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「暴れ馬」【ショートショート】
財務省本庁の高階にある一室において、表の喧噪に耐えられなくなった財務官僚は遂にキーボードを打つ手を止め、窓から眼下を眺めた。正面出入り口に面した歩道で、数十人の集団からなるデモ隊が声を荒げている。
「財務省を解体せよ!」
「財務省を解体せよ!」
「増税をやめろ!」
「増税をやめろ!」
「これ以上、国民を苦しめるな!」
「これ以上、国民を苦しめるな!」
デモ隊の中央には車椅子に座っている女性がおり、女性が拡声器を通して台詞を発する度に、周囲のプラカードを掲げた者たちが復唱している。プラカードには台詞と概ね同じことが書かれている。年齢層は若者から高齢者までと様々で、性別はやや男性が多い。
財務官僚はデモ隊の観察が終わると、即座に周囲へと視線を配った。何事かと足を止めている歩行者が数人いる。その内の一人がデモ隊に向かって携帯を構えているのを見て、財務官僚はますます眉間の皺を深くした。
国民の財務省に対する非難の声は日増しに多くなっている。数年前までは一部の経済学者が財務省によるプライマリーバランスの黒字化目標が不況の原因になっているという論説を発信し、それに少数の国民が理解を示す程度だった。しかし徐々に同じ考えを持つ人々の輪が広がり、積極財政を前面に打ち出した野党の躍進も相まって、財務省を糾弾する世論が形成されつつある。
財務省を問題視する国民の一部は、SNSや財務省がウェブサイトに設置した意見箱などを通して財務省にプライマリーバランスの黒字化目標を撤回し、積極財政に移行するように求めている。そしてこの声は、デモによって遂に財務官僚に直接届けられたのである。
財務官僚はスマホを取り出し、Xの検索窓で「財務省 デモ」と入力した。すぐにデモの様子を撮影した写真が添付されたポストが目に入る。ハッシュタグには「財務省解体デモ」と書かれており、いいね数やインプレッション数などの数字は瞬く間に増えている。ハッシュタグをクリックして最新のポストを見ると、数分おきに新しいポストが投稿されている。
財務官僚はスマホの電源を落とし、深い溜息を吐いた。栄養ドリンクで騙し騙し続けている重労働の疲れが、一気に押し寄せてくる。胃も痛む。
最早、マスメディアを通じて世論をコントロールできる時代ではない。
財務官僚は再びデモ隊を見下ろしながら、財務省憎しの世論を解消する方法に頭を悩ませた。その思考は問題解決よりも、頭の片隅に堆積している、「間違えているのは自分たちの方」という疑念を追い出すために行われた。
仮に間違いであったとしても認めるわけにはいかなかった。財務官僚は30年以上、馬車馬さながらに国民を一方向に牽引して来た。背中には時の内閣が乗って手綱を握っていたが、人気取りのために口先だけの耳心地のよい抽象的なマニュフェストを語る政治家に政権運営は任せられない。手綱を引かれても従わず、自らの描いた地図の通りに進んで来た。もしその地図――プライマリーバランスの黒字化――が間違いであり、自分たちが知らず知らずの内に国民を干からびた大地に運んでいるのであれば、これほど恐ろしい話はない。
背後の馬車からは財務省がプライマリーバランスに拘る理由に関して、様々な憶測が聞こえてくる。
「確証バイアス(正しいと確信したものを信じ続ける心理傾向)が働いているから」
「過度に保守的で、現行のルールを絶対視し堅守しようとする官僚特有の性質のため」
「財務省では増税に貢献するほど高い人事評価を受けられるから。また出世をすると退職後に天下りが可能になるから」
「労働者が豊かになり力を持つのを恐れる財界のトップたちが財務省と結託しているから」
「財務省の裏にはアメリカを含めたジャパンハンドラー(日本政府を裏から操作する勢力)がおり、経済発展に伴って日本の国力が高まるのを恐れているから」
実際はいくつかの要因が複雑に絡まっているが、根本には考えを改める恐怖がある。
しかし反論した途端、恐るべき実態が自明になってしまうため、今まで通りの進路で黙々と乾いた地面を蹄で叩き続けるのだ。眼前の吹き上げる土煙の向こうにオアシスがあると信じ、枯木を横目にやりながら。
財務官僚はますます確かになっていく自責の念を払拭するために、デモ隊に話の通じない、無知で粗暴な印象を覚えようとした。しかしその手がかりを得ようと視線を向けたとき、怖気を催した。車椅子に乗った女性が、財務省本庁の建物全体ではなく、こちらを……自分をピンポイントで見ていたのである。財務官僚は反射的に逃避を求めたが、女性の視線によってその場に釘づけになり、眼球を中心に体が凍りついて動かない。
女性は嵐の中で目を懲らすような表情を浮かべながら、こちらに拡声器を向けた。ノイズの混じった息を吸い込む音が響く。
「助けてください」
女性が言った。瞬間、財務官僚は繋がった視線を裁ち切り、苦々しい表情を浮かべながら窓のブラインドを下ろした。
ひび割れた大地に重々しい車輪の音が響く。
読んでいただきありがとうございました。
民意が政治に反映される民主主義が、ちゃんと機能しますように。