記憶のピース#13─多重人格の男
※PTSDをお持ちの方は、お気をつけてください。
頭の中にガラス片がガチャガチャと降り注ぐように、途切れ途切れの映像が瞬き始める。そ して映像は現れた。しかし場面が全く違う。私は中学生の制服を着ていて、教師ではない成人した男に覆い被さられていた。何だこれは⁉ 私は頭がおかしくなってしまったのだろ うか。やっぱり私の妄想なのだろうか。それでも懸命に頭を振り絞っていると、再び私は二十二才の体を脱ぎ捨てて、十四才の体へと憑依していった。
猛烈な激痛に身を捩る。下半身 に焼きごてを押し付けられたかのような痛み。苦しい。息が出来ない…… 。その感覚は記憶を通り越して、たった今、実際に痛みを味わっているかのような苦痛を呼び覚ました。何が あったのか?私は思い出さなければいけない…… 。 新築の真新しい新居。中学校から帰ったばかりの私は、居間で呼び鈴が鳴るのを聞いた。玄関の扉を開けると、帽子にサングラス姿の男が立っていた。
男はほんの一時無言で佇み、 「…… 家の人はいますか」 と聞いてきた。家には私しかいなかった。 「今はいません」 そう告げると、 「…… 分かりました」 そう言って男は後ずさり、私は扉を閉めた。ピンポン。五分と経たずして呼び鈴が鳴った。
今度は誰だろう。不思議に思いながら玄関を開けると、また先程の男が立っていた。今度は 気安い笑みを浮かべている。 「付き合って」 「え?」 意味が飲み込めずに尋ねた。この男は近所の人で、「どこかに一緒に行ってくれ」と頼んでいるのだろうか。意味が飲み込めずにいると、男が半開きの扉を抜けてこちら側に近づいてきた。 「付き合って。セックスしよう」 男は両腕を広げて私を覆うとした。私の頭は咄嗟に、あらゆる知識を動員して現状を掴もうと高速で動いた。 「しません」 決然とした口調で応対した。
私を不当に扱う奴は許さない。私は、自分の身を自分で守るのだ。私の態度は完璧だった筈だった。そのまま男を玄関の扉へ押しやる。 「てめえ」 男の顔が歪み、ドスの効いた声が飛ぶ。次の瞬間、私の腹は衝撃でくの字に折れ曲がった。 男の拳がしたたかに打ち付けたのだ。
私はそのまま玄関の固い床に崩れ落ちた。 「殺すからな」 目の前に、小型のナイフが突きつけられた。殺される。私の意識は、痛みと危機感で極限ま で張り詰めた。制服のスカートに男の手がかかる。そのまま腰までまくり上げられ、ゆっく りとショーツが下ろされた。 「汚ねえな」 狂暴さを滲ませた声で男が吐き捨て、体が持ち上がったかと思うと、激しい激痛が貫いた。 「終わったら殺すからな」 私の意識が激痛に途切れた。
気が付くとまた灼熱の苦痛の中、意識を失う。そうして意識の 舳先が難破船のように浮き沈みを繰り返していく中、段々と私の身体は痛みを全く感じな くなった。私は生き延びなければならない。この娘を守らなくてはいけない…… 。 時を超えた傍観者となった私は、自分の意識の異変に気が付いた。私は自分を二人称で呼ん でいる…… 。 中学生の私の頭の中に、友達と回し読みをした成人雑誌のワンシーンが浮かんでいた。この男に私を殺させてはならない。男の敵意を削ぐのだ。やがて私は小さな声で言葉を発した。 「いい」 「気持ちいい」 感情のない棒読みの口調でそれらの言葉を繰り返した。男は怪訝な顔をし、気勢を削が れたように見えた。やがて行為が終わり、男が離れると、私は確かな余裕をにじませながら、 顔に笑みさえ浮かべて服を直した。 「よかった。また会おうね」
男は先程の狂暴さとは打って変わり、暗い目でこちらを睨めつけながら、玄関を出て行った。 いつもブラジャーをつける時はもたついて時間が掛かってしまうのに、この時の私は手早く一度でブラのホックを閉めた。 まるで自分じゃない、大人の女性みたいに。やれやれ。酷く疲れた。これでこの娘に渡せる…… 。 そうして「私」は玄関の上り口へと突っ伏した…… 。
玄関に横たわった姿勢で気が付いた。なぜ私は玄関で寝ているのだろう。学校へは行ったの だろうか。どこかに出かけていたのだろうか。体を動かそうとした瞬間、猛烈な腹痛が襲い床に倒れた。どうしよう。すごい下痢みたいだ。早くトイレに行かなくては。トイレまで這っていき、下着を下ろした。どうやら生理もはじまったらしい。いくら便座に座り込んでも、 便意は一向に催さなかった。なんだろう。風邪だろうか。それとも食あたり…… ?
居間に這っていき、ソファに倒れ込む。痛みで涙が滲んだ。視界の端にカレンダーを見つけて愕然とした。今日は一体何日なのだろう。思い出せない。私は一体どうしてしまったのだろ う。しかし腹痛は横になっていても激しく襲い、私は何も考えられなくなった。救急車を呼ぶべきだろうか。もう少し辛抱してみて、治らなかったら救急車を…… 。
そのまま、私は昏睡するように意識を失った。気が付くと、母が仕事から帰ってきていた。まだお腹は鈍く痛 むが、先程よりは和らいでいるように感じた。母に正露丸を貰うと、私は夕食を摂らずにベ ッドに入った。翌朝目が覚めると、おそるおそるお腹を押してみた。すると昨日の激痛 が嘘のように消えていた。
捻じったり、ひねったりしてみたが、痛みは全くない。私は キツネにつままれたような気分になりながら、文化祭へと向かった…… 。
走馬灯が途切れた。私は映画をリモコンで消し、両腕で体を抱え込んだ。心臓が破裂しそうに波打っている。あの腹痛は、確かに覚えている。あれから生理の大量出血がはじまったの だ。精密検査をしたら膣壁に裂傷が見つかり、私は医師から何度も「性行為をしなかったか」 と尋ねられた…… 。
すべての符号が一致していた。これは、私の記憶なのだろうか。フラッシュバックというものなのだろうか。不正出血の時、私は自分に何かあっただなんて爪の先程も疑わなかった。 こんな風に、レイプをされて全てを忘れてしまうだなんてあるのだろうか?私は一体ど うすれば良いのだろうか。そもそも、この映像が本物の記憶であるという確証はひとつもな い。
それでも、映像はあまりに生々しく、とても何かの勘違いとは思えなかった。小学生の時の加害者は、よく見知ったあの教師だった。では中学生の時の加害者は一体誰なのか… … ?走馬灯の中で、最初に来訪した男の笑った顔と、腹を殴りつけた時の男の凶悪な顔の落差に違和感があり、とても同一人物とは思えない奇妙な変化を感じた。
そして、私は記憶の糸を辿りながら、男と自分が初対面ではないことに気が付いた。 男をはじめて見たのは、骨組みだけが建てられた建築中の新居を家族で見に行った時だった。皆で梁に腰かけ、お湯を沸かしてカップラーメンを食べた。家の周囲はぐるりと古い市営住宅で囲まれている。ふと目を上げると、その市営住宅のどこかから若い男が出てきた。 肩までの髪を金髪に染めており、周囲の風景から浮いていた。
高齢の方ばかりが住んでいる 訳ではないことを意外に思い、軽い気持ちで「ハンサムな人だな」と思った。新居が完成してからも、何度か市営住宅の辺りを金髪の男が出入りする姿を目撃した。いつも同じ蛍光色のジャンパーを着ている。出入りの業者か何かだろうかと思った。ある時、家の前の道路を 正面から男と擦れ違った。
私が男の顔を見止めると、男はまるで何かに怯えるように体全体を縮め、今にも側溝に落ちてしまいそうな程に道の端に寄ってしまった。私は咄嗟に「大丈夫ですか」と声を掛けてしまいそうになった。男の様子はそれくらい不安気で、私はこれ程心許なく見える大人の男を見たことがなかった。
私は「どうしたんだろう」と首を傾げ、それ以来、その男が少し気になるようになった。 ある日の下校中のことだった。もうすぐ自宅の敷地に入ろうかという時、頭上から「ガラッ」 という音が聞こえ、目を上げた。真正面の市営住宅の四階の窓辺に、上半身裸の男が佇んで おり、目が合った。男は目を逸らさずこちらを注視している。私は強い不快感を覚え、動じるそぶりを見せないよう、慎重に目線を外して玄関の中に入った。
それ以後も何度か四階の窓から下を見下ろす男に遭遇し、時に男はまるで見せつけるかのようにゆっくりと服を脱ぎ着していたりするのだった。夕涼み中のベランダで、気が付くと窓から男がこちらを凝視 していることもあった。私は大好きな夕涼みが出来なくなり、苛々とした。
そして、またある時は肩をすくめて路地を歩く金髪の男を目撃する。四階の部屋の窓の奥には、路地ですれ違う男が着ている蛍光色のパーカーが掛けてあるのが見えた。 この、いつもジャンパーを着て心許無く歩く金髪の男は、あの四階の窓の半裸男とは全く別人のように見えた。雰囲気が全く違うのだ。
しかし髪型も顔の造りも全く同じだった。その後も、やはり四階の男と窓越しに遭遇する。私が露骨に目を背けると、男は同室にいるらしい誰かに八つ当たりするように、乱暴な口調で何事かを言い散らしていた。あの心許無い男性がいるのだろうか。性格が正反対の双子なのか?何だか奇妙に感じながらも、それ以上考えることをしなかった。とにかく、私は四階を見上げないように気をつけるよう心掛けた。
そして今、忌まわしい記憶を振り返ると── 。二人の男は同一人物だったのではないかという推測に辿り着く。記憶の中で、最初に笑みを浮かべて来訪した男と、ジャンパーを着た男が同一人物だとはどうしても思えない。そして、私に拒絶をされて憎悪をあらわにした男は、 あの「四階の男」そのものだった。
彼等は人格が別個のものでも同一人物なのだ── 多重人 格者なのではないだろうか。 まだ働いていた頃、古本屋であるブックカバーを手にとった。「二四人のビリー・ミリガン ── ある多重人格者の記録」という本だった。そんな人間が本当に存在するのだろうかと、 疑問に思いながらレジへと向かったが、家に帰ってページを開くと、その衝撃的な内容にみるみる引き込まれて目が離せなくなった。
ビリー・ミリガンとは、一八八〇年代にアメリカで起きた三件の強盗を伴う忌まわしい連続婦女暴行事件の犯人で、その反面、幼少時に受け た性的虐待を伴う壮絶な虐待から人格が分裂してしまい、犯罪行為に至るという過去があ った。恐ろしい犯罪者でありながらも、ビリー・ミリガンのあまりに不遇な人生の側面に触れ、彼を憎み切ることがどうしても出来ない自分に気が付いた。
読み進める内に、心の中で 「頑張れ」とエールを送っていた。彼の別人格は時に完璧な外国語さえ操り、自殺未遂を繰り返しながら、理解ある医師の元で治療を受け、やがて絵の才能を活かしながら社会生活へ と戻っていく── 。 記憶を取り戻した私は、この多重人格者のビリー・ミリガンに対して少しでも感情移入してしまったことに地団駄を踏んだ。この男は憎らしい性犯罪者なのだ‼
あの私を殴りつけた野蛮で卑怯な犯罪者の顔はどこまでも憎らしく、思い出すだけで胸が悪くなるような嫌悪感に陥る。しかし、あの路地に落ちてしまいそうな哀れな男を思い出す と、やはり、あの男を百パーセント憎み切ることがどうしても出来なかった。それくらい、 男の別個の側面は「他人の顔」として認識された。あの男が多重人格者だと思うと、どうし てもビリー・ミリガンの生い立ちを思い出してしまう。あの男にも、壮絶な過去があるのだ ろうか。当時、ビリー・ミリガンに対して感じた同情や共感、穏やかな未来を願う祈りに似た感情を反古にすることは、どうしても出来なかった。