鉄紺の朝 #02
渓燕流 八橋道場
蒼翠に一筋、炭焼きの煙が立ち上っている。それを時折、気まぐれなつむじが散らして行く。麓から続いている道もついえた辺り、雑木林の中に炭焼き小屋に並ぶようにして檜皮葺きの杣小屋が、樹々に埋もれそうに立っている。
杣小屋の扉が開き、中から作務衣の上着をはだけた、三十半ばの男が出て来て、樹々の間から見え隠れする、山道を登ってくる白装束に目を留めた。
白装束の名は、八橋孝太郎。渓燕流八橋道場、師範八橋蒼辰の次男。
作務衣の名は、定兼吉次。刀工。今は刀を鍛える時に使う炭を自分で焼いているのである。
「あー、やはりここにいらっしゃいましたか」
孝太郎が杣小屋の前に立っている吉次を認めると、歩きながら、声を掛けた。吉次はその声にさっと表情を緩めた。
「煙が上がっているのが見えたので、もしやいらっしゃるかもと思い登ってきました」
「今日も、滝ですか」
「ええ、あそこで剣を振ったり、また剣を忘れて滝にうたれたりする事が、心気を鎮めてくれます。しかし、まだまだ日頃の修行が実を結んでいないのか、今朝滝へ向かう途中、何かこちらの邪気が猿に牙を剥かせたのか、行く手を阻まれてしまいました」
「邪気・・・何か邪気を発するような事があったのですか」
「昨日、父に御神前勝負の総代に選んだと告げられまして、それからじっとしておられなくなり、滝にうたれようと思い、夜を突いて歩んでいたところ、猿に出くわしたので、おそらくこの事がそのような気を発したのかと」
「おお、そうでしたか、そのような大役を仰せ付けられたなら、誰しも興奮してしまうのは仕方の無い事ではないですか。それにしても、御神前勝負の総代に選ばれたとは、誠におめでとうございます」
それには一揖をして、
「そういえば、その猿なのですが、先生に鍛えていただいた、この錫杖の鞘に納めた無反りの刀で牙を二本だけ切り落としてやりました」
「なんと、猿の牙だけを切り落としたと、そのような技をいつの間に修められたのですか。私の鍛えた刀も孝太郎さんに提げていただいて本望ですよ。そして必ずや勝負にも勝ってください。その暁にはお父様、お兄様のものにも決して引けをとらないすばらしい刀を、私が精魂を籠めて一振り鍛えます」
「勝つか負けるかは時の運ですが、必ずや先生に良いご報告を持って参りますので、期待してください」
しばらく後、快活に山を下りてゆく八橋孝太郎の後ろ姿を見送る定兼吉次の前を牙の無い猿がとぼとぼと横切って、雑木林へ消えて行った。
「孝太郎はまだ帰って来んか」
水を浴び、さっぱりとして、道場へ戻った源吾に、この道場の師範であり、源吾と孝太郎の父である八橋蒼辰が声をかけた。
道場は朝からの稽古も終わり、木刀や防具などを片付けていたり、手ぬぐいで体を拭うものなどがいるだけで、がらんとしていた。
「御神前勝負も近いのに、朝から稽古にも出ずにどこへ行っておるのだ」
「今朝私が起きた時には、もう部屋にもいませんでした。母にも聞きましたが、母も知らないと」
「朝の稽古の間に顔を出すかと思い何も言わずに待っておれば、いつまでたっても現れはせん」
皆に向かい
「孝太郎を見たら、わしの処へ来るように伝えてくれ」
大きな声を残し出て行こうとする師範に、ざわざわと帰り支度をしていた者の手が止まり、重い空気に包まれた、そこへ
「ただ今帰りました」
と、底抜けに明るい、孝太郎の声。
門下の者一同がそこへ顔を向けた後、すぐに師範の方に顔を向け直し、怒声なり大喝を予感していたが、孝太郎へ目をぐっと見開いた蒼辰は、わずかに頷いて何も言わずに奥へ入ってしまったのである。
またも一同、玄関へ目をやると、白装束を纏った孝太郎が、皆の視線に戸惑って、俺の顔に何か着いているのかと言わんばかりに、立っていた。
「孝太郎」
声をかけたのは、兄の源吾。
「やけに明るい顔をしておるなあ」
孝太郎何も答えずに、笑顔を返すのみ。
その日の午後、道場に八橋蒼辰、源吾、孝太郎の三人の顔があった。板を踏み込む音、木刀を打つ音、叫声怒声が日の暮れるまで続いていた。
田圃の石垣に皐月が淡く色を添えて浮いている中を、浅葱の着物に淡萌黄の帯、緋の帯締めの若御寮が、景色に溶けて歩いている五ツ刻。
腕に薄桃色の縮緬でくるんだ小さな稚児を大事そうに抱え、顔に陽が当たらないように縮緬で日陰を拵えている、八橋源吾の嫁のお滝。
「義姉さん」
後ろから大きな声で呼んで、白紋に鉄黒の袴でかけてくるのは孝太郎。見る間に追いついて、
「母に付いて行ってやれって・・・」
「それは、ありがとう」
「ところで、何処へ行こうとしてるのか、聞いてもいいかい」
「あら、何も聞いてなかったの、そそっかしい人」クスッと笑って
「玉之宮さんよ、佐和と私の初めてのお宮参り。義父さんや義母さんはこの子が生まれて百日にお参りしてらしたんですけど、まだ私は産後の肥立ちが芳しくなくって、ようやく今日お参りする事になったの。それと、先に義父さんと旦那さんは、御神前勝負の寄り合いで玉之宮さんに行ってらっしゃるから、帰りは御一緒できるし」
「わかった」と言って、すたすたと前に出て歩き始めた孝太郎に向かって、
「孝ちゃん、あのね、いつも私のこと『義姉さん』て呼ぶでしょ、あれ、どうもくすぐったいの。小さい頃から『お滝ちゃん』、『孝ちゃん』って呼び合っていたのに、私が嫁いだら急に『義姉さん』だもの、他人行儀よ。私だけ昔のまま、孝ちゃんって呼んでいるのに」
孝太郎は立ち止まり、くるりと振り向いて、
「お滝ち、、いやいや義姉さん、そりゃ、俺だって昔のままの様に呼んでだ方が楽だ。だけど自分の兄のお嫁さんを馴れ馴れしく『お滝ちゃん』なんて呼んだら、兄貴だって嫌な思いをするんじゃないかな。それに、家族としての示しというものだってある」
「孝ちゃんのお兄さんは、そんな事で嫌な顔をするような小さい人ではないわよ。そうだ、今度私が、孝ちゃんに昔のように『お滝ちゃん』って呼んでもらえるように、旦那様に頼んであげる」
それには何も答えず、またくるりと振り向いてすたすたと歩き始めた孝太郎、今更ながら選りに選って兄貴に嫁いだお滝の事に、少々怒りもし、がっかりもしていた。
お滝は、八橋道場から田圃や畑を挟んで何軒か隣りにある家の娘で、孝太郎とは歳が同じで、小さい頃からよく遊び、よく喧嘩もするといった、幼なじみである。お滝の下に弟が一人、妹が一人いる。父親は大工をしていて、腕が立つと評判で藩の普請などにも出入りをしている。
ある冬の寒い日その父親が、足場の悪いところで転んだか、落っこちたかで、腰を悪くして床に伏せていた。医者に来てもらい、薬餌を処方してもらい、安静にしておけばすぐに良くなると言われたものの、一向に回復の気配がない。いつも元気で、玄翁を振り、梁の上を飛び回る事が何よりも好きな人であったのだが、これが寝たきりになると、このままお迎えが来るんではなかろうかなどと、考える事が陰の方へ陰の方へと行ってしまう。母親の藤もそんな夫の姿を見た事も無かったので、おろおろとしてしまっていた。そこへ、八橋道場の師範蒼辰の妻であり、源吾、孝太郎の母である生駒が、
「旦那さんの御加減は如何ですか」と訪ねてきた。
ここに嫁いで以来なにかと、世話になっている生駒には、いつも気丈に切り盛りをしている藤も、ついつい弱音を吐いてしまい。
「あの人、ここのところ、ずいぶん塞いでしまっていて、もうそこまで迎えが来ているだの、三途の川の渡し賃はいくらだの、縁起でもない事ばかり言っているんです。最初は、なに馬鹿な事言ってるの、なんて笑っていたんですが、近頃では本当にお先が短いのかもしれないなどと思ってきて・・・」
涙を両の目に溢れさせ、
「せめて、せめて、孫の一人でも抱かせてやりたい」
こう言われては、情にほだされても仕方が無い。
「私に任せてくださいな。きっと、良縁を結ばせてあげますから。でも、まだ一平ちゃんにお嫁さんをもらうのはちょっと早いわね。それなら、お滝ちゃんをどこかへ嫁がせるのが早いかしら。ところでお滝ちゃんは幾つになったんでしたっけ」
「年が明けると十七になります」
「ちょうど良い頃ね、では、後は相手」
すっかり、自分の事の様に世話を焼きだして、すぐにハッと気づいたのが自分の息子の事、今年二十三で、渓燕流の師範代になって二年、行く末は八橋道場を継ぐ男である。
「藤さん、うちの源吾にお滝ちゃんをどうかしら」
「えっ、」
驚いたものの、否という理由も無く、母同士で快諾となったのである。
それから、あれよあれよと話が進み、年が明け、梅の頃に結納を整え、桜の花がひらひらと舞う中を輿入れとなったのである。
春先になり、陽気も良くなると、寝込んでいたお滝の父親は、すっかり腰の具合も良くなり、いつまで生きられるかなどと言っていたのが嘘の様に大工仕事を始めていた。
孝太郎は前を歩きながら、桜の花びらの中を白無垢で歩くお滝の姿を想いだしていた。あの日、こちらに近付いてくるお滝が、段々と遠くなって行くのを感じていたのを考えると、今もちくりと何かが胸を刺す。
それ以来、孝太郎は、何かから逃げる様に剣の修行に没頭し始め、他の道場へ出稽古に出かけたり、山に籠ったり、そうやってこの一年あまりを過ごしてきた。父も兄もそれを好ましい事に受け取ってくれたことは、孝太郎にとって、修行という逃げ道に入り込む事に、必然、なった。
孝太郎は意識しないままに、剣の道を極めてきた一年あまりだったのである。
「孝ちゃん、ちょっと待って。あまり歩くのが早いと、疲れてしまいます。それに赤子を抱いているので、腕も疲れて参りました」
その声に、ぴたっと脚を止めた孝太郎に、お滝がぶつかりそうになって、
「きゃっ」と声をあげながら慌てて止まった。
「すまん、つい考え事をしながら歩いていて、気がつかなかった。それなら、俺がその赤子を抱こう。しかし俺に抱けるかな」
「え、孝ちゃんが抱いてくれるの」
それから、赤ちゃんに向かって
「佐和ちゃん、おじちゃんが抱っこしてくれるのよ。良かったわね」
自分からそう切り出したものの、孝太郎にしてみれば、生まれてこの方、このような赤子を抱いた事など無いのだから、おっかなびっくりである。やれここに頭が来るようにして、右の手を赤ちゃんの下にまわして、などと手取り足取りでなんとか形になって、
「あそこに渡しが出ていて、船で向こうへ渡ればもうすぐだから、もう少しの辛抱」
孝太郎が口に出したのだが、いったい誰に向かって発したものか、疲れているであろうお滝にか、ぎこちなく抱かれている赤子にか、それともぎこちなく抱いている孝太郎自身にか、お滝はそれがおかしくなって、つい笑ってしまった。その笑い声につられるように、佐和がにこっと微笑んだので
「笑った、佐和ちゃんが笑ったぞ」
「まあ、本当。佐和は孝ちゃんが好きなのね」
その笑顔を見ていると、つい先ほどまで胸に閊えていたものが消えてゆくようで、孝太郎までが笑顔で歩いていた。
雲雀が空へやかましく昇っている、その下を連れ立って歩く二人がいた。
川の土手に男三人が思い思いに腰を下ろし、座っている尻の脇の草を手でちぎり、風にぱっと放しては、ただそれを眺めていた。
「おい、あの子供を抱いている男の顔、どこかで見た事あるはずなんだが、お前わかるか」
「どれどれ、うん、確かに見た事はあるなぁ。誰だったかな。想いだせないな。ところで、後ろを歩いている、女は見た事あるか。やけにうれしそうに歩いている」
「いや、見た事は無い。それにしても、あの男誰だったかな」
そんなことを言っていたが、向こうへ歩いて行ってしまうと、また脇の草をちぎっては風に放していた。
玉之宮神社本殿横に、神主の一家が住んでいる小さな社務所がある。祭礼の談合や行事などが開かれる時には控えの部屋になり、また、旅の一座がここで芝居を行う時などは彼らの宿にもなったりする。
御神前勝負で相見える二つの道場から、師範が供を連れて諸事打ち合わせをしていたのも終わったとみえ
「では、これにて」
神主に辞儀をして先に出て来たのは、千手木流島田道場の島田惣治、供をしているのは竹澤一二三という、二十歳前の好男子。その後に続いて、渓燕流八橋道場の蒼辰と源吾が出て
「ここで人を待つ事になっており、こちらに居残らさせていただきますのでこれにて、失礼いたします」
「そうですか、では、当日また」
島田道場の二人が揃って境内を抜けて行く後ろ姿を見送りながら、
「あの竹澤一二三という若者、なかなかのもの。所作一つをとっても、無駄がない、かといって角も無い。若いうちに無理に木を削ぐ様に型を作ろうとすると、必ずささくれの一つや二つ拵えてしまうものだが」
独り言のように、蒼辰が口にしたのを源吾が聞いて
「剣もかなり使えそうな男」
これまた、独り言のように呟いたのであった。
彼らが去った後に入れ替わるように境内に入って来たのは、佐和を抱いた孝太郎とお滝、木漏れ日の模様を刷きながら歩いていた。
「おう、あれに来た」
そう言って歩み寄って行く源吾は、孝太郎が佐和を抱いているのを見て、驚きながらも「二人を送ってもらってご苦労」と佐和を自分の方へと受け取った。
佐和を兄へ渡した孝太郎は、ふうと肩の荷がおりたように一息吐いて、手水舎へ歩いて柄杓に清水を汲んで、口を大きく開け、溢れる水を気にも留めずに流し込んだ。それから皆の集まっている社務所の前に行き
「自分と入れ違いに出て行かれたのは、島田道場の師範島田先生と御見受けいたしましたが」
「そうだ。そして、若いお供を連れられておっただろう、あれが竹澤一二三と言って、お前と戦う相手だ。手強いぞ」
兄がそう言うのを聞きながら、孝太郎はやはりそうだったのかと思っていた。すれ違った時に一瞬目が合ったのだが、その瞳に因縁めいたものを感じていたのだった。
「手強いぞ」
そう言われたのが何故かうれしかった。
先ほどから土手に座っている三人、船頭小屋の方から歩いてくる二人を見て、急に立ち上がり、そちらから見えない方へぱっと身を隠して頭だけのぞかしている。
「島田先生に見つかったかな」
「見つかる前に隠れられたから、大丈夫だ」
「一緒に歩いているあれは、竹澤先輩だ」
「やはり、今年の御神前勝負、千手木流の総代は竹澤先輩に決まったんじゃないのか」
三人は道を行く二人が遠くになるまで隠れていたが、
「それにしても、何故、俺たち隠れているんだ」
「それもそうだ。別に悪い事している訳じゃないし、ただ、座っていただけだものな」
「おっ、そろそろ腹時計が午を知らせて鳴く頃だ」
土手を這うように上がり、着物に付いた草切れなどをバサバサと払って、土手をおりてそれぞれの家へと帰って行った。
拝殿の中、太鼓がドドーンと響き、祝詞が奏上され、大幣に頭を垂れている間も、お滝に抱かれた佐和は眠ったままで、お祓いが終わった。
寝る子は育つという事を、皆が口にしながら境内を帰っていると、それぞれに稚児を抱えている、絽織りの着物を着た二人の女性が前から歩いて来ていた。
「こんにちは」
お滝が声をかけ、腕に抱かれている子供を覗いて
「あら、かわいい、男の子ですか」
「ええ、二人とも男です」
と応えてお滝に抱かれている佐和に目をやり
「あら、そちらは女の子ね、よく寝ていらっしゃる」
男達は少し行って立ち止まり、振り返って待っていた。それに気づいて少し会釈をした女性が
「もしや、あちらの方、御神前勝負に出られている八橋道場のお人ではございませんか」
「ええ」
「毎年、観させていただいておりますが、いつもたいへんな人出で、なかなか近くで観る事も出来なく、お顔をはっきりと拝見した事もございませんでしたが、もしやと思い、やはりそうですか」
後を継ぐようにもう一人の女性が
「この子達もあのように立派になって欲しいと思い、御神前勝負の開かれる玉之宮さんへお参りに行こうという事になりまして、こうして二人連れ立って来たのです。何かの巡り合わせでお会いできて、きっとこの子供達は立派に育ってくれるように思います」
そう言われると、お滝も自分の事のようにうれしくなり、懐からお守り袋を取り出して、
「これは私が、道場に通う子供達の為に手慰みで作っております物。たまたま今日、私と共にお祓いをしていただこうと懐に忍ばせておりました。お二人の坊やのためにどうぞ御受け取りください」
子供の手に握らせるようにして、
「もう少し大きくなったら、是非うちの道場へ通って来てね」
優しくささやいた。
「ありがとうございます。必ずやそちらへ通わせますので」
お滝は、にこっと笑って
「では、また会う事もあるかもしれませんね。さようなら」
お滝に合わせて男達も一揖をして歩き出した。
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