
100分de名著 デュルケーム 社会分業論
NHK「100分de名著」が大好きでいつも見ています。
読んだことのある本を解説してくれる時には「そんな見方、読み方が!」と目からうろこをくれたり、
むしろなかなか自分では読めない、手を付けて来なかった本が多くて、大変面白く、イイトコだけ抽出してくれて楽しく、わかりやすく。
いつも、司会の伊集院光さんの視点に感動します。
今放送中(2025年2月)なのは、フランスの社会学者・エミール・デュルケームの「社会分業論」。
こんなタイトルの本、私、絶対読まない!手に取らない!!(笑)
でもこうやってかみ砕いてもらうと、めっちゃくちゃ面白い!!
現段階で私が見たのは第2回まで。
デュルケーム“社会分業論” (1)個人化/孤立化の時代に向き合う
初回放送日:2025年2月3日
社会学者デュルケームは、近代化が進んだ19世紀後半のヨーロッパで大きな問題に直面。
「果てしなく進む個人化」と「社会の統合・連帯」は両立できるのかという問いだ。
これまでアイデンティティの基盤としてきた職場、家族、学校といった社会集団に帰属意識をもたなくなってきた私たち。
個性や多様性を謳(おう)歌する一方で、他者とのつながりを失って孤立し、他者に頼らずあらゆるリスクを自己責任ととらえる風潮が広がっている。
この状況は、19世紀ヨーロッパの状況と重なる。
第一回は、「個性の違い」と「多様性」を認め合いながらも、一緒に共生できる社会とはどんなものかを考える。
デュルケーム“社会分業論” (2) 自律的個人はこうして生まれた
初回放送日:2025年2月10日
古代社会は、血のつながり、祖先の崇拝、習慣などの「集合意識」を共有することで強固に結びつけられた社会だった。ところが、近代化により大きな変化が起こる。
近代化に伴う社会の拡大とともに、社会を結び合わせていた集合意識がほころび、個人の行動を規定することが困難となる。
その結果、個人の自由は拡大するが、一方で、人々は生きる指針を失い、互いに疎遠になってしまう。急激な社会変動によって生まれた道徳の空白にどう向き合ったらいいのか?
第二回は、近代社会において「自律的個人」が生み出されたメカニズムに迫るととともに、それがもたらした道徳的な問題を考察する。
大学の、社会学部なんかだと、こういう話は基礎として学ぶのかもしれないけれど、だったらどうしてもっと、現代社会では掘り下げられていないんだろう……。
こんなことが学べるんだったら、社会学部を目指したらよかったなあ~~。
なーんて思ってしまうほど、膝を打つ言葉ばかりです。目が開かれる感覚。
「自由」なんて、実は一番しんどいんだぞ、なんて言葉は、確かに何度も聞いたし、実感もしてきたことではあるんですが。元々はデュルケームさんから来ていた言葉なのかなあ。
私が若い頃は、そもそも社会を知らなくて、なあんにも知らなくて、親や学校の庇護をいいことに、何も考えず、結局「社会人」になっても、そのまんま、なすままに流されてきた。それでも生きてこれた、とも言えるかもしれません。
「私に自由なんてないけど快適だよ、時々、自分を縛っている社会規範や、親にさえ抗えない自分の不甲斐なさに悪態はつくけどね」なんて感じで、ほんと、ぼーっと生きてきたのです。
漠然と今は、つい、「昔は良かったなあ、今の若い人はきっとしんどいよなあ生き辛そうだなあ」と思ってしまう。
「昔は良かった」の正体は何なのか。
「今のしんどさ」の原因はどこにあるのか。
そんな私の、日々抱えてきた疑問を、このデュルケームというフランス人学者の、130年も前の本が示していたなんて。
130年前っちゃねえ、明治時代ですもんね。
日本でもまさに、「文明開化」で社会が大変革した大きな節目の時代ですが、フランスではすでに、その100年間に、フランス革命を経験しているわけですから。
日本は今、デュルケームが問題と向き合っていた時代とリンクする、そういうタイミングなのか。
日本はそういう意味では「遅れていた」のかもしれないけれど、
単に遅れていた、と言う話ではないぞ?
まさに、そういう社会の混沌化に抗っていた(島国故に抗えた)、ということかもしれない。
今は、世界のグローバル化によって、タイムラグなんてものはほぼ存在しないんですけどね。
世界中で同じような問題を抱えて、侵食が進んでいるのでしょうが、だからこそ、「遅れている」日本はここでぐっと、考えなきゃならないのでは……。「社会」が。「個々人」が。「社会」で。「個々人」で。
ふと、最近見た映画、
「お坊さまと鉄砲」を思い出しました。
望みもしないのに、与えられる選挙権。それ、必要なのか?って顔の人々。
絶対君主制の中で幸せに生きているブータンにも押し寄せる社会変革……。
笑えてとっても楽しい社会派エンタメでした!
人民の「自由」は勝ち取ったものではない、というデュルケーム。
社会が変革して、望むとも望まずとも、誰もが「自由」へと追いやられて行く。
そうですねえ、、20年ぐらい前からでしょうか、やたらと「自己責任」を言う人が周囲に増えました。
何だか得体のしれない恐怖感がありつつも、私自身が、無知無自覚だから、何もできなかった。そんな、いろんなことを、ふと思い出しました。
個人主義は時に、いわゆる犯罪行為でも肯定してしまえる。誰かの暴走を助長する。
社会が人を罰することにも異を唱える。
社会って何なのか。自由……て、何なのか。ちゃんと考えないといけないなあ、なんて。この年になって。
どんなに長生きしても人間の人生は100年。
その身にでも社会の変容はつくづく感じて苦しいわけですが、
本当に社会は今後どうなってしまうんだろう。
先行き短いゆえの無責任すぎる発言だけど、あり得ないぐらい変革した未来を見てみたい気もするなあ。
何が言いたいんだか。整理もせずにすみません💦
デュルケームの回はまだ続きます。
楽しみにしています!