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【ショートショート】「小さな渦」

堀田絵里が港区の外れにある中小企業で契約社員として働いていた時期は、トラブルの元になる際限のない承認欲求が絶妙な塩梅で満たされており、波風の立ちやすい彼女の人生が珍しく凪になっていた。

彼女は思春期に入った頃からスターになりたがった。その目的は憧れを叶えるためというよりは、スターであるはずの自分がまるで凡人のように扱われている違和感を払拭するためだった。彼女は街中を歩く度に皆が自分を見て、居合わせた幸運に喜びの悲鳴を上げながら握手やサインをせがんでくる光景をまざまざと浮かべていた。

堀田絵里はスターである自分にさっさと気づいてもらうために上京し、紆余曲折あった後、大した成果を上げられないまま現在に至る。

彼女が誰からも注目を集めなかったのは幸いだった。彼女の際限なく肥大化する承認欲求はフォロワーを増やすための手段を選ばせない。実際、彼女は5年後、少数のファンを抱える配信者になると、命綱をつけずに水着で皇居を登る生配信を断交して転落死する。堀田絵里の承認欲求は彼女自身の命さえ呑み込むブラックホールなのだ。

まだ人生のカウントダウンが始まっていない現在、堀田絵里の承認欲求は洗面台に溜めた水を流すときに生じる渦くらいの大きさに留まっている。その理由には、堀田絵里が数々の挫折を経て身の程を知ったことや、生活拠点が港区にあり一応は港区女子でいられていることなどが挙げられるが、一番は同僚たちの工夫だった。

堀田絵里と一年ほど関わっている同僚たちは彼女の扱い方を心得ている。女性社員は陰口によって「堀田さん対策マニュアル」を編み出し、密かに男性社員にも口伝えで共有されていた。その内容は次の通りである。

  • 堀田さんとの会話は長くても5分程度に済ませる。なお話を切り上げるときは仕事を言い訳にすると効果的

  • 堀田さんとプライベードでのやり取りはしない。連絡は堀田さん用に作ったダミーの同僚グループラインで行う

  • 堀田さんの過剰な溜息や鼻歌などによる「何かあったんですか?」待ちのアクションには絶対に反応しない

  • 堀田さんがうざくても無視はNG
    など。

「堀田さん対策マニュアル」さえあれば、堀田絵里が歓迎会の二次会でカラオケに行ったときのようにマイクを独り占めしたり、煙たがられるようになった頃のように突発的に泣き出したりしない。

問題は新入社員である。堀田絵里が中途採用で入社してから初めて経験する4月、マニュアルを共有されていない数多くの新人たちが入社した。

新入社員たちは出勤初日の午前をようやく乗り越えると、大半がオフィスの地下にある食堂に集まった。一度くらいは社食を試しておくつもりである。

活気づいている食堂の中を、日替わり定食の乗ったお盆を持った堀田絵里が歩いている。彼女はいつも以上に長い睫毛を羽ばたかせながら目をキョロキョロと動かし、割と良好な関係を築けてはいるが、ノリの悪い同僚たちの上位互換になりそうな新入社員を物色していた。

堀田絵里は長年の経験から自分のファン兼引き立て役になってくれる相手を感覚的に見分けられる。指標としては垢抜けていない純情そうな女子が該当しやすい。

やがて堀田絵里は、窓際のカウンターテーブルに一人で座る女性の新入社員に目をつけた。何気なく覗き込むと、おかっぱ頭で囲われた顔には化粧っ気がない。ナチュラルメイクではない。きっと大学デビューに躓いてから、メイクを頑張る機会を失ったのだろう。気配を消している様子からも自信のなさが窺える。絶好の獲物だ。

堀田絵里は断りなく女子社員の隣に座った。女子社員はなぜ他の席が空いているのに詰めて座るのだろうと警戒したが、その忙しない目の動きは堀田絵里の良心を一切傷つけなかった。

「会社慣れた?」

「いや、初日なのでまだ慣れてません」

「そっか~大変だね。Bにしたんだ」

「B?」

「Bランチにしたんだ」

「あぁ、はい」

「結構美味しいよね」

「はい」

「でも毎日食べてると飽きるよ。私もほら、日替わり定食にするんだけど、ルーティーンがあるから飽きちゃうんだよね」

「そうなんですね」

「この辺りに住んでるの?」

「いや、ちょっと遠いところにある実家に」

「そっか。じゃあこの辺りにある美味しいご飯屋さんとか知らない感じだね?」

「そうですね。一応面接のときとかに駅前のインドカレーのお店とかには行ったんですけど」

「なるほど。でもまだまだ知らないでしょ?」

「えぇ、まぁ数回しか来てないので」

「だよね。じゃあ今度おすすめのお店連れて行ってあげるよ。行こう?」

「おすすめのお店?」

「うん。洋食屋さんなんだけど、バリエーションが多くて毎日行っても飽きないんだよ」

「そうなんですね」

「じゃあ」堀田絵里はスマホを取り出し、ラインのQRコードを表示した。「はい、読み取って」

「あ、はい」女子社員は促されるまま堀田絵里のラインアドレスを友達追加した。すると途端に行きつけの洋食屋の住所が送られ、直後に他の住所も送られた。

「それは服屋ね」

「服?」

「うん。正直、その格好じゃいじめられちゃうよ。ほら、港区って怖い場所だから」

「そうですか」

「この会社の人たちも、外面はいいけど、心の中は真っ黒だからね。人を見下している連中ばっかり。だから付き合う相手は選んだ方がいいよ」

「なるほど」

「だから私と一緒にいて正解。明日からお昼は外で一緒に食べよう。ついでに服屋も一緒に」

「え~と、お気持ちは嬉しいんですけど、とりあえずしばらくは食堂で食べます。他の味も試してみたいし」

「え~でも私は飽きちゃってるよ?」

「あ、そっか」

「だから行こう?ね?」

「……分かりました」

女子社員は勢いに飲まれて承諾した。すぐに後悔したものの、ライン上で一方的に話を進められたり、楽しみにしている旨を長文で伝えたれたりしたせいで断れなかった。

一度昼休みにランチに付き合った後、女子社員は断る理由が見つからないまま数回ランチに行き、やがて習慣化してしまった。しかし一ヶ月ほど経つと止めどない自慢話とマウンティングに嫌気が差し、かといって他の先輩社員に相談する勇気が湧かず、適応障害になり、休職、そして退職した。

一方、同僚たちは当初の計画通り、堀田絵里が例の女子社員に気を取られている内に、他の新入社員に堀田さん対策マニュアルを共有していた。

時は遡って新入社員たちの初日、同僚たちは堀田絵里と同じように食堂にいた。

同僚たちはテーブルごとに最低一人は待機し、そのテーブルにやって来た新入社員たちに対して、今正に食堂の中央で獲物を探している堀田絵里をこっそりと指差しながら、次のように説明した。

「ほら、あれ。あの不自然なモデル歩きしてる化粧濃い人。あれが堀田さん。そう、あれ。で、何がヤバいかっていうと、要するに超ド級の構ってちゃんなんだよ。常に自分に注目が集まってないと気が済まないって感じ。で、ほら見て、今話しかけたでしょ。あれは絶対餌食になる。堀田さんはさ、何でもかんでも自分の、何て言うか、ほら、ステータスにしたがるんだよ。例えば募金したっていうのを凄いアピールしてくるんだよ。『募金してる私偉いでしょ?』って。他にも『私って自己愛性パーソナリティー障害かも』とかも言ってくるんだよ。つまり何でもかんでも自分の注目を集めるための材料にするわけ。まぁ俺たちの間では本当に自己愛性パーソナリティなんじゃないかって噂してたけどね。で、ここからが本題なんだけど、堀田さんにとって一番欲しいのは、自分より容姿や能力が劣ってて、従順な人なんだよ。だって一緒にいれば自分の美貌や有能さ、まぁ本人が思っているだけだど、堀田さんの美貌や有能さが際立つからね。で、そう。そうなんだよ。今話しかけられている子が正にその絶好の獲物なんだ。いい? あの子は絶対、しばらくしたら休職したり辞めちゃったりするから…」

新入社員は先輩社員の説明を聞きながら、堀田絵里に促されるまま自分のスマホを取り出す女子社員に憐憫の眼差しを送った。

「可哀想ですね」と大抵の新入社員が言った。
「いいんだよ。結局、堀田さんが悪いんだから」と全ての先輩社員が答えた。

こうして同僚たちは新入社員に堀田絵里の扱い方を伝え、堀田絵里は3年の間、数名の犠牲者で腹を満たしつつ幸福に暮らした。


【登場人物】

読んでいただきありがとうございました。
承認欲求モンスターの方が理想と現実の折り合いを付けられますように。

最後に

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