど、生きていても遠くの町に行ってしまう。なぜかなあ、この村にずっといたっていいのに!

 急に雨足がひどくなって薄い壁のように押し寄せてくる。その向こうに人影がみえた。番傘をさして。あ、おばあちゃんだ。小走りで。僕を学校に迎えに行くのだ。僕がサボっているのも知らずに。でもイヤじゃなかった。雨が温かい。花梨の匂いが甘い。

 すっきりとした秋の日に駐在所の修兄さんは新品の自転車に乗ってやって来た。「これ、蒸しパン。おばさんが能願にプレゼントだって。」「こんなにたくさん、ありがとう。」「ばあちゃんと一緒に食べな。」
新しい自転車がかっこよくて、触ったりしていると、「今度少しはなれた町の駐在さんになって行くんだ。この自転車は必需品だってさ。」「え?もう戻ってこないの?」「まあな。」「・・・。」「じいさんの駐在さんがいるから。」「いない、いない!いつもいない!」「はは、ちゃんといるように言っとくよ。」「修兄さんはいつも強くていいね。」「能願だって強いよ。血だらけのばあちゃんをリヤカーで運んで来たときはびっくりしたよ。すごい力持ちだ。」能願は何も言えずに黙っていた。「じゃあな、大きくなったら会いに来いよ。」「うん。」

 やがて11月がやって来る。11月の雨がやって来る。寒くなる知らせだ。ちゃんとしなきゃ。その頃になるとなぜか学校に行くのがそうイヤじゃなくなってきた。気の強いおばあちゃんがバタバタと冬支度を始めてる。

(戦後間もない、とある山陰の記憶を辿って書いています。登場人物は変えていますが、すべて私のふるい、昔の思い出です。)

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