今のこども家庭庁の存在に意味があるか?
これから意味のあることにしていけばいい、とか意味のあることにしなければならないとかいうことではなく、それが別のところとおんなじやりかたをしている点でもはや意味がないことになってしまうのではないかと思うのです。そう考えるくらい海外でのこども家庭庁の取り組みというのはエッジが効いているというか、実際にその場所に根ざしていることが多いからです。
やはり文科省と厚労省がある以上、日本ではこども家庭庁がその存在を発揮することは難しいのではないかと思います。
この取り組みがどこの何に根ざすというのでしょう?
そして今更いじめの重大事態について何を話し合うというのか?そしてそれがなんの役に立つというのか?この専門家の顔ぶれを一瞥し、zoomの画像を見ただけでもそう期待が持てそうもないことがよくわかります。
実際に学校現場ではいまだにいじめ事案がありますし、重大事案の認定も日々されています。
しかしそのケースワークをどんなに進めても問題は解決どころか、より難しくなっていくだけです。
未然防止というよりはそういうことが起こらないような社会構造を研究した方が良いと思います。特に日本の政治形態というものは国民に対してルサンチマンの生成を強要している部分が少なからずあるのではないかと思うのです。それは元首相が暗殺される国であることからかなり物騒な心性を抱いている人間がいるということを感じざるを得ないからです。
士農工商ではないけれど、下を見て誰かをバカにして満足するということがいまだにこの国ではまかり通っているとしか思えません。それは大人のいじめの場面でもよく見られるからです。
こうしたことから離れていくためにはどうすれば良いのかということです。そういうことがまかり通る社会でなくすることが非常に難しくなっているということです。
少しシビアに自己を見直していくことで少しでも自分さえ良ければ、身近な人さえ良ければ、日本さえ良ければ、という発想から離れ、そして対応しているフリだけしている行政や政治、企業といった強大な権力を持つグループに対して(建設的)批判を加えて忘れないでおくという姿勢を個人個人で持っていくことになってしまうのではないかと思うのです。
さしあたって、この日本全国の困っている子どもに寄り添えないこども家庭庁も、教職員の待遇を改善できない文科省も、有効な政策に予算措置できない財務省も、政府与党と野党にも、批判は加えておかねばなりません。そして忘れてはいけないんだろうなあと思います。
今更いじめ問題の何をどうするのか?それが今いじめれている子ども、そして困っている保護者をどう救うのか?これに対する答えはこの会合にはないし、こども家庭庁にもないということは明白です。何をやるつもりなのか?実現しなくてもいいからはっきり語ってからこういうことを税金使ってやるべきだということです。ただ分析して報告書を作っても何の役にも立たないことを指してお役所仕事というのです。いじめが知りたければ学校に行きなさいよ。話はそれからでしょ。