「勇者であるシリーズ」を振り返る
前書き
2014年のアニメ『結城友奈は勇者である』から始まった「勇者であるシリーズ」、当初はメディアミックスとしてイラストノベル『鷲尾須美は勇者である』が並行して連載されたが、全体としてどの規模まで広がっていくかは不明瞭だった。
しかし、アニメ「ゆゆゆ」二期決定、アニメの300年前の世界を描くイラストノベル『乃木若葉は勇者である』の連載等が次々と発表され、「勇者であるシリーズ」の世界は爆発的に広がっていった。
そして、スマホ用ゲーム『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』(2017-2022)のサービス配信終了を以て、「勇者であるシリーズ」は一応の完結を見た(公式としてはやり残したことがあるらしく、ファイブスター物語みたくいきなり復活するかもしれない)。
結果的に8年に渡る長期のメディアミックスとなったわけだが、作品世界での時系列の幅(約300年)、陣営の数(正史だけで四派閥、外伝を含めるともう少し増える)、入り組んだ血縁・師弟関係により、熱烈なファンでもない限り、全体を把握できていないと思われる。
私はその熱烈なファンの一人なのだが、それというのも、原作:タカヒロが手掛けた18禁ゲーム、『つよきす』『真剣で私に恋しなさい!!』にお世話になったからで、「勇者であるシリーズ」のファンというよりもタカヒロのファンなのである。
この記事を書き起こすにあたり、時系列順に整えるか、キャラごとに整えるか、メディアごとに整えるか迷ったが、結局、私の回想録として自由に書くことに決めた。そのため、文章の流れが前に戻ったり、入れ子になったり、構成に難が出るかもしれないが、ご海容願いたい。
メディアミックス
「勇者であるシリーズ」は一つの世界にしても、視点は個々の媒体によって相当に分割されている。ここでは公式として発表されたものだけを取り扱い、二次創作的な立ち位置にあるものは省く(参考として言及することはあるだろうが)。
アニメ(いずれもStudio五組制作)
・『結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』(2014 アニメ一期)
・『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-』(2017 アニメ二期)
・『結城友奈は勇者である -大満開の章-』(2021 アニメ三期)
イラストノベル(イラスト:BUNBUNで統一)
・『鷲尾須美は勇者である』(2014 執筆:タカヒロ)
・『乃木若葉は勇者である』(2015-2017 執筆:朱白あおい)
・『楠芽吹は勇者である』(2017-2018 執筆:朱白あおい)
イラストノベル外伝(2020-2021 執筆:朱白あおい、イラスト:BUNBUNで統一)
・『結城友奈は勇者である 勇者史外典 上』(「上里ひなたは巫女である」、「芙蓉友奈は勇者でない」前編収録)
・『結城友奈は勇者である 勇者史外典 下』(「芙蓉友奈は勇者でない」後編、「烏丸久美子は巫女でない」収録)
正史コミカライズ
・『結城友奈は勇者である』(2014-2018 作画:かんの糖子)
・『鷲尾須美は勇者である』(2014 作画:moo* 全一巻で打ち切り)
・『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-』(2017-2018 作画:イチフジニタカ)
・『乃木若葉は勇者である』(2016-2018 作画:滝乃大祐)
スピンオフコミカライズ(すべて作画:娘太丸)
・『結城友奈は勇者部所属』(2014-2016)
・『結城友奈は勇者部所属ぷにっと!』(2017-2018)
・『鷲尾須美は勇者である外伝 勇者行進曲』(2017)
・『新米勇者のおしながき〜乃木若葉は勇者である すぴんあうと4コマ〜』(2021)
ゲーム
・『結城友奈は勇者である 樹海の記憶』(2015 PS Vita用 開発:フリュー)
・『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』(2017-2022 スマホ/PC用ゲームアプリ 配信:KADOKAWA 開発:オルトプラス、scopes)
「勇者であるシリーズ」の主人公は誰なのか?
メディアミックスとして長期の展開、かつ複数の視点を持つ作品ゆえ、視聴者がどこまで追っているか? によって誰を主人公と見ているのかまったく異なる。アニメ一期のみならば、当然、結城友奈が作品全体の主人公だと考えるだろう(それゆえ、最終回での「結城友奈の章」の表記は視聴者に衝撃を与えた)。また、『鷲尾須美は勇者である』まで追えば、二年後の「結城友奈の章」にまで跨って登場する東郷美森を主人公だと見做すかもしれない。さらに追えば、そもそもの発端に位置する乃木若葉や白鳥歌野が主人公を冠するに相応しいと思うかもしれない。
要するに、「勇者であるシリーズ」は群像劇であり、チャプターごとに主人公がいる、あるいは、思い切って全員が主人公と言ってよいかもしれない。それでは、「誰が主人公なのか?」という問いも視聴者によって異なる、の一言で終わるではないか!
しかし、ここで私が気にしているのは、「誰を主軸におけば、作品全体の見通しが良くなるか?」である。「勇者であるシリーズ」は作中の時間の幅が長く、陣営も多岐に渡る。チャプターごとの語り手はどうしても必要だが、そのたびに話の主軸が置き換わるようでは全体の構造はわかりにくくなるどころか、余計な混乱を来たしかねない。
そこで、全員が主人公と日和った民主主義者のような立場を取りつつも、物語全体を貫く「主人公」を指名する。見通しが良い、という観点では確かにキャラクターごとに差異があり、当然、最も適したキャラクターというものも一意に決められる。さらには、主軸をはっきりとさせることで、「勇者であるシリーズ」全体、個々のチャプターのどちらにおいても、統一ある論法で語りを進めることができる。
私が考える主人公は東郷美森と乃木園子である。「最も適した」と限定した割には二人いるじゃないか! と異論反論が噴出する声が聞こえる。事実、私も論評においてはどちらか一人にまで絞ることが肝要とはわかっているが、この二人、キャラクターとしてというよりも、設定として微妙な関係にあるのだ。
アニメ一期BD/DVD特典として、公式ADVが付属しており(制作:みなとそふとなので安心安全のクオリティーだ)、本編の零れ話というか、裏設定のようなものまで触れられている。そのなかで、安芸先生によって「勇者と巫女、両方の素質を持つものが救世主である、と大赦には言い伝えがある」と語られている。勇者と巫女、両方の素質を持つのは作品全体でも東郷美森一人であり、天の神戦ではまさに救世主の活躍を見せた。
ところが、初期のメディア展開、特に「樹海の記憶」では乃木園子に巫女の能力があるような描写が散見され――殊に、夢見による予知能力が顕著である。そもそも、「樹海の記憶」の世界は精霊の力を借りて園子(小)が作り出した夢のなかであり、その精霊も枕返しや獏など夢に関する妖怪が多い――初期設定では園子が救世主の立場として想定されていた可能性が高い(あくまで私見であると、念のため断っておく)。
園子の出自自体、初代勇者、乃木若葉を先祖とする乃木家の生まれで、同時に初代巫女、上里ひなたを先祖とする上里家の血も混じっているとほのめかされている――「花結いのきらめき」ではこの傾向が顕著であり、若葉の口から「園子は私よりもひなたに似ている」と語らせたり、東郷ですら理解できない園子の言動をひなただけは理解している、などなど――作品世界において、乃木家と上里家は王族に匹敵する名家であり、婚姻関係を持つこと自体も不自然ではない(ファンのあいだでは、「どの時点で血が混じったのか?」がたびたび議題に挙げられる。過激な説では、若葉とひなたが直接交わった、とするものもあるが、そのあたりはぼかされたままだ)。
メディア展開が進むにつれ、園子の予知能力は「天才の感覚が成せる直観」と解されるようになっていく――園子も勇者と巫女、両方の素質を受け継いでいてもおかしくはないが、結果的に開花したのは東郷のみである。ただ、「大満開の章」最終回の、「その後」の結末を鑑みるに、園子が勇者と巫女、両方を統べる役割を担う存在であるに違いはなく、この記事ではそれらを踏まえ、東郷と園子の二人のキャラクターを、救世主という一つの立場に溶け合わせて主人公としたい――この一つの役目を二人は絶妙に分かち合っているのだ。
それぞれの系譜
「勇者であるシリーズ」は息の長いコンテンツであり、正史に関わるキャラクターだけでも30人以上、脇役まで含めるとさらに増える(それでも『水滸伝』や『戦争と平和』よりかはだいぶ有情だが……)。ファンが作品を語るときも、個々のキャラクターよりかは各陣営としてまとめて扱う場合が多く、一度、物語全体の陣営のそれぞれを書き出しておいた方が良さそうだ――区分は正史に則り、呼称は「花結いのきらめき」やファンからの通称を参考にする。また、カテゴリー(・)、サブカテゴリー(・・)の二重構造で分類する。並びは作中の時系列順である。
・西暦組
・・初代勇者組(丸亀組、のわゆ組)
乃木若葉、高嶋友奈、郡千景、土居球子、伊予島杏
・・初代巫女組(大社の巫女)
上里ひなた、安芸真鈴、花本美佳、烏丸久美子
横手茉莉(カテゴリーはここに当たるが、「烏丸久美子は巫女でない」以外のメディアでの言及がほとんどなく、また、大社に下らなかったため例外的な立ち位置にある)
・・諏訪組(蕎麦派)
白鳥歌野、藤森水都
・・地方組(沖縄の勇者、北海道の勇者)
古波蔵棗、秋原雪花
・神世紀組
・・ふゆゆ組(29年組、初代勇者部)
芙蓉・リリエンソール・友奈、柚木友奈
・・鏑矢組(72年組、象頭町組)
赤嶺友奈、弥勒蓮華、桐生静
・・中立神の巫女(168年組)
天馬美咲、法花堂姫
・・神樹館組(298年組、小学生組、先代の勇者)
鷲尾須美、乃木園子(小)、三ノ輪銀
・・讃州中学組(300年組、元祖勇者部)
結城友奈、東郷美森、犬吠埼風、犬吠埼樹、三好夏凜、乃木園子(中)
・・防人組(ゴールドタワー組)
楠芽吹、加賀城雀、山伏しずく(シズク)、弥勒夕海子、国土亜耶
いざ書き出してみるとやはり多い――これだけでも作品世界の広さがわかるが、当然ながら、この区分は同時代、同地域に注目した分類である。個々のカテゴリーについても、とうに語り尽くされている感があり、掘り返す必要を感じないため、この記事ではまた別の区分法を採用する――地域・所属等、空間による横の繋がりではなく、血縁・師弟関係等、時間に基づいた縦の繋がりとして再度分類するのだ――多くの作品では縦の繋がりまで意識することは少ないが、作中時間の幅が広い「勇者であるシリーズ」においては、却ってこの系譜を明確にすることで、全体の構造や調和がわかりやすくなる。緯糸に経糸を組み込んで、一つの模様が浮かび上がる錦のようなものだ。
ところで、縦の繋がりと言っても、その方法は(こじつけのようなものもも含め)無数にある。そこで、一意的に定まるよう、次の三つの基準を設けた。
・選択肢が二つある場合、「より見通しが良くなる」方を採用する。
・何かしらの形で「救世主」(東郷美森、乃木園子)に紐帯する。
・同キャラクターの、別カテゴリーでの重複を許す。
この基準で分類、そして個々のカテゴリーに言及すれば、『「勇者であるシリーズ」を振り返る』というこの記事の要求にも耐え得ると思われる――私見や独自解釈をなるべく避け、また、物語全体を漏れなく覆うことができよう。結果、以下のような分類ができた。こちらもカテゴリー(・)、サブカテゴリ―(・・)の二重構造とする。
・大赦の大黒柱
・・乃木一族
乃木若葉、上里ひなた、乃木園子
・・友奈族
結城友奈、高嶋友奈、赤嶺友奈、芙蓉・リリエンソール・友奈、柚木友奈
(烏丸久美子、横手茉莉: この二人は友奈ではないが、高嶋友奈とは切っても切れない関係なので、構成上ここで取り扱う)
・勇者と反勇者
・・黒髪族
東郷美森(鷲尾須美)、郡千景、弥勒蓮華、柚木友奈(芙蓉・リリエンソール・友奈)
・・赤の系譜
郡千景、三ノ輪銀、三好夏凜、楠芽吹
・・緑の系譜
白鳥歌野、藤森水都、楠芽吹、山伏しずく(シズク)、天馬美咲
・日常と調和
・・日常の導き手
犬吠埼風、古波蔵棗、弥勒夕海子
・・ジェスター
秋原雪花、桐生静、花本美佳
・・黄色の系譜(姉組)
土居球子、安芸真鈴、法花堂姫
・・黄色の系譜(妹組)
犬吠埼樹、伊予島杏、加賀城雀
・大赦の大黒柱
・・乃木一族
乃木若葉、上里ひなた、乃木園子
日常と非日常を明確に区切るところに「勇者であるシリーズ」の特色の一つがあるわけだが、非日常(バーテックスとの戦闘)の象徴として、大赦(西暦時代においては大社。改名の経緯は「上里ひなたは巫女である」参照)が置いてあるわけだが、この大赦、本当に象徴と言う他ない――アニメ版においてはまったくと言ってよいほど、内部の描写がなく、与えられた情報も断片的に過ぎる――その内部に焦点がある「うひみ」も、官僚制度の色濃く残る大社がどのように、家制度の優勢な大赦に塗り替えられていったか、が語られるのみで、乃木若葉と上里ひなたが組織のトップに立ったところで話が終わり、その後は「ふゆゆ」等でほのめかされるに留まる。無論、大赦内部の構造について、考察の余地はあまりあるほどあるが(アニメ三期で描写された元老院の一人は園子の実父なのか? だとか、夏凜の実兄、三好春信は反体制的な立ち位置だったのか? だとか)、いずれも論拠に欠けるため、下手な火傷を負わないためにも口出ししない方が丸いと思われる――日和って申し訳ない。この意味でも、大赦は「象徴である」としか言いようがないのだ。
ただ、大赦が家制度に基づいており、当然、貴族・華族に当たる家柄も存在することは明らかだ――それも、勇者または巫女を輩出した家は格式が上がるらしく、登場人物のほとんどは(多少の例外はいるにしても)上流階級に属することになる――事実、東郷家や犬吠埼家は大赦より援助を受けていることが語られている。そして、初代勇者と初代巫女を輩出し、大赦の枢軸ともなっている乃木家と上里家は王族に匹敵する扱いをも受けている――大赦の記録上は、初代に若葉とひなたを据えているにしても、時系列上は白鳥歌野と藤森水都が初代に当たるだとか、面倒な話は全部後に回す――王族のいない国ゆえに、王族と同格にまで祀り上げられたケネディ家のようなものだろうか?
非日常の象徴、大赦の大黒柱は乃木家・上里家で間違いはなく、若葉とひなた、そしてその子孫である園子の三人はこの枠組みで語ろうと思う――ただ、物語全体の暗黒面を担う部分でもあるため、非常に厳しい見方になるかもしれない――語弊なきよう、私はひなた様を敬愛していると断っておこう。
若葉については、初代勇者として作中で知らぬものはいない上に、後世では尾ひれまでついて語り継がれていると何度もネタにされている――だが、この若葉、何というか、初めから完成しすぎていて存外語るところが少ない。勇者のなかの勇者、あるべき英雄として立ち位置ゆえか、人間としての歪みがなさすぎるのだ――勇者たる標準形を考え、そこからの歪みを少女として、延いては人間としての特質と見做して話を展開しようとすると、どうしても若葉が標準形そのものとなってしまうのだ――まあいいや、適当に話を進めよう。
「花結いのきらめき」でこそ、ボケ倒しているが、正史での若葉の活躍はまさに英雄と呼べるものだった――死後(?)には青い鳥の姿となり(神道由来なのか、仏教由来なのか、確証に乏しいが)、後世の勇者・巫女を見守る役目も担う。剣技や武士道は祖母から教わったものらしいが、正直なところ、貴族階級としての武士というよりかは戦闘部隊としての初期の武士に近いように思う――殊にその気質が強く出ているのは、敵に敬意を払わないところであろう(さすがに、人間ならざる仇敵に敬意を払えという方が無理な話ではあるが)――この点がひなたと園子、上里の血筋との最たる違いで、この二人、バーテックスに対して畏敬のようなものまで抱いており、一歩引いた上で独自の考察を行っている――そして、バーテックスが天の神の使いであると明かされる前から、合点がいっていた節がある。
もちろん、先陣を切る役目と参謀に回る役目で意識が違うのは当たり前だが(と言うか、同じ見識だったら役割を分ける意味がない)、若葉は誰よりも前線に特化した思考回路を持っている――「何事にも報いを」を標榜する祖母からの稽古のなかで培われたものだろう――反面、この無慈悲と取られかねない行動パターンが周囲との不和を招いてもいる(「花結いのきらめき」では鳴りを静めたが、「のわゆ」本編では如実である。殊に、アニメ版では千景にフォーカスがあったためか、必要以上に若葉の無慈悲が強調されていた)。ただ、不和についても、若葉に悪意があるわけではなく、その反対に立つものと同様であるために、これが却って互いの無理解の解消を妨げている。例えば、数学者や多国語話者はときたまこのような質問をされる――「なぜ、ぱっと見ただけでわかるのですか?」――実際のところ、この答えも一つしかない――「見たからわかるのだ」。当然、質問者はこの答えに納得しないだろう――しかし、数学者や多国語話者は一見しただけで理解までに訓練したのだから、見ればわかるとしか言いようがない。実力差に根のある、このような食い違いは現実でも多々見られるものだ。
若葉の言動も、長い鍛錬のなかで培ったもので、そそもそもこに悪意が入り込む余地はない――というよりも、見たものを機械的に処理する思考回路が独立しており、本人ですらその処理を意識をできているわけではないと思われる。この「見ればわかる」が若葉を英雄にした根本であり、人間関係を拗らせれる要因であり、仲間たちとの理解を阻害する城壁だ。
読者は、なぜ私がこんな安っぽい自己啓発本のようなことを言い出すのかと、嫌悪するだろうか? 実のところ、この「独立した思考回路を持つ」、というのは、若葉を語るにではなく、ひなたと園子を語るに必要になるので、先に出したかったのだ。というわけで、若葉の話を仕舞いにしてひなたの話に移る。
上里ひなたは登場初期でこそ、「腹黒い幼馴染」くらいにしか捉えられていなかったが、メディア展開とともにその経歴が明らかとなるにつれ、ファンから「諸悪の根源」「真の敵」「魔王」など散々な謂れように至った――大社を大赦に改めた辣腕や悪知恵ゆえの評価だが、この時期のことはほのめかされるばかりで、実際のところ、ひなたが何をしたのかは未だ全貌が隠されている。そのバックグラウンドに加え、自ら悪役を演じる癖があるらしく(「ふゆゆ」において、その描写が顕著である)、「花結いのきらめき」でもついに部員たちから「親玉」「裏の勇者部リーダー」と認識されるようになっている。
ただ、ひなた様を敬愛する私としては、このあたりに蔓延る誤謬を訂正しなければならない使命に駆られる。若葉の対となる形で、ひなた様は参謀としての思考回路を身に着けている(「花結い」の石紡ぎの章を見るに、訓練等の末ではなく、生まれ持った天賦のものらしい。このあたりはフィクションとして流すところだろう)――この能力が悪徳政治家や独裁者のように見せかけることも否定はしないが、ひなた様も若葉と同じく自分の意思と無関係に物事を処理しているだけで、そこに悪意や邪気が入り込んでいるわけではない。「勇者付きの巫女」という立場ゆえか、ひなた様を主観に置いたメディアは長らくなく、若葉や千景の目を通しての描写に限られていたため、「鬼を秘めている(若葉評)」「何を考えているのかわからない(千景評)」「年不相応に大人びた気味の悪い少女(大社神官評)」等の発言が視聴者の印象にも影響を与え続けてきた(同じ構図は友奈族、特に高嶋友奈にも当てはまる)。しかし、「勇者史外典」として『上里ひなたは巫女である』が公開されたことにより、ついにひなた様の内面が描かれることになったのだ。
ひなた様もまた悩める少女の一人であり、殊に、自分がときに無慈悲に徹せてしまうことへの自覚、そこから生じる自己嫌悪に焦点が当てられていた――内省もまた年不相応に論理立ったものであり、仕舞いには「自分は生まれ持った反射によって若葉を愛しているように振舞っているだけではないのか?」「若葉が自分の役に立つために、無意識の計算で隣にいるだけではないのか?」と極論にまで行き着く(自分自身への)非情も露わになる。「うひみ」はひなた様が安芸真鈴、花本美佳、烏丸久美子――「勇者を見出した巫女たち」と連合を組み、大社で頭角を現す経緯が表向きだが、その根底にはひなた様が若葉への愛を問い直し、生涯寄り添う決意を改めて固めるまでの意識が流れている。そして、「うひみ」はこの決意と大赦への改名を以て完結となるが、その後の顛末は「ふゆゆ」「赤嶺友奈の章」等、後世に残された事実によって明かされる絡繰りになっている――ひなた様は生涯に渡り若葉を支え続け(若葉は「のわゆ」「赤嶺の章」等の描写から神世紀72年に逝去したと解されるが(享年87)、その死因、及びひなた様の存命は未だ不明である)、若葉をスポークスマンに仕立て上げ大赦を裏から操り、家制度・秘密主義による支配を確固たるものとした――いや、やっぱこいつ邪悪では?
そして、そんな初代勇者・初代巫女の末裔に位置するのが乃木園子である――園子に上里の血が混じっているのかは、明記こそされていないが、ほのめかされる描写からそのように解した方が自然と、この記事では扱う――若葉の武士の思考回路とひなたの参謀の思考回路を併せ持ち、まさしく「最強の勇者」と冠するに相応しい――勇者となったのは「わすゆ」時点、神世紀298年であるが、その後の復帰はアニメ一期終了直後、神世紀300年の秋であり、神世紀301年の春が天の神戦であるため、正真正銘「最後の勇者」と呼べるだろう(このような言い方では自称完成型勇者・三好夏凜の立つ瀬がなくなるが……)。まさに物語全体の最奥たる立ち位置にあるが、前述のメディア展開における諸設定の修正により、「主人公または救世主」の役割は東郷美森と分かち合っている。乃木一族のチャプターでは救世主として園子が請け負った部分にスポットを当てよう。
シリーズ全体を俯瞰すると、救世主としては東郷が光の面、園子が闇の面という感じを受ける――もちろん、この二項対立で何もかも説明できるものでもないが。また、別の対立としては、東郷が「動」、園子が「静」とも捉えられる――「花結い」では暴走に暴走を繰り返しているが、園子は本来、大人しくて口数も少ないキャラなんだよ!
ただ、私たちは何でもかんでも利益/不利益に結び付けがちで、東郷が救世主の利益を独り占めし、不利益ばかり園子に押し付けている印象も同時に抱くかもしれない。確かに利益/不利益で言えば、東郷に有利が傾いている感は否めない――が、園子はそれを承知で負の部分を請け負い、東郷もその思いを汲み取ってもう片方に甘んじている塩梅である。この支え合いが物語の根幹に流れるテーマにも通ずることになり、また東郷・園子双方の魅力をより深める結果にもなっている。アニメ一期の時点で、この対比は表立っており、この記事では、二人がどの時点で互いの立場を理解し、そして受け入れるに至ったかに焦点を絞ろう。
現実の時間に合わせると、乃木園子の初登場は『鷲尾須美は勇者である』である――アニメ一期と同時並行の展開であり、リアルタイムで見ると「わすゆのその後、結城友奈の時代で園子はどうなっているのか?」は宙ぶらりんにされたまま話は進んだ――この状況が大きく動いたのはアニメ一期八話「神の祝福」(園子のモチーフ、青薔薇の花言葉)が放送されたことによる。園子は全身を包帯に巻かれたまま、ベッドごと結城と東郷の前に転移してくる(しかも、四肢欠損しているようにも見える)、という衝撃の登場を果たしたのだ――「わすゆ」と並行して追っていた視聴者は、「わすゆ」がバッドエンドに終わることを悟り(連載はちょうど、三ノ輪銀が戦死したあたりで、雲行きが怪しくなっていた)、アニメのみ追っていた視聴者も明らかにヤバいものが出てきたので戦慄した。真相が明かされる前から「東郷美森=鷲尾須美」説は根強かったが(他の説も、双子説やら転生説やらクローン説やらで、二人が何かしら同一である見方は共通している)、アニメ一期十話「愛情の絆」(東郷のモチーフ、アサガオの花言葉)にて、ついに二人が同一人物であることが判明する――だが、悪い予感が当たった形であり、しかもこの回、園子が再登場するのだが、大赦内部の明らかに異質な部屋で祀られている光景は当時の視聴者を阿鼻叫喚に叩き込んだ。そして、東郷が反逆に走る十一話へと進むのだが、「これ、本当に風呂敷を畳めるのか?」「まさかの世界滅亡エンド?(『伝説巨神イデオン』やら『新世紀エヴァンゲリオン』やら『魔法少女まどか☆マギカ』やらトラウマを掘り起こされる者が続出していた)」と凄まじい反響を呼び、そして最終回のラストシーン、「結城友奈の章」の表記により、全体の物語のなかで、アニメ一期が1シーンに過ぎないことが予告された――当時、十話以降の展開は賛否両論であり、私も初めのうちは否定的な意見だった(「のわゆ」やアニメ二期に触れてようやく、むしろアニメ一期の(情報や予算が)制限されたなかではこの落としどころしかなかったと考えを改めた)――しかし、この記事では作品の周辺、当時の反響は掘り下げず、十話以降の東郷と園子がどのように互いを把握し、どのように結託したかを書き留めよう。
まず断っておかなければならないことは、アニメ一期の終盤において、「東郷は「わすゆ」の記憶をすべて失っており、一方で園子はすべて覚えている」という構造である――正直なところ、リアルタイムで追っていると、この仕組みを忘れがちであり、決して視聴者に優しい作品ではなかった(鬱展開があまりにも強烈、という意味でも)――私も設定等を見返してようやく得心がいったくらいだ。特に、アニメ一期のみの視聴で「わすゆ」は追っていなかった等、園子のバックグラウンドを知らなければ、その行動は不可解であり、「電波」や「すべての黒幕」にも見えかねない――いや、園子にそういう面があることも否定はできないが……。
アニメ一期を理解するに、「わすゆ」及び「ゆゆゆ」の物語を熟知する身でありながら、ベッドから動けなかった園子が何を考え、どのように手引きしたのかを掘り下げる価値は十分にあるだろう――このときの心情はアニメ一期BD/DVD特典のADVや「花結いのきらめき」のストーリーの記憶で補完されるのだが、触れずままにいる視聴者も多くいると思われ、その意味でも語る必要性を感じる。アニメ一期終盤、舞台裏にいた園子は直接描かれることはなく、複数のメディアに目を通した上で状況を再構成するしかないのだ。
アニメ一期八話「神の祝福」にて、東郷美森(鷲尾須美)と二年ぶりに再会したわけだが、「(ひなたと同じく)自分の内面をひた隠しにする」というキャラ付けゆえ、このときの感情は非常に読み取りにくい――もちろん、再会の感動と(自分と銀の)記憶を失っている東郷への絶望に板挟みになっていたと解するのが自然だが、園子は泣き喚くことも怒り出すこともなかった――初期メディアでの性格や言動の差異も含め、園子はとにかく立ち上がりの悪いキャラクターだったのだ。十話「愛情の絆」にて、東郷に「世界の真実」を明かすが、この真意ものちのメディアで語られる形であり、東郷が暴走するように操ったようにも見える――いや、実際に操る意図はあったのだが、悪意ではなく逃れられない絶望が先走った理由である。ベッドから動けないまま祀られているあいだの園子は、当たり前と言えば当たり前だが、大赦に対して強い反感を抱いており、さらには神樹への懐疑、(辛うじて生かしてもらっている)世界への嫌悪にまで繋がっている――西暦組に比べ、神世紀が信心深いとは繰り返し指摘されていることだが、例外的に園子は神樹に不信、というかは神様ではなく、一つのシステムと見ている節が強い(神世紀組でありながら、神樹への懐疑を持つ点では、楠芽吹も同じだが、こちらは明らかに反骨である)――盤石のシステムに対する反逆として自害に走る、というのは20世紀以降見られるようになったテーマの一つだが(信仰を根底に説いたり、孤独感を根底に説いたり、論法は様々にしても)、園子に関しては自殺すらできない身の上にある――この状況下で再会した旧友は(東郷特有の)物事を考えすぎてドツボに嵌っている状態であり、園子からしてみれば、「神樹を殺し、世界と心中する」手段が向こうから転がり込んできたようなものである。結果としては、東郷の被害妄想につけ込んで唆し、世界と心中する選択を選ぶわけだが、この飛躍も、ひなた譲りの非情な論理による帰結というよりかは、銀の戦死時と同じく、激しく取り乱していたという解釈を私は取りたい。
また、現勇者(讃州中学勇者部)が先走った際、制圧する任務を負っているとは、アニメ一期十話で園子自身の口から語られたことだが、九話での風の暴走、十一話での東郷の反逆と二度、出動するタイミングがあったにも関わらず、どちらも命令無視に徹している――特に、二度目の東郷のときには、(神官も説得に必死だったゆえ)銀の名を引き合いに出したことで園子の逆鱗に触れ、却って心中の覚悟を強める結果となっている――このときに発した「ふざけないでよ」という台詞は、園子を象徴するものとしてファンのあいだで定着した。
以上が、アニメ一期十話以降、舞台裏で起きていたことだが、「勇者であるシリーズ」全体から振り返ると、このときの園子は勇者の暗部の方向に逸脱し過ぎていたと言う他ない――二面性は園子を特徴づける最たるものだが、初期メディアであまりにも闇が噴出した結果、アニメ二期や「花結い」等で見られるその後の園子は、シリーズを丁寧に追っていなければ不自然にも見えてしまう――こちらの天才気質で、脳天気な方も確かに園子であるのだが。「勇者であるシリーズ」は園子を把握することが最難関であり、また、最重要であるため、途中参入のハードルを上げてしまっている感じは否めない。
以降のメディア――アニメ二期/三期や「花結いのきらめき」での園子は表と裏、本来のバランスを取り戻しつつ動いているように思える(園子のキャラクターの変遷を考えると、初期メディアの描写を「本来」と呼ぶべきかもしれないが、ここではキャラの定まった中期以降を指している)――アニメにおいては天才の面が強く出、先の展開を予感させる台詞回しも多い(『DEATH NOTE』でLの天才性を表すため、悉く言い当てていたのを思い出す)――「花結いのきらめき」ではぶっとんだ一面が惜しげもなく披露され、シリアスなアニメから移行すると面食らうかもしれないが、私としてはタカヒロっぽいキャラに落ち着いたな、という印象だ。とにもかくにも、アニメ一期以降において(あるいはアニメ一期も含め)、園子は作品の設定や展開そのものを構成するような立場に落ち着いている――「花結い」に至っては、各種イベントの先導もとい扇動、「スタッフの代弁者か?」と思わせる言動等、メタ的なギャグも連発する(夏凜、雪花、雀もメタ台詞が多いが、やはり園子が如実に多い)。サブカルのキャラクターは舞台に動かされるべきか、独立して動くべきかなど、一般のキャラクター論にまで押し広めはしないが、園子に関しては(善し悪しは置いておいて)舞台装置と密接なキャラクターなのだ――メディアによって異なる顔を見せることこそ、園子の魅力とも言え、それそれまで別個に踏み込むのは僭越が過ぎる気もするので、園子の話もここで区切る――畢竟、覚えておいて欲しいのは、アニメ一期の園子は非常に逸脱した状態にあるということだ。
・・友奈族
結城友奈、高嶋友奈、赤嶺友奈、芙蓉・リリエンソール・友奈、柚木友奈
(烏丸久美子、横手茉莉: この二人は友奈ではないが、高嶋友奈とは切っても切れない関係なので、構成上ここで取り扱う)
ファンのあいだでは、「友奈」の名を持つキャラクターを総称して「友奈族」(結果的に五人にまで増えた)と呼んでいるが、「勇者部活動報告」(本作のインターネットラジオ配信)に加え、「花結いのきらめき」作中でも静が「友奈族」と呼ぶシーンがあり、半公式のようなものなのかもしれない。
このチャプターでは、個別の友奈たちではなく、「友奈族」という一本の血筋(?)について書くわけだが――それぞれの友奈については当該作品に当たっていただきたい――結城友奈と高嶋友奈の対照を記すに留まると思う。赤嶺友奈の章は未だ冒頭部分が公開されただけであり、芙蓉・リリエンソール・友奈と柚木友奈の二人が登場する「芙蓉友奈は勇者でない」は外伝として、意図的に物語の本筋からは遠ざけられている――要するに、「友奈族」の中間部は依然抜け落ちたままで、今のところ、「友奈族」の性質は結城友奈と高嶋友奈の二人に集約している――このチャプターに関しては今後、新規公開等によって否定されることがあるかもしれないと断っておく。また、以下では区別のため友奈たちを主に名字で表記する。
結城友奈と高嶋友奈の対照に主軸を置くわけだが、正直なところ、この二人の関係は説明が面倒だ――最後の友奈と最初の友奈という設定上の問題ではなく、この二人に明確な区分けが見られるようになったのが、中期メディア以降なのだ。どうも、高嶋友奈は造形が固まり切る前に「花結いのきらめき」に参戦した感じだ――長期に渡るメディアで、キャラクターが変化していくことは珍しくないものの。そのため初期メディアでは、結城が高嶋のポジションも兼任していたと思われる名残りがある。
アニメ一期放送後、設定資料や新規イラストノベルを収録した『結城友奈は勇者である ビジュアルファンブック』が発売された。そしてこのなかに、意外な設定が載っている――「結城友奈は他人に過剰に反応する女の子で、特に争うことを恐れている。実は、とぼけたような態度もフリであり、空気が読めていないわけではない」――結城にそんな設定があったのかと驚く反面、今から振り返ると当然、「それは高嶋の方では?」とも思う。どうやらこのあたりが、メディア展開に沿って、結城から高嶋に分離していったところらしい。「ビジュアルファンブック」に書かれたことが間違っているわけではないにしても、この設定は高嶋に移っていると考えるべきだろう――それだと、「結城の方の友奈は本当に空気が読めていないだけじゃないか!」となるが、「花結い」や「勇者部所属」の活躍を見るに、読めていないとしか言いようがない。
結城の方がアホになった中期以降のメディアでは、「私生活が謎」という設定もまったく高嶋に引き継がれている――そのためなのか、アニメ二期では自室も公開され、案の定というか本棚には少年漫画ばかりが並んでいた(『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!! マサルさん』らしきものもあり、なかなかの趣味だ)――ただ、東郷さんの奇行が極致に達した場面でもあり、喜ぶところなのかドン引きするところなのか視聴者を困惑させた。
高嶋は長らく経歴不明の状態が続き、秘匿については結城以上に徹底していた――ようやく高嶋の過去が明かされたのはメディア展開も最後の最後、『勇者史外典 下』収録「烏丸久美子は巫女でない」にてだ。どうも、本編以外でも自分の身の上を話していないらしく、「花結い」では「私を見出した巫女は烏丸久美子さん」とあからさまに言及を避けている。なので、高嶋の過去を知っているキャラクターは「かくみ」の当事者である烏丸久美子と横手茉莉の二人だけになる。
さて、そろそろ結城友奈と高嶋友奈の話に入りたいわけだが、「そもそも友奈族ってどういう繋がりなの?」という疑問がまだ残っている――「BD/DVD特典のADV」「花結いのきらめき メインシナリオ(花結いの章)」「勇者史外典」等、外伝に散らばっている情報、そしてアニメ三期で高嶋の口から語られたところを纏めると、「高嶋友奈の魂が神樹に取り込まれ、何度も人間として生まれ直している。神様の視点から見れば、確かに魂は一つなのだが、人の視点に立つとやはり別個の存在である」となる――感覚的に掴みにくいが、実際のところこれ以上の説明はない。輪廻転生や霊魂の不滅などを思わせるが、「友奈族」はこの(神道本来の)精霊のような存在である、ということが存外重要になってくる。
正史は六つの章(「結城友奈の章」「鷲尾須美の章」「乃木若葉の章」「楠芽吹の章」「勇者の章」「大満開の章」)から構成され、ほとんどの視聴者は作中の時系列順ではなく、現実に公表された順に追ったものと思われる。視聴者の印象としては、「勇者」の友奈が「人間」の友奈へ遡っていくわけだが、当たり前ながら作中では「人間」の友奈が「勇者」の友奈へ変化していったのである。しかも、制作陣の上手いところというか、「友奈族」の本質に最も接近する「烏丸久美子は巫女でない」は外伝の立ち位置の上、物語の時系列としては最先だが、現実の公開は最後だった。「友奈族」そのものは本当に最後の謎として残されており、視聴者は時間を逆行しながら友奈の秘密を解き明かす仕組みになっている――クリストファー・ノーランの映画かな?
よって、このチャプターでは「烏丸久美子は巫女でない」を起点として、正史の約300年を洗い直すことになる――が、「かくみ」は異色中の異色で、「勇者であるシリーズ」の暗部だけを寄せ集めて構成したといっても過言ではなく、「友奈族」の最深部に抵触する様は妖しい輝きを放っているほどだ。
最初の友奈であり、人間の友奈でもある高嶋友奈を切り崩す役目を持つのが、烏丸久美子と横手茉莉なのだが、この二人の関係は本シリーズのなかでも屈指に難解である――箇条書きがわかりやすい気がするので一度、箇条書きで抜き出す。
1、作中の立ち回りとしては烏丸が悪役、茉莉が相棒(黒髪族に近いが、そちらに入れるにしても例外の立ち位置にいる)。
2、それぞれの主張としては烏丸が勇者を肯定する立場、茉莉が否定する立場。ただ、結果として、高嶋と烏丸が大社に下ることはわかっている。
3、のちの展開を踏まえると茉莉の道理が通っていないわけでもない(「のわゆ」の高嶋、「うひみ」の烏丸の存在を考えると、この二人が大社に合流しなければ詰んでいた可能性が高いものの)。しかし、作中の時点では勇者を否定するだけの材料が揃っているわけでもない。
驚きの三重構造である。烏丸と茉莉の関係は敵味方ではなく、「良い警官、悪い警官」と言った方が近いように思う――高嶋を導いたという意味では、巫女の役目を二人で分かち合っていたとさえ言える。前日譚ゆえ、高嶋が勇者になるゴールは先に見えており、全体の重さはこの二人の高嶋評に寄っている。「他人との衝突を過度に恐れる。その恐怖は自分自身を(肉体的にも精神的にも)殺すまでに至っている」――「ビジュアルファンブック」に記された結城の設定を、高嶋が引き継いだと明示しているのは本作のみである――それも、さらに人間味が加味された形で、だ。
驚くことに、というか本当はこちらが自然なのだが、高嶋の原動力は勇気ではなく恐怖なのだ。高嶋が自身を語る場面は非常に限られているが、やはりアニメ三期八話「不変の誓い」での遺言とも取れる台詞「もっと自分のことを話せば良かった」に他人と衝突する恐怖とその後悔が集約しているように思う。
結城の方の友奈はアニメ一期の時点で原動力が勇気であると明確に示されている――当時の反応としても、原作のタカヒロが特撮好きであることを踏まえ、様々な特撮作品(特に『仮面ライダークウガ』)が引き合いに出された――ただ、「友奈が完成し過ぎていて人間味がない」とは多くの視聴者が感じ取っていたようだ。そして、アニメ二期「勇者の章」にて「返還された供物は神樹が新しく拵えたもの」、「友奈は神樹に最も愛される少女」など踏み込んだ設定が語られ、結城友奈は半神半人というまさに神話のような存在だと明かされる(というか、作中でもそのような扱いを受けている)。改めて振り返ると、どうやら高嶋から結城へ至る過程で人間味はほとんど抜け落ちてしまっているらしい――純化のような形なのか、変異のような形なのか、赤嶺等の物語に未公開が多いゆえ判然としないものの。ただ、最終決戦において、「友奈」の恐怖はすべて勇気に置き換わっていると見るべきだろう。
天の神戦は「勇者であるシリーズ」全体の総決算となるわけだが、その直前、結城の身に降りかかった呪いが「友奈」の最後の試練となっている。ご存じのとおり、天の神の刻印によって報連相を封じられるわけだが、結城は自分の話(特に悩みや不満)を避ける傾向からだんまりを決め込む――途中までは、完全に高嶋の轍を踏んでいるのだ。外部からの強行(主に東郷の暴走と奇行)がなければ、おそらくは自力で解決の糸口を見つけることができず、高嶋と同じ結末に行き着いていた。
作中で直接に天照大神の名が出ることはないものの、このあたり、天の岩戸の逸話を彷彿させる――ただし、こじ開けねばならなかったのは決して自分を見せようとしない「友奈」の心だ。逸話では機転と饗宴を以て天照大神を引きずり出したが、「勇者であるシリーズ」では少女の願いと友情が……結城と東郷の関係は言うほど友情だろうか?(ちなみに、歴代勇者・巫女が集結するシーン、東郷が呟いた言葉は「それが、私たち(少女たち)の願い」ではないかと筆者は考えている)
「結城友奈は勇者である」とは視聴者が最初も最初に知った情報であった――そして、シリーズの結末部においてもこの看板に偽りはない。結城友奈は勇者である、そして半神半人でもあるゆえ、その性質は神道本来の精霊に近い――ただ、アニミズムやシャーマニズムでは人が精霊に変身することを許してはいても、試練や儀式を伴う場合が多い。高嶋から結城へ、恐怖から勇気へ、作中の約300年は「友奈」にとってまさしく試練の時だった。
・勇者と反勇者
・・黒髪族
東郷美森、郡千景、弥勒蓮華、柚木友奈(芙蓉・リリエンソール・友奈)
この区分については、上記の該当者から概ね察してもらえると思う。「いつも友奈の隣にいるヤバい奴ら」である。ただ、柚木友奈に関しては多少例外的なこともあり、情状酌量の余地はある――また、芙蓉・リリエンソール・友奈も黒髪族の性質を共有している部分があり、悩んだ結果、柚木にかかるかっこ書きとして表記することにした。
黒髪族にはどのような傾向があるは、トリックスター、狂言回し、文化英雄などの言葉で十分に説明できるだろう――内輪で袋小路に行き詰ったとき、外部からの強行突破も辞さない存在――トリック―スターの本質は「ビルドアンドスクラップ」(アニメ三期でも園子の口からこの言葉が出てきたなぁ……)であり、自他問わず多くの犠牲を支払う場合がほとんどだ――東郷さんに至っては勝手に世界を滅ぼそうとし、勝手に世界を救う縦横無尽っぷりだ。
トリックスターの多くは確固たる正義や、掲げられた大義名分など公のものではなく、まったく個人の信念に基づいて動く傾向が強い――ただ、私事によって支えられた信念は当事者以外には理解しがたいもので、「異質・異端」の謗りを受けることも珍しくない。
「黒髪族」の異質性へ話が進むわけだが、どうしても話題が重くなり、場合によっては該当キャラクターを貶していると解されることもあるかもしれない――同時に、それぞれの反逆はキャラクターの核が剥き出しになる局面でもあり、その特質を語るに避けては通れない道でもある。
また、トリックスターはキャラクターとして独立性が高い場合が多く、一人一ジャンルと言えるほどに独特であることも稀ではない――この特異な在り方がトリックスターの魅力でもあり、賛否両論になりやすい要因でもある。
この記事では「黒髪族」と一緒くたにはしたものの、それぞれの毛色に重なる部分は少なく、俯瞰するに適当な言葉が思いつかない――どうも、それぞれの関係性は薄いままにしておいて、個別に論評した方が良さそうだ。
・東郷美森
東郷さんが暴走した経歴は、すでに「乃木一族」等のチャプターにて書いたため、やらかしたことについては割愛する。東郷さんの特質としては、「ただ一人に偏愛する」というものである。「勇者であるシリーズ」はそのテーマからして、利他的、自己犠牲的なキャラクターが多い。この作品における「愛」は隣人愛、家族愛、人類愛など所属に対するものとして表れる傾向が強く、個人に執着するパターンは思いのほか少ない。そこのところ、東郷さんは(というか黒髪族は)友奈に対して異常な偏執を見せる――ときとして、偏頗や贔屓としてマイナスの評価を受けることもあるほどだ(語弊なきよう書いておくが、東郷さんも勇者部メンバーに興味が薄いというわけではない。ただ、その愛は盟友や戦友に対するものに近い)。
東郷さんは「愛はすべてを解決する」を地で行き、作中でも(色んな意味で)驚きの活躍を見せた。元々が学者気質というのか、知識欲、好奇心、行動力も備わっており、異常行動に走ることも多々あった――しかし、本編の暴走と奇行がやたら印象に残るが、スピンオフ等で見られる日常での態度は本来の設定にも沿う大和撫子のものである。
鷲尾須美時代での銀に対してすでに片鱗は見えていたが、夫(?)の一歩後ろから静かについていき、誤った道に進もうとしたらそれとなく正す。家事や炊事など、身の回りの世話に献身的に尽くし、縁の下の力持ちとして夫を支える。その献身っぷりは、夫が地獄に落ちれば自分もついていかねないほどである――というか、最終決戦にて此岸と彼岸の境目らしきところまで本当に友奈を追いかけた。世界を滅ぼそうとするところ以外はまさに大和撫子、良妻賢母そのものである。昨今の風潮では、「大和撫子、良妻賢母を押し付ける」ことは否定されがちだが、「大和撫子、良妻賢母である」ことを否定するのは論理的に繋がっていない。このあたり、有識者はどのようにお考えなのだろうか?
・郡千景
利他的、自己犠牲的傾向の強い勇者・巫女たちのなかでも自己愛が優先されがちな稀有な存在である――故郷の村での仕打ちを考えると、献身的な性格に育つ方が異常ではあるが。
人物としては、フィクションに求められがちな純潔よりも、人間臭さの方が際立っており、賛否の分かれるキャラクターでもある――反面、ハマる人にはとことんハマり、熱烈なファンが特に多い。アニメ三期では現実での人気を反映してか、作中のネット掲示板等でアイドルのように扱われている描写も見られた――イラストノベル版では、そのような清純派美少女は杏の立ち位置だったのだが……「花結い」では亜耶にその立場を取られ、アニメ版でも千景に取られる……杏、お前はどこに向かっているんだ?
千景の反逆は(因縁があったとは言え)一般人に刃を向けるという、黒髪族のなかでも異質な形を取っている。東郷の壁壊しは愛する人たちを苦しみから解放するという一応の大義名分があったが、こちらはまったくの私怨からで、情状酌量の余地すら与えられていない(精霊の力を使用したことによる精神汚染、との説明はついているが、その病状の度合いが不明瞭で、「のわゆ」の描写を見るに、市井の人々からの誹謗中傷の方が影響の大きいと思われる)。熱烈なファンからすればこじつけてでも千景を擁護したい気持ちもわかるが、このチャプターでは千景の善悪よりも、「勇者であるシリーズ」のなかでも特異なポジションを占めている点を掘り下げたいと思う。
「反勇者」、もっと一般的にアンチヒーローこそが千景の本質であり――「花結い」等で後付けされたお姉さんキャラを無視するというわけでもないのだが――若葉が「勇者である勇者」の初代に位置するのに対比して、「勇者でない勇者」の初代に位置するキャラクターである。次のチャプターにて最初の「赤い勇者」である千景から繋がる系譜について話を展開するわけだが、この時点では千景一人に焦点を絞ろう。
キャラクターに厳しい、とは「勇者であるシリーズ」において繰り返し言われてきたことだが、千景に対する扱いはその最たるものと言えよう――一般人に手を出したことで、神樹からは見放され、大赦からは存在を抹消される展開に視聴者は愕然としたが、家制度が支配的な作中世界において、血筋を絶やすと言うのは現代を生きる私たちが思う以上に酷が過ぎる処遇である。かわいそうはかわいいとはよく言ったもので、千景の人気の根底には、「勇者であるシリーズ」の暗部を一身に背負った境遇が暗流としてあるように思う――それでなくとも、私たちは逆風や窮地の最中にいるキャラクターに肩入れをしがちだ。千景の仕打ちに煽られたファンの義憤は大赦や神樹に向けられ、ときとして不当と言えるほど過激な意見も見られる――ただ、私はここで大赦や神樹に対する評価の正当性にあれこれ言うつもりはなく、義憤もまた、それだけの原動力になり得ることを言いたいのだ。
穿った見方をすれば、千景は視聴者の義憤を煽る機能を果たし、物語に惹きつけ続ける製作者の意図にも通じている――義憤、殊に、千景に見られた自分の不利益に対する義憤は作品と視聴者を強く結びつけるばかりでなく、作中全体でも重要な役割を果たしている。自分への不利益とその義憤が結実するのは「楠芽吹は勇者である」にてであり、防人組の団結と士気を高める原動力として働いている――社会通念において怒りや利己は美徳とは見做され難いが、同時に芸術や学問(あるいは戦争も含めて)の発展に寄与してきた側面も否定はできない。最終決戦において、若葉から受け継がれてきた勇者の正義が必須だったことは言うまでもなく、千景から続く人間の正義も勝るとも劣らない功績を挙げている――この二つの系譜のどちらかでも逸すれば、天の神を退けることは不可能だったはずだ。
千景に関しては、作中で特異な役割を演ずることもあり、その意見も毀誉褒貶含め、とりわけ多岐に渡る。ただ一つだけ確かに言えることは、その善し悪しを抜きにしても、「郡千景は人間である」ということだ。
小話にはなるが、千景は初期メディア(特に『勇者行進曲』)において、性格が大きく異なっていた――高嶋や球子もそうだが、丸亀組は中期以降のメディアにおいてようやくキャラが固まった感じなのである。初期の千景は繊細で神経質というよりも、粗暴で男勝りであり、口調はもちろん、二人称も「お前」だった(山伏シズクに造形が流れていったとも取れるが、実情は不明)――高嶋に対する嫉妬深さと独占欲はこのときから健在だったが。キャラクターの方向性はともかく、「勇者らしくない勇者」というコンセプトは最初期からあったものと思われる。
・弥勒蓮華
弥勒蓮華は「花結いのきらめき きらめきの章」以降の参戦と、登場の遅い部類にも関わらず、ファンに多大なインパクトを残してきた――ただ、黒髪族としてというよりも、弥勒家としての奇癖が先行している印象ではあるが。
蓮華は「黒髪」「聡い」「愛情深い(嫉妬深い?)」などこれまでの黒髪族の特徴を共有しつつも、差別化を図るキャラクター付けがなされている。最たる点は、東郷、千景が友奈に引っ張られがちなのに対して、蓮華は自分から引っ張る(振り回す)場面が多いことだろう。
しかし、この記事で論点となる「反逆」について、蓮華のものは未だ謎に包まれている。まだ敵だった時代の赤嶺から、蓮華の失態により弥勒家の没落した旨は断片的に語られているが、全貌ははっきりとしないままだ。神世紀72年のこと、と時期は確定しており、その年は若葉の逝去とも重なると考えられ、蓮華の反逆と若葉の死を結び付ける声も多い――ただ、あくまで状況証拠からの推理に過ぎず、ここでその先に立ち入っても私見と独自解釈だらけになってしまうだろう。よって、この記事では蓮華のキャラクターを捉えつつ、分散している情報を寄せ集め、裏切りの構図としてどのようなものになっているのか大体の枠組みを掲げるに留める。
唯我独尊やらやりたい放題やらの評価を受ける蓮華だが、反面、掟を遵守する気質が強い――ゲームに負けた際の条件として静のことは一貫してシズさんと呼んだり(初対面の時点では静、と呼び捨てだったと思われる)、(のちに師匠となる)若葉の顔を立てるために自分の意見を控えたり、法や道徳はもちろんとして些細な約束や義理を違うにも強い罪悪感を抱くタイプらしい。俗に言う完璧主義者の特徴が現れており、蓮華については天才というよりも天才の振りをする天才肌と評した方が正しいだろう(切磋琢磨の末、完璧超人と呼べる能力を身に着けていることも確かだが……)――元々の気質もあるだろうが、傍若無人な態度には自分を鼓舞する意味もあるように思う――そして、その反動というか、若葉や園子など本物の天才にはコンプレックスを抱きがちなようだ。
蓮華のこのような面を考えると、当然、次の疑問が出てくる――任務としてはスパイに近いだろう「鏑矢」をどのように捉えていたか、だ。嘘を吐いたり相手を欺いたりはそもそもの前提であり、ときに暗殺や破壊工作も手掛けていた可能性すらある。赤嶺はどうやら公私をきっちり分けられるタイプのようだが(それでも、「花結いのきらめき 花結いの章」の後半では無理が生じていたが)、蓮華の方は事情の如何を問わず信義則に反すること自体に神経質な反応を見せることが多い。鏑矢の任務について、未だ直接的な描写はなされていないが、蓮華が役目に盲目的だったとも考えにくい――無論、赤嶺や静の情緒的なサポートもあり、役割を正当化していただろうが、どこまで潔癖を抑え込めていたかは怪しい。
蓮華が不潔や不正を極端に嫌う気質であること、鏑矢が大赦の暗部を引き受ける役目であることを引き合わせて反逆を推理すると、許容できる限界を超えた指令に対して、任務放棄をした可能性が高い――暗殺とまでは言わずとも、師匠の若葉に何かしらの危害を加えるようなものであれば尚更だ。弥勒家が没落した事件と若葉の逝去が直接繋がっているのかは依然不明だが、蓮華が若葉に対して並々ならぬ執着(コンプレックス)を抱いていることを考えると、刃を向けたり二心をはたらいたりは忌避するように思う。ただ、この推論が的外れでないとすると、若葉の死には何かしら赤嶺の手が加わっていることになるが、果たして真相は……?
・柚木友奈(芙蓉・リリエンソール・友奈)
柚木友奈は相棒の友奈――芙蓉・リリエンソール・友奈との関係も含め、「勇者であるシリーズ」の例外ばかりで形作られたようなキャラクターだ。「黒髪族」の一人に違いはないのだが、毛色が大きく異なり(というか、作品の特色自体から離れている。あえて系統を挙げるとすれば、秋原雪花、桐生静に近いだろうか?)、上記三人と主軸を合わせようにもどうにもずれてしまう。
何よりも七面倒なのが芙蓉との間柄で、確かに友奈族・黒髪族の組なのだが、自分自身もまた友奈の一人と混線を生じている――この二人、どちらが友奈役でどちらが黒髪役という区分も曖昧らしく、従前の三組の関係性がシャッフリングされている感じがある――柚木の方を黒髪族に数えたのは、髪色が黒いから、というだけであり、キャラクターとしては友奈族とも黒髪族とも言い難く、逆位置にいる芙蓉も然りである。なので、他の黒髪族との関連性は薄いままに、柚木友奈についてはわりと自由に話を進めようと思う――また、他に挿入できそうなところもないので、「芙蓉友奈は勇者でない」の内容もここで掘り下げてしまおう。よって、このチャプターは柚木友奈と芙蓉・リリエンソール・友奈の話が混在する形になる。
とりあえず、友奈族・黒髪族として芙蓉と柚木が明らかに役割を交換している部分を挙げると、やはり頭脳(学習成績)、フィジカルの二つがまず出てくる。
頭脳に関しては柚木がアホというわけではなく、芙蓉の方が異様に賢い具合だ――黒髪族の頭の良さはたびたび作中でも言及されるが、芙蓉はどうも園子や杏にも匹敵するレベルらしい(賢い友奈として特に夏凜を驚かせた。ちなみに、若葉も設定上は学業優秀だが、ファンからどころか作中でもそのような扱いを受けていない)。反面、フィジカルの強さは柚木の方に譲られている――それまで、最も身長の高いキャラクターは古波蔵棗(165cm)だったのだが、柚木は驚異の171cmである(「花結い」では案の定、立ち絵が僅かに見切れている)。部活の助っ人を何度も請け負っているだけあり、身体能力は上位陣にも比類すると思われるが、一般人ゆえ戦闘経験がなく、スタックに頼り切りで技術的な面は未熟とのことだ――完全に風先輩の上位互換じゃないか。一方で芙蓉の方は作中でも貧弱な部類に入り(訓練すらしていないことを考えると、杏や雀にも劣ると思われる)、「花結い」登場時、巫女枠ではなくプレイアブル枠だったことが却ってファンを驚かせた(しかも、他の友奈と異なり、徒手空拳ではなく薙刀を得物にする)――性能も他に劣るものではないが、「ふゆゆ」の設定をそのまま踏襲するとただのお荷物だから仕方ないね。
二人の交友関係としては、結城:東郷、高嶋:千景のバカップルよりも、赤嶺:蓮華の漫才コンビの方に近い――とりわけ、柚木が誰に対しても冷めた対応を取りがちなので、友奈族屈指のテンションの高さを誇る芙蓉が空回りするのがお約束だ(そのわりに、柚木はモノローグで「こいつ顔がいいな」を連発している)。シリアスな本編では黒髪族 ⇒ 友奈族の偏執が目立ちがちで、友奈族の重さが描写されるのは「花結い」等スピンオフ的作品に限られているが、この二人に関しては「ふゆゆ」にて互いが互いに惹かれていることがあからさまで――というか、(アメリカの血ゆえか)芙蓉は友奈族に珍しくオープンなところが見られ、好感をそのまま口にしている。他のカップルと違い、柚木と芙蓉は黒髪族の方が相手の好意から逃げがちと珍しい構図になっている。
ここまでは朗らかな話だが、やはり「勇者であるシリーズ」のキャラのご多分に漏れず、この二人にも闇の部分がある――それも、「ふゆゆ」の時代はバーテックスとの関わりが薄いためか、人間に対する嫌悪感が際立っている――終始一貫してコメディー路線で進む「ふゆゆ」のなかで、この二人の闇は生臭いものを発しているほどだ。黒髪族は闇が深い、とはよく言ったものだが、上記三人の場合、「極限状態の選択」の様相を帯び、正当性がまったくないとも言い切れない――その点、柚木と芙蓉の闇はコンプレックスの側面が強く、一般に「醜い」と評される類のもので、しかし、私たちも同様に陥りがちなものだ。
柚木と芙蓉のコンプレックスの原因は、文量を省略するためにも「ふゆゆ」に直に当たって欲しいというのが本音だが、その表出の仕方が異なっている。柚木は自己評価の低さと言う、黒髪族の傾向を持ち(芙蓉には成功体験が足りないと思われている)、他人に冷淡なところもこのあたりが理由のようだ。
一方で、芙蓉は他者に対する攻撃という形で出ている――暴力に訴えるわけではないが、「真実を突きつけたい」「目を覚まさなければならない」という衝動は心理学では「自分の弱さ、怯え、後ろめたさを隠すための威嚇(攻撃)」と解されることが多い――昨今ネットに溢れる正義おじさんにも通ずるところがあるが、流石に本筋から逸脱し過ぎるのでそちらに話を繋げることは避ける。この攻撃性は当時のファンたちを甚く驚かせた――「勇者であるシリーズ」において、明確に人間に敵意を持つキャラクターが珍しいこともあるが、それまで「友奈族=ピュア」という暗黙の了解があり、芙蓉はこの法則から外れていたからだ。
「ふゆゆ」に関しては、決して「他人への恐怖」を乗り越える、あるいは昇華させる物語ではない――分水嶺となる地点は確かにあるものの、柚木の父の自殺や芙蓉のアメリカの血など、コンプレックスの原因は根本的に取り返しのつかないものであり、「親玉を倒せばすべて解決」となるものではない――「ふゆゆ」は二人の少女が互いの絆を確かめ、恐怖を「受け入れる」癒しと再生の物語と言うべきである。
いきなり分水嶺という言葉を出してしまったが、要するに柚木の壁のぼりのことである――それまでは、芙蓉が相手を振り回したり、突飛な行動を取ったりしていたわけだが、「壁のぼり ~ 若葉・ひなたの登場」の局面においては柚木がそちらの役割に交代している。直接、互いの闇に臨むこの一連のシーンは、アニメ三期の最終決戦における結城と東郷のリフレインにも思え、ここに限っては芙蓉が「恐怖から自分の闇に目を背ける」(あれほど欲した真実を知ることに恐れ、壁のぼりを中止させようとする)、柚木が「強行手段により相棒の殻をこじ開ける」と綺麗に友奈族と黒髪族のコントラストが表れている。
「ふゆゆ」の舞台は神世紀29年で、バーテックスの侵攻がなかった平和の時代の物語である――それゆえ、日常パートのみで構成されている非常に珍しい章である(というか、スピンオフを抜けば唯一かもしれない)。柚木と芙蓉もまた悩める少女であるのだが、日常の速度は緩慢で、曖昧というか、怠惰というか、無目的というか、全体として身動きも取れず宙ぶらりんにされている印象がある(初期のヘミングウェイみたいだぁ……ちなみに、「ふゆゆ」の扉絵には芙蓉が『日はまた昇る』を……ではなく、アルベール・カミュの『ペスト』を読んでいるものがある)――それでも、「勇者であるシリーズ」のテーマがバランス良く配置されており、柚木と芙蓉の「勇者」への素質も感じられる。そして何よりも、「ふゆゆ」は何かに終止符を打つ物語ではなく、次の世代へ繋ぐ物語であり、その意味でも「勇者であるシリーズ」の外伝に相応しいと言えるだろう。
・・赤の系譜
郡千景、三ノ輪銀、三好夏凜、楠芽吹
「勇者であるシリーズ」ではキャラクターごとにモチーフとなる花が設定されているのに加え、イメージカラーが非常にはっきりとしている(タカヒロが特撮好きだからだろうか?)――全体としては所属や時代での分類が中心で、青系統、黄系統など色で分けることはあまりないが、それでも「赤い勇者」に関しては比較的一つのグループと見做されているように思う。具体的には、郡千景、三ノ輪銀、三好夏凜の並びだ。
ただ、赤系統だけで確固たる指向性を示しているわけでもなく、種々の設定(特に、千景殿周り)からして初代「赤い勇者」である郡千景はむしろ「防人組」に引き継がれたようにも見える。千景から繋がる系譜は最終的に「勇者」三好夏凜と「防人」楠芽吹の二人に着地したと考える方が自然かもしれない――無論、この二人の分岐点には三ノ輪銀が立っている。
この記事では千景から銀、銀から夏凜と芽吹への派生を「赤の系譜」として扱うことにしよう(他の友奈に比べると、赤嶺友奈は赤を強調されており、ひょっとすると千景と銀のあいだに入れるべきかもしれない。だが、現行では神世紀72年の詳細が不明瞭で、一旦は除外しておくことにする)――起こしとしてはまず、千景、銀、夏凜の流れを明らかにして、次チャプター「緑の系譜」にて、芽吹を赤い勇者の別側面から特徴づける形を取りたい。
千景から銀は300年弱のミッシングリンクがあり、この二人だけを見ると性質が中途で反転しているように思える――というか、夏凜と芽吹含め、千景の後継者は「死して屍拾う者なし」を地で行くというか、若葉寄りのキャラクター付けが為されている。これを解すに、「友奈族」のチャプターで、「人間」の友奈から「勇者」の友奈へ変化(純化?)したと語ったと同じ論法を使おうと思う――「赤の系譜」を「自分である勇者」から「自分でありたい勇者」に変化していったと捉えるのだ。勇者にも明暗があるとは作品全体のテーマの一つであるが、「赤の系譜」は清濁併せ吞む勇者そのものというよりも、少女たちの願った理想の勇者という面が強いように思う――その意味では、伝承等によって人々の考えを強く反映していく「英雄」の方がニュアンスに近いかもしれない。
赤い勇者が到達点を見たのは三ノ輪銀であり、シリーズ全体を俯瞰しても、(友奈族の初代としての)高嶋友奈に並ぶ貢献を果たしたと言えよう(このような言い回しだと、後継の夏凜と芽吹が劣るかのように取られかねないが)。その立ち往生が鮮烈な印象を残したのも(イラストノベル版『鷲尾須美は勇者である』では遺体の詳しい描写がなく、アニメ版にて弁慶の死に様と明示された)、銀の死そのものに加え、シリーズのなかで「勇者も死ぬ」ことが明確に描写された初めてだったからでもあるだろう。
銀の死は作品全体においても、大きな転回点となっている――死後、「赤い勇者」の部分を受け継ぐものとして夏凜と芽吹が出会い、「人間」及び「魂」の部分は死に別れた園子と東郷(須美)に遺され、「ゆゆゆ」以降の行動に多大な影響を与えている――無論、園子と東郷(安芸先生もここに含めるべきだろう)が好意的に捉えるはずもなく、大赦への疑心と反旗の種を植え付けた形で。
園子と東郷は「わすゆ」「花結い」の描写を見るに、互いに銀が初恋のようにも思える――恋心のことは置いておいても、のちの二人が銀を英雄視していることは間違いない。白馬の王子様とまで美化しているわけではないにしても、死ぬことでしか体現できない「理想の英雄」としてある種の信仰のようなものは抱いている――二人の救世主にとっての救世主、とまで断じてしまうのは、些か言葉が大仰すぎるだろうか?(シリーズ最年少がこの役割を引き受けるのも倫理的にどうなんだろうとは思うが……) しかし、記録そのものを抹消された千景からすれば、「華々しい散り様」もまた、「自分でありたい勇者」とは映るだろう。銀の死は「勇者の死生観」という、逃れることはできないテーマ、そして少女たちの願いの終着地へと流れていくことになる。
銀の勇者の部分は夏凜と芽吹に受け継がれたと書いたが、こちらは東郷・園子と異なり共有しているというよりも、分割されたと表現した方が正確だろう――芽吹が受け取った方は「緑の防人」という勇者ともまた異なる方向へ展開していく――夏凜が「勇者の死」、芽吹が「勇者の生」をそれぞれ引き継いだ、と書くと大雑把に過ぎると感じるが、何となくのイメージは伝わると思う。
「赤い勇者」のままに銀を受け継いだ夏凜はアニメ一期11話「情熱」にて、「瀬戸大橋の戦い」(この呼称も『仮面ライダーBLACK RX』のオマージュだと思われる)のリフレインとも思わせる満開演舞を披露した――アニメ等の公開順としては、夏凜の方が先に来るものの。そして、アニメ二期/三期の最終決戦では、銀とほとんど同じ状況に追い詰められ、危機一髪を演じている。前者は東郷の強行に驚いた神樹が供物を返すことで、後者は園子がカバーリングに入ったことで難を逃れているが、もちろん先んじて助かるものだと考えていたわけではないだろう。銀と同じく園子と東郷(須美)の援用を受けられなければ、死とは限らないが相応の代償を被っていたものだと思われる――功績のところはどうであれ、夏凜は芽吹の対となる形で死の方向へ引っ張られていく場面が多い。
・・緑の系譜
白鳥歌野、藤森水都、楠芽吹、山伏しずく(シズク)、国土亜耶、天馬美咲
「最後の」赤い勇者は三好夏凜で間違いはないのだが、もう一つの可能性であった楠芽吹は赤の系譜を色濃く残しながらも、「緑の防人」(赤いきつねと緑のたぬきみたいな言い回しになってしまっているが)という異なった道に結実している――ここからは、夏凜を引き合いに出しながらも芽吹、延いては防人組(特に、山伏しずく(シズク)と国土亜耶)を掘り下げ、赤の系譜と緑の系譜を相互に補完させていく。赤と緑は補色の関係だとか、血を想起させる赤は死、自然を想起させる緑は生を司るだとか、赤と緑は対として扱われることが多いが、わざわざモチーフの歴史を掘り返す必要まではないだろう。また、緑の系譜に数えたキャラクターには「青・水色」がイメージカラーのものも混じっており、このチャプターでは青を包含する意味での緑を念頭に置いている。
ここからようやく、『楠芽吹は勇者である』『白鳥歌野は勇者である』に言及できるわけだが、その前に二作品の変遷をはっきりさせておく必要がある。
『楠芽吹は勇者である』はイラストノベル版(2017-2018)とアニメ版(2021)があるものの、それぞれの公表に三年の経年があり、根本は共有しているにしても、ストーリーや諸設定(特に、防人の装備周り。天の浮舟に関してはものすごく『トップをねらえ!』っぽい)に大きな食い違いが生じている――アニメ版を完全なリメイクとして、イラストノベル版の設定が破棄されたというわけでもなく、ただ単に放映時間や放送倫理に合わせて再構成したに過ぎないと思われる(「くめゆ」は激昂した芽吹にセルシン(鎮静剤)を打つシーンなど、そのまま映像にすると問題になるだろう描写がかなり多い)――その結果、弥勒夕海子と山伏しずく(シズク)は主要なシーンをカットされる憂き目に遭っているが、別に、この二人の設定が消えたわけでもないだろう。アニメ版によって明確に否定されていない限り、イラストノベル版の設定も生きているものとしてこの記事では扱うが、新設定と旧設定が混在して出てくることを予め謝罪しておく。
『白鳥歌野は勇者である』については、原作が20ページちょっとの短編であり(『乃木若葉は勇者である』上 収録)、このなかで書かれた設定もどこまで生きているのか怪しい(例えば、藤森水都は不仲で会話のない家族のもとで育ったため、他人の顔色を窺う性格になったことなど)――白鳥歌野、藤森水都の両名については「花結いのきらめき」等で後付けされた設定に従う場合が多くなる。こちらについても先に謝罪しておく。ちなみに、アニメ三期にてこの二人は出番を丸々カットされ、往年のファンを驚かせた――礎を作った無名の勇者と巫女という立ち位置を考えれば、らしいとも言えるが……。
記事の構成上、防人組の前に諏訪組の二人を深堀りした方が良いだろう。ただ、生前の活躍は「しうゆ」を直に読んでもらうことにして、死後、どのような形で名前を残すこととなったかが話の骨子になる。
「白鳥家」と「藤森家」の名は、感謝と敬意から若葉が後世に留めたとは「のわゆ」本編で語られたことだが(アニメ二期、銀の葬式のシーンでは丸亀組や象頭町組の家名に加え、この二つの名も確認できる)、どうも、「白鳥歌野」「藤森水都」の個人名までは伝わっていないようなのだ――アニメ三期最終回、鍬を取り出すシーンでは、園子ですら歌野個人については詳しくは知らない様子だった。このあたり、詳しい説明はどのメディアにもないのだが、大赦としては「初代勇者・巫女」の座は若葉とひなたに冠した方が何かと都合が良かっただとか、囮にした諏訪に関する資料は極力消しただとか、何かしらの陰謀は感じられる。
「花結いのきらめき」にて、歌野・水都の二人が勇者・巫女として突出していると察せるシーンは何度もあるが、この二人の特色として挙げるべきは、どちらかと言えば「調和を重んじる」性格であることだろう――日常と非日常の二面性を強調する「勇者であるシリーズ」では、当然、キャラクターによって日常寄り、非日常寄りの偏差が生じる。そこのところ、歌野と水都は諏訪での籠城戦や突出した能力など、設定としては甚く非日常に偏っているが、言動としては誰よりも日常に傾いていると特異なキャラクター付けが為されている。実のところ、「連帯と互助」に行き着いた芽吹や「自己犠牲以外の道」に導かれた友奈族のあり方が諏訪組の二人においてはすでに完成しているのだ――シリーズ全体を通して、「精神の美」が顕彰されることは多いが、その体現者として歌野と水都の二人が指名されているようにも思う――勇者の「武」の体現者としてはやはり若葉が指名されているのだろうが、諏訪組もまた勇者・巫女として完成しておりながらも、化体としては「調和」、もう少し一般的な言葉を使えば「日常」の色味が強い。
すべての勇者と巫女の辿り着くべき道が最初によって示されており、また、「無名」のうちに消え去ったことには何かしらの暗示を感じずにはいられない――白鳥歌野と藤森水都のあり方までも後世に伝わっていれば、おそらくは戦いが300年にも渡る泥沼に陥ることもなかったのかもしれない。無論、この「if」自体、諏訪組の記録が散逸している作中では想定のできないものであり、あくまで視聴者の視点で提案できるに留まる。
『楠芽吹は勇者である』は正史の一つとして数えられるが、従前の「ゆゆゆ」「わすゆ」「のわゆ」に対するカウンターカルチャーの風味が強い――防人組の32人(+巫女1人)のあり方は他の陣営とは大きく異なる――ハーレムを結成しているとかそういうことではなく。英雄譚のノウハウは紀元前より蓄積されてきた――必ずしも一人に定められるとは限らないが、同時代・同地域に乱立する例はあまり見られない――神話においては英雄の神格を誇示するため、フィクションにおいては骨子やフォーカスを該当するキャラクターに集めるため、政治においてはプロパガンダとコマーシャルに利用するため……英雄譚の利用による産物の善し悪しは個別に判断するにしても、「英雄譚」自体は一つの技術であるため、善悪の物差しを宛がうべきではない――ただ、歴史において反復して使われてきた技術であるため、ノウハウとその分析は豊富である。「ゆゆゆ」においては結城友奈、「わすゆ」においては三ノ輪銀、「のわゆ」においては乃木若葉が英雄として擁立され、勝利と凱旋、名誉の死、次代への継承とそれぞれが英雄譚に見られる形式を遵守している。そして、ここまで書けばもう察しがついていると思うが、「くめゆ」に関しては英雄が擁立されていない――リーダーとしては芽吹にも自覚があるが、時に超人的な能力やカリスマを宿す英雄とまでは思い上がっていない。この態度は諏訪のリーダーでありながら、自分はあくまで指揮するに過ぎず、諏訪の守護者は土地に根付く人々だと考えていた歌野のものに近い。そして、この二人の態度が、「人の上に立つ者の無名性」という奇妙な共通項を生んでいる。
ここで、諏訪組の正統後継者は防人組である、と断言しても的外れではないにしても、事を欠くだろう。先に書いたように、芽吹は郡千景を初代とする「赤い勇者」の系譜も同時に引き継いでいる――ただ、ここから先は、「赤の系譜」と「緑の系譜」が混じることで、どのようなチームが組織されたか、ではなく、そもそも本来別系統の流れが防人組に合流している点に注目したい。キャラクターとしては弥勒夕海子が一番濃いが、設定として注目すべきは山伏しずく(シズク)だろう――しずくの方は、かつて神樹館組と同学であり、シズクの方は「ツンツンしている」「孤独症」「戦闘狂」と赤の系譜に見られる特色が表れている。それでいて、所属としては防人組なのである――交易所という比喩が正しいのかわからないが山伏しずく(シズク)は各々無関係にも思える派閥の鎹のような立場にある。また防人組付巫女、国土亜耶はそれまでまったく言及されて来なかった場所から現れたキャラクターだ――神樹信仰の強い家庭で育ち、思想の面でも大きく大赦側によっている。大赦側の巫女で、勇者付と言えば上里ひなただが、混乱した時勢ゆえにひなたはむしろ大赦(西暦時代には大社の字だが)に離反の意志が強かった。国土亜耶は現行、秘匿性の強い大赦内部に根がある唯一のキャラクターであり、そのためか、「くめゆ」では一貫してお目付け役という言葉が使われている。
先代勇者(神樹館組)に強い思い入れがあるしずく(シズク)と大赦側に与する亜耶は、神樹に反骨(あるいはコンプレックス)を抱く芽吹と一色触発にもなり兼ねない立ち位置である。しかし、しずくは初期のうちから芽吹に友好的で(懐いた理由を解説しているメディアは見当たらないが……)、シズクの方も脳筋式に決闘で手懐けた。亜耶ちゃんに至っては生来の気質なのか、教育の賜物なのか、あまりにもな天使っぷりに、芽吹の方が(というか防人全員が)が初対面の段階で落ちている。勇者陣営の団結は「人類の仇敵の討伐」という確固たる目的ゆえで、良くも悪くも手放しで互いを信用しなければならない状況にある。一方で、防人陣営は人員の交代、補充が可能という設定によく表れているが、信用は各々が得なければならないものである――防人もまた脳筋寄りであるため、結果的に互いが互いの気骨を見せることで(無条件で好かれる亜耶ちゃんが例外なのである)団結を強めていったが、各キャラクターの信念は思いのほかばらばらである(特に、夕海子は家名を上げることが最優先と断言している)――初期の芽吹が散々嘆いていたが、「勇者の露払い」という目的では結束や士気に欠けるのである。以上のような経緯から、防人組は種々の派閥の混成部隊のような、他に類を見ない様相を呈している。
最終決戦では、それぞれの思想や信仰を超えた人間の連帯が不可欠だった――その前段階として、防人組は出身や所属、信念を上回る結束を築き、「死傷者0」を達成している(このことについて、芽吹が神官(安芸先生)に「隊長としての誓約ですか」と聞かれたさい、「人間としての誓約ですよ」と返すシーンがイラストノベル版にはあるのだが、アニメ版ではカットされたのが残念だった)。防人部隊が勇者部隊の実験場の意味合いもあるとは作中でも語られたが、この個を超えた連帯までは大赦側も想定していたものではないだろう。芽吹と防人組が互助と連帯の道を選んだのも、他でもない「生き延びる」ためだ――初動こそ、芽吹は勇者の自己犠牲(生贄)のあり方に反証を突きつけることを動機としていたが、「くめゆ」終盤においてはその手段であった「生き延びる」ことが、目的に移行している――そして、この旗のもとで、防人組の団結は最高潮に達した。この瞬間にこそ、芽吹は赤い勇者の「英雄としての華々しい散り様」とはまったく異なる道、「人間としての生と互助」の道に辿り着き、初代緑の勇者、白鳥歌野のあり方に重なることになった。
天の神との最終決戦時、勇者陣営とは別行動で、防人陣営は千景砲(何だこのネーミング!?)の発射任務を担っていた。園子と夏凜は銀の斧を借りつつ、「勇者の正義」を八咫鏡にぶち込むと矢継ぎ早に、千景砲は「人間の怒り」を撃ち込んだ――そして、この二段攻撃にさらに大満開友奈の拳を乗せることで八咫鏡は粉々に砕け散った。最終決戦においては、勇者と人間、正義と復讐、現在と過去、そして赤の系譜と緑の系譜の垣根すら飛び越え、連帯は人間の勇気と神々の祈りに昇華されたのだ。
ここまでは物語の根幹に関わる部分、要するにシリアスな話だったが、防人組はお笑い集団としても名高い。「くめゆ」の番外編や「花結い」にてその真価が発揮されており、せっかくなのでそちらの一面も紹介したい――ただ、加賀城雀と弥勒夕海子については後述の大見出し「日常と調和」に回し、楠芽吹、山伏しずく(シズク)、国土亜耶が中心となる。防人組は他の陣営に比べ不人気、なんて書いてしまえば熱烈なファンからぶん殴られかねないが、防人組のみにフォーカスを絞った記事が少ないのも事実なので、文章に起こす価値は十分にあると思う。と言うか、私が防人組について書きたいことを全部吐き出す場が欲しいだけである。
「のわゆ」と同じく、「くめゆ」も日常パートが少ない傾向にあり、本編だけでは誰がボケで誰がツッコミなのかわかりづらい――そして、ドラマCDや「花結い」にて日常でのキャラクターが固められた結果、雀以外がボケとなるやたら偏った編成となった(まさかの全員がボケになった丸亀組よりはマシだが……)――しずくもツッコミは入れるものの、なぜかネット用語混じりだったり、特定の人物(主に東郷とひなた)に怯えて黙り込んだり、どちらかと言えばボケである。
「花結い」に参戦するにあたり、楠芽吹、山伏しずく(特にシズクの方)、国土亜耶がどのような立ち回りになるかはファンの気がかりであった――「くめゆ」は全体として戦争映画のような様相を呈しており、「花結い」のふわふわとした空気感にマッチするのか疑念があったのだ。
芽吹に関しては案の定、参戦当初は空気感のあまりの違いに困惑していた――さすがに口に出す真似はしなかったが、夏凜の変わり様に対しては驚きとも怒りともつかない反応を見せていた。しかし、頑固な反面、「郷に入っては郷に従う」タイプでもあり、何だかんだで順応し、めでたくボケ要員と化した――ただ、ボケに対して真面目に返したり、理詰めで責めたり、やたら面倒臭い感じになっているが……(面倒臭いにしても、東郷や弥勒家がいる時点で今更ではある)。宮大工の父の影響により物作りが趣味、意外にも演技が得意など、それまで目立たなかった一面も押し出され、大道具係、大女優など特異なポジションを占めるようにもなった(のちに本物の女優であった芙蓉・リリエンソール・友奈が登場したが、キャラ被りは大丈夫なんですかね……?)。何でも器用にこなす印象が強いが、上位互換たる完璧超人・弥勒蓮華がいるせいで、器用貧乏にも見えるのはご愛敬か。
なかんずく、「花結い」での芽吹で取り上げるべきは夏凜との関係だろう――正史では互いにフルネームで呼び合う仲だったが、「花結い」にて名前で呼び合う姿にはファンとして目頭が熱くなった。芽吹のハーレム主人公特性と夏凜の総受け気質が噛み合っている反面、互いにツンツンしているため独特の関係性に落ち着いている(ツンデレ同士のカップルで咄嗟に思いつくのは『ゆるゆり』の櫻子と向日葵くらいか)。また、根っこのところはやはり夏凜と同じなのか、風先輩にやたら懐いており、二人一組で部長補佐のような役割を演じている――ちなみに、元来、東郷さんは「変わり者だが優秀な参謀兼部長補佐」というポジションだったのだが、「花結い」では参謀の部分を園子と杏、部長補佐の部分を芽吹と夏凜に奪われた結果、ただの変な人になっている。
山伏しずく(シズク)については芽吹以上に「花結い」での扱いが懸念されるキャラクターだった――しずくのバックグラウンドが悉く胃に来る感じで、シズクの方に至っては設定上、戦闘時にしか出てこないため、日常での姿をまったく想像できなかったからだ。また、シズクはともかくしずくは寡黙で、キャラクターの掛け合いが中心となるADVパートで輪に入れるのかも不安の一つだった。
結果的にはしずくとシズクが頻繁に入れ替わる演出が為され(このような補正を入れないとシズクが一切出てこないことになってしまうが)、一人でボケとツッコミが完結するなかなか便利なキャラとなった。しずくパートでは神樹館組ともども千景に懐き、猫っぽいというか、保護欲を掻き立てるようなキャラクターとなっている――とりわけ、千景とは家庭環境が悪かったという共通点があり、どちらかと言えば「コミック百合姫」に近い姉妹のような関係を築いている(そう言えば、水都と雪花も設定上は家庭環境が悪かったような……?)。千景の姉属性、しずくの妹属性は「花結い」でしか見られない互いに貴重な一面となっている。
シズクパートでは意外にも戦闘狂や狂暴な面が抑えられ、却って濃い面子なかでは常識人のようにも見える――神樹館組には思い入れが強いにしても、年下組全般に面倒見の良い姿を見せ、動物に優しい不良のような扱いになっている(同じ防人組の雀や夕海子にはひどく驚かれた)。また、本編では(設定の噛み合いが悪く)シズクと亜耶のやり取りはほとんどないのだが、「花結い」にてシズクもまた亜耶に惚れ込んでいる……というかダダ甘であることが判明し、芽吹ともども保護者のような立ち振る舞いを見せている。
また勇者部メンバーからは、若葉や棗に並ぶイケメン・王子様キャラと認識されている――雀と杏に至っては「かっこいい」と口に出し、キュンキュンしてすらいる。というか、初期においては寡黙でニヒルなキャラクター付けだった棗が次第に電波化していったので、その後釜についた感じである。
しずく(シズク)については学生服の上に纏っているパーカー、そこに付されている「29」は何のことか、がたびたび議題に上がる。作品全般でも数字の説明は特に何が、個人的にはしずくとシズクの防人番号だと思っている。しずくの防人番号が「9」だとは明言されているが、シズクの方は別個に防人組に数えられているわけではないので、当たり前ながら防人番号はない――ただ、実力としては防人組のNo.2であり(芽吹との決闘のさい、勝敗を分けたのはほとんど偶然だったため、No.1相当と言った方が良いか?)、架空の防人番号として「2」が付されているのではないのだろうか。シズクの戦闘力に目を取られがちだが、しずくの方の防人番号「9」もシズクを抜いての評価らしく、相当に強い部類に入る。それを考えると、しずくとシズク、一人のキャラクターとしては勇者部でも上位の実力に入ると思われ、それだけに戦闘面での活躍が少ないことが悔やまれる。ちなみに、「花結い」にて私服のデザインや自室のぬいぐるみに披露された謎のキャラクターの正体も長年の疑問だったが、「石紡ぎの章 第49話 マスコットの秘密」にてアメーバであることが判明した――精霊たちと言い、サンチョファミリー(園子曰く、猫)と言い、この世界のマスコットは何かがずれている。まあ、キュゥべえのように陥れてこない分マシか。
国土亜耶もまた、「花結い」に参戦するに懸念の多いキャラクターだった――構図としては、他の防人組に先んじて登場し、防人参戦の予告を務める形だった。「勇者であるシリーズ」は変身ヒーローものにも分類されるゆえ、キャラクターの多くは戦いに身を投じる。巫女組であっても、前線にまでは上がらずとも生死の境にはかなり近い位置にいる――桐生静に関しては未だ不明な部分は多いにしても、巫女のなかでも特殊なお役目を担っていたらしく、「神樹の力を付与する」バフのようなことができるらしい――そうなると、赤嶺・蓮華とともに前線に上がっていた可能性すらある。一方で、亜耶がゴールドタワーに配属されているのは、巫女の能力で防人を補助するというよりも、身の回りの世話やメンタルケアなど衛生兵のような意味合いが強い。防人の主要任務が壁外調査であるため、ほとんどはゴールドタワーでお留守番をしており、キャラクターの誰よりも非日常から遠ざけられていると言える――そのため、防人組からは日常の象徴のように捉えられており、「守る側ではなく守られる側」一辺倒と、シリーズ全体でも珍しいキャラクターとなっている。ただ、お留守番するのはイラストノベル版での話であり、アニメ版では葦原国計画の要として天の浮舟に同行しており、守られるヒロイン感がさらに増した。特に、最終決戦で周りの神官が小麦に転じていくなかでの芽吹とのやり取りは、まさにメインヒロインの風格を見せた。
(言い方が悪いかもしれないが)そんな防人の姫だった国土亜耶は、「花結い」でも勇者部の姫として擁護されている――ハイテンションかつ掛け合いの早い勇者部においてついていけているとは言い難いが、芽吹とシズクを筆頭にした保護者によって箱入り娘や天然っぷりをカバーされている。ところで、丸亀組でお姫様ポジションにいた頃の杏はどこに行ったんですかね?
「花結いのきらめき きらめきの章」では新キャラクターとして天馬美咲と法花堂姫が登場している――中立神(正体は月読命と思われる)の巫女という、これまでの陣営のいずれとも異なる二人組であり、ストーリー上、敵とも味方とも言い難い立ち回りである。忌憚なく言ってしまえば、「きらめきの章」はすこぶる評判が悪い――制作進行の問題なのか、メディア展開の予定との兼ね合いなのかはよくわからないが、物語も正史との相関が薄く、シリーズ全体に組み込み切れていないように見える。また、どうにも急ぎ足で、美咲と姫に加え、参戦の遅かった芙蓉友奈と柚木友奈についてもキャラクターの掘り下げが甘い。私自身、「きらめきの章」は本編や他の外伝から独立してしまっているため、どのように評価したものか考えあぐねている。
ただ、美咲に関しては芽吹との共感が強調されており、分類としては緑の系譜が近いように思う――姫については後述の大見出し「日常と調和」に回すとして、美咲がどのようなポジションにあるのか書き留めておこう。ただ、バックグラウンドを簡潔にまとめるのみで、個別のキャラクターにまでは立ち入らないと断っておく。
芽吹と通ずるところがあるのは、現実世界(神世紀168年)にて、大赦の巫女になれなったことが大きいようだ――神世紀100年代の大赦がどのような運営を行っているのかは不明だが、ともかく、内部に巫女を抱え込んでいるらしい――そして、美咲は試験に不合格として大赦入りできなかったそうだ(能力の面の問題なのか、気質の面の問題なのか曖昧だが。ただ、西暦での千景の離反以降、不穏な考えを持つ傾向にある人間を大赦が意図的に省いていた可能性はある)。また、不合格以降も巫女にこだわり続けたため、周囲から誹謗中傷を受けたとも語っている。
美咲としては、「神樹に拒絶された」と感じ取っており、初期の芽吹に重なる。しかし、初動においては同じ地点に立っていても、その後に進んだ道は対照を為していると言える。正直なところ、天馬美咲のキャラクターは非常に捉えにくい――表向きは冷静沈着で理路整然と話すが、どことなく演技をしているように感じさせ(一人称の僕や男口調は中立神の性質に合わせているようにも見える)、奥に秘めているものを決して見せようとしない。友奈族を筆頭に「本音を隠す」性格は全体に散見されるが、中性的であるゆえに秘密主義かつ蠱惑的、という点では横手茉莉に通ずるところがある。
果たして、「きらめきの章」終盤で明かされた美咲の本心はなかなかに異端だ――中立神(この場合、神の摂理と読み替えた方が良いのだろうか?)の管理が完備される、完全な世界を望んでいるというのだ(ガンダム種死のディスティニープランかな?)。「掟による全体の統轄」と「個々による私的自治」の対立は紀元前からあり、ここに言及することは作品論から大きく外れ、政治的・宗教的にも踏み込み過ぎている――ただ、現行法の均衡としてはリアクション(特に、不測の不利益)は法により補填を図り、アクション(性行為や金策など公で口に出すことを憚れるものも含め)は自由により個々人が責任を負う塩梅に落ち着けている、とだけ記しておく。
作品から離れ、一般の社会通念に照らしても、美咲の思想は非常に極端である――「神と人間」「全体と個」、その両義のどこに落ち着くかは自由意志に任せるべきで、「私」を抹殺する発想はさすがに異端と言わざるを得ない。最終的に「個々人の価値」に重きを置いた芽吹とは正反対ともなる態度を取っており、「神への怒り」はもはや腐食し、「人間への呪詛」に転じているとさえ言えるだろう――ひょっとすると、美咲は芽吹が仲間たちのサポートを得られなかったもしもの姿なのかもしれない。また、語弊なきよう、念のため特筆しておくが、「勇者であるシリーズ」も完全な個人主義というわけではなく、最終決戦にて否定したものは「神の法」であり、「人間の法」ではない。
「きらめきの章」の最終盤、美咲は中立神の力を得、自らが神の化身として勇者部に立ちはだかる。その造形も、天の神の八咫鏡に対応してか、八尺瓊勾玉を想起させる(それならば、「花結いの章」のスサノオ戦は草薙剣にすれば良かったんじゃないですかね……?)。決戦後、中立神の試練は終わり、神の力も剥奪される――ただ、美咲も中立神への信仰を取り下げたわけではなく、神の国(神道であれば、高天原なのだろうか)に至れなかったことは残念に思っているようだ。本人からすれば無慈悲にも思えるかもしれないが、美咲は再び人の道を歩むことになる結末だ――だが、今度の道には法花堂姫が同行人として名乗りを上げている。姫が終始一貫して信じているのは美咲の敬虔ではなく人間であり、地獄にまでついて行き兼ねない様は天の神戦での東郷を思い出させる(個人的には『罪と罰』のラストシーン、流刑に処されシベリア送りにされたラスコーリニコフを追ったソフィアを思い出した)。
「きらめきの章」でもまた、神の道は否定され、人の道が選ばれている――同時に、人の道は互いが互いの案内人になる必要を示し、締め括りとなった。ただ、個人的にはコンシューマ版でこのあたり、もう少しゆっくりと補完してくれると嬉しいです。
・日常と調和
・・日常の導き手
犬吠埼風、古波蔵棗、弥勒夕海子
それぞれの陣営には当たり前ながらリーダーがいるのだが、その内訳を見ると若葉、芽吹、園子(小)、歌野とやはり当たり前ながら「非日常」に大きく偏っているキャラクターが多い――というか、元祖勇者部部長たる犬吠埼風以外は「武」を司る立ち位置にある――軍神アレースや源義経の例をわざわざ出さずとも、戦場において導き手は必須であり、各々の活躍は上記で十分に認めたと自負している。そして、「非日常」の総大将はしっかと若葉に冠されている。
しかし、我らが風先輩だけは軸足を「日常」においており、改めて全体から見返すとリーダーかつ調和的と唯一とも言える特殊な型であることに気が付く(アニメ一期が「結城友奈の章」なだけに、ファンはむしろ、後々登場するバリバリの武闘派の方に驚いたが……)――日常においては必ずしもリーダーが必要なわけではないが、風先輩は初期メディアより一貫して、日常の導き手の役割を担っている。あとの二人にも言えることだが、実力や功績以上に人柄によって他人を惹き付けており、この点が若葉たちのカリスマと最も異にするだろう。
「花結い」初期の日常イベントに「勇者部部長総選挙」というものがある――これは四人のリーダー(風、若葉、園子(小)、歌野。防人組以降は未登場だった)から改めて勇者部部長を決める、コメディ調の下克上だった――しかし、風先輩が部長を防衛する結果となっており、以後も部員の増え続ける勇者部の大黒柱と認められている。リーダーの自覚の強い若葉や芽吹に関しても不服というよりもむしろ心服しており、風先輩の立場が悪くなると擁護を出すほどだ。日常の導き手たる風先輩が改めて勇者部部長として確認されているというのも、象徴的なものがある――ひなたが実質的な支配者だろとかは言ってはならない。
中期以降のメディア、特に「花結い」での大所帯の影響を受け、風先輩は「仕事に生きるビジネスウーマン」のような側面が強くなり、女子力が枯渇しつつあるが、初期メディアでは意外にもポンコツ系だった――「結城友奈は勇者部所属」や「樹海の記憶」では「風先輩がポカして(内容的にも量的にも)無理な依頼を引き受ける」 ⇒ 「部員たちがてんてこ舞いで片付ける」がお決まりのパターンであった――その後、東郷さんにお仕置きされる流れだが、いつの間にか東郷さんの方がオイタをやらかす側になっていた。
お役目により学業がボロボロになっていた風先輩の進路はファンも心配するところであったが、アニメ三期最終回の「その後」にてまさかの研究職に就いたことが判明――シリーズ全体から見ても珍しい理系女子である。神樹が遺していった欠片(エネルギーの塊らしく、石油みたいなものなのだろうか)の研究に従事しており、元勇者として反応を確認する立場にあるようだ――実験の代替が利かないことを考えると、風先輩一人で数十億の価値がありませんかね……?
正史においては風先輩のみが日常の導き手を引き受けていたが、「花結い」ではそのパートナーとして古波蔵棗が指名されている(この言い方では樹とにぼしがキレそうではあるが……)――この二人も老夫婦かとツッコまれる仲へ進展していくが、今一度棗さん周りの設定を振り返ってみると、不可解というか、不思議なところが多い。
歌野や雪花と同じく神樹とはまた異なった宗教系統に属し、琉球(特に奄美諸島)にて信仰されているニライカナイの勇者である――ただ、ニライカナイは神様そのものというよりも、神様のおわす場所(高天原や桃源郷のようなものか?)であり、神樹の勇者とは発想が根本から違うらしい――神樹が土地神の集合であることを考えると、神々のおわす海そのものに仕えている、と考えた方が良いのだろうか。
勇者システムのうちでも、精霊に関する部分がまったく異なっており、全般的に棗さんが直に神の声(海の声)を聴いているような描写が為されている――サポーターというか、相棒というか、マスコット的な立ち位置にあるペロも本物の犬である。神の声を捉えることができる、という点で、勇者と巫女、二つの役割が完結しており、「勇者と巫女、両方の素質を持つものが救世主である」という大赦の言い伝えとの兼ね合いはどのようなものなのか――言い伝えはあくまで、「(神樹の)勇者と巫女」ということなのだろうか。
初期でこそ、自然児だったり、超然としていたり、宴会好きだったり、謎多きキャラ、と捉えられていたが、次第にただ単に何も考えていないだけだと露見していった。しかし、若葉、歌野に並び心技体が揃っており、特に心の面では他の勇者に比べても頭一つ抜けているように思える(個人的には、石紡ぎの章四話「例のメモの秘密?」で見せた、棗、若葉、歌野のボケトリオが好きだった。ただ、会話が噛み合わなさ過ぎて話が進まなくなるが……)。本人もたびたび口にする「母なる海」のごとく、棗もまた鷹揚や寛容を感じさせる大人物に円熟していった――神道では山岳信仰が強く、イメージやモチーフも植物や大地に根差す場合が多い。一方、海の比喩を好むのはニライカナイ信仰に加え、仏教系統(特に大乗仏教)であり、やはりここにもエキゾチックなものを感じる。
「花結い」中期以降、風先輩とのカップリングが強調され、風先輩がオカン化していったに伴い、棗さんもオトンであるかのような言われようが作中、ファンのあいだ両方に増えた――いや、女子中学生にオトンってどうなのよ。棗さんの最期には未だ曖昧なところが多く、「古波蔵棗の章 1-5」では神世紀301年まで生き延びているようなカットも見られた。ただ、描写に乏しくどのように解して良いかは今一つわからない――今後、補完が入る可能性もあるので、ここでは言及を避けた方が良いのかもしれない。
弥勒夕海子については、「導き手……?」という感じだが、一応、夏凜に対する風先輩、芽吹に対する弥勒さんのような対立項があったものと思われる(歯切れが悪いのは、どうしても私見の域を出ないからだ)――イラストノベル版『楠芽吹は勇者である』にて、弥勒さんは腐っていた頃の芽吹に叱咤激励を飛ばし、同時に言葉以上に行動で防人のあり方を示している。ただ、アニメ版にて弥勒さんの主要エピソードが悉くカットされたので、この立ち回りが残っているのかはぼんやりで判断がつきかねる――アニメ版では「先達」よりも「副官」の要素が強調されているようにも思える。アニメ三期四話では、芽吹の戦線離脱の際、弥勒さんが臨時で指揮を取っていた。本来ならば、防人番号の序列に従うはずだが、このエピソードでは連絡系統すら崩壊しており、緊急での対応となる形である――それでも全体の士気を上げる結果となっており、指揮官の適正自体はあると伺える。「花結い」では、弥勒さんのリーダーとしての資質が語られることもあるものの、それ以上に蓮華とペアになっての暴走が目立ち、やはり「リーダー……?」となってしまうが。
それなら弥勒さんは導き手なのか違うのかどっちなのだよって感じだが、普段の言動はともかく、志ばかりは本物と言わざるを得ない。「勇者であるシリーズ」のキャラクターは全般的に脳筋と言われるが、そのうちでも若葉を筆頭にして「武士道」を中心に纏まっている。上流階級の精神性も風土や歴史を強く反映するもので、日本の武士階級は「戦に赴き、死に臨む代償としての富と名誉」という考えが強い――そのため、清貧や諸行無常の概念が引き出されてくるのであるが、無論、西洋においても同じ解釈が取られているわけではない。
西洋の貴族階級は「高い地位にあるゆえの品性と恩情」と、どちらかと言えば地位の方が先行する嫌いがある(戦争には奴隷を駆り出していたからな、とかは書かない方が良いか)。設定上は、勇者や巫女を輩出した家は名が上がるため、多くのキャラクターが上流階級に当たる――というか、乃木家と上里家に至っては上述のとおり王族扱いだが、生まれを気にするキャラクターの方が珍しい具合だ(日本のサブカルの世界では、キャラクターは無条件で中流階級以上という暗黙の了解が確かにあると言えばあるが……)。
そこのところ、弥勒家の二人は真逆を行っており、奇人変人扱いされる主因ともなっている(蓮華はともかく、夕海子の時代には没落しているので尚更である)――家名が先行しているためか、弥勒家の二人の考えは東の「武士道」よりも西の「騎士道」(あるいはノブレスオブリージュ)に近い。蓮華が咄嗟の事態に弱い面のあるだけ、夕海子の方が精神的には熟しているとまで言える――いや、夕海子の方もコメディパートでは瞬間湯沸かし器みたいなもんだが。普段はおくびに出さずとも、芽吹が夕海子を尊敬しているのは人格に依るところが大きく、勇者や防人というよりも哲人としての支持を受ける稀なキャラクターともなっている。19世紀末には西洋貴族が腐りに腐っていたことを考えると大したもんだ。
何だかんだ、作中で散々やらかしても慕われているあたり、本当にカリスマはあるのかもしれない――他の三年組が大概というだけかもしれないが。
・・ジェスター
秋原雪花、桐生静、花本美佳
まずジェスターって何だよって感じだが、中世ヨーロッパに見られる宮廷付きの道化のことである。ただ、実際にどうであったかよりも、シェイクスピアを元祖とする、後世の創作による肉付けの方がイメージとして根付いているように思う(特に『リア王』)――なので、ここでは職業としてのジェスターよりも、役割としてのジェスターを念頭に置いて話を進める。
ジェスターは確かに味方陣営に属するものの、その振る舞いは敵味方の区別がつかない場合が多い――トリックスターと明確に異なるのは、役割として悪ふざけや冗談(ときに、罵倒や軽蔑されるようなものも含む)が先んじて周囲から認められているということだ。このような言動を行うのも、周りを笑わせ、調和や士気を保つ務めがあるからで――場合によっては直截的に表現することが憚られる真実を、悪ふざけのベールに包みながら告げる役割も引き受ける。ジェスターは宮廷においては地位が低いものの、歯に衣着せぬ言動を許されているのは、こう言った潤滑油を引き受ける代償の意味合いが強い。結果、トリックスターが本当に予見できないものである反面、ジェスターは暗黙のうちに導きや助言が期待される立場ともなっている。
秋原雪花、桐生静、花本美佳をジェスターと見做して話を展開するわけだが、思い違いをして欲しくないのは、あくまで役割があるだけで、その本心は他のキャラクターと相違ないということである。ジェスターもまた舞台装置ではなく人間であり、相応の葛藤は抱いている――ただ、宮廷におわす王族や貴族の葛藤とも異なり、独特の様相を呈することが多い。それどころか、ほとんどの場合、真実を突きつける務めゆえに、却ってより根本的、より人間的な深みを帯びている。
秋原雪花は正直なところ扱いが難しいキャラクターである――評論としてどのように解するか以上に、単純に作中のキャラクターとして動かしにくい。初期でこそ「闇メガネ」「チョコレート0個」「カップリングがない」など散々な言われようで、どちらかと言えば負けヒロインや不遇ヒロインを好むファンに目をつけられ、味わい深いキャラという評価を受けていた――別に、雪花が外れだと言いたいわけではないのだが、「勇者であるシリーズ」のファンが求めるものからは逸れてしまっていたように思う。なので、ここでは雪花というキャラクターの分析よりも、作品全体との噛み合わせの悪さへの反省会のような色味が強くなる。完全に余計なお世話である。
勇者部が雪花から信頼を勝ち取ったのは、「花結いの章」、スサノオ戦直前のことであり、それまでの態度には冷淡な部分がある。本人も自己申告しているように、(北海道での経験ゆえか)他人を無条件で信じることに嫌悪感があるらしい。新しい環境には警戒心を露わにする方が自然ではあるとは言え、雪花の初期の言動は疑心に根差すものが多い。
雪花の顔見せは「花結いのきらめき」発表時であり、その造形には棗さんと同じく既存のキャラクターから差別化を図る、制作側の実験の意図があったように思う――神樹系統とも異なるアイヌの神々(特にカムイ)に仕える勇者としての設定以上に、内面において厭世的・冷笑的なところが強調されていることが思い切った特徴だ。具体的には「疑い深く、容易に本心を見せない」「オシャレ好きで同年代よりもませている」「話の輪から一歩退いている」などなどが挙げられるが、これらも設定も実のところ、友奈族の秘密主義、風先輩の女子力云々、園子の傍観者の気質など、それまでの傾向の延長線上にあり、まったく見知らぬ土壌から生えてきたものでもない――しかし、これらの設定を雪花一人に均衡させた結果、保身と楽を求めがちな小市民のような印象を与えることになってしまった(あくまで、防衛手段としてこのような反応を見せていると特筆しておく。実際は、他のメンバーに負けず劣らず正義感が強く、場合によっては囮や陽動など自己犠牲も辞さない)。忌憚なく言えば、「勇者であるシリーズ」のファンは無垢と敬虔の少女、言わば精霊や偶像のような、理想的な少女を求める傾向が強い――雪花は精霊と呼ぶにも偶像と呼ぶにも人間味が強く、アイロニーやニヒリズムを楯に責任から逃げていると取られかねない描写は確かにあった。
雪花をジェスターと見做して話を引っ張るならば、このような態度も役割として演じることを強いられているもので、雪花単体のキャラクターが破綻しているわけではない――ジェスターは相当な異常事態でない限り、矢面に立つことは避け続けるのだ。ただ、雪花=ジェスターの構図を成り立たせるにも、一つだけ致命的な問題がある。
ジェスターは自ら名乗るものではなく、王から居合わせることを許されることで初めて任命されるものである――王が明確に立場を言い渡す場合もあれば、大目に見る態度によって暗に示される場合もある。ところが、雪花が、というよりかは勇者部自体が、自らの立場を表明したり、毅然とした態度で地歩を主張したりすることは実はほとんどない(家の名を頻繁に出す弥勒家はこの例外になっているが……)。若葉や銀の英雄的立場も、本人が名乗っているわけではなく、周囲の人間から祀り上げられている具合である。あくまで肩書やポジションはコミュニティにあって、暗黙のなかで自然に定まるものである。
そもそも、ジェスターが成り立つ条件として、「作中全体を俯瞰して捉えていること」が肝要になる――これはもちろん、「真実を突きつける役目」と表裏一体になっているからだ。作品論ならば、この説明で問題はないのだが、実際に作品に書き起こすとなると、さらにもう一歩進める必要が出てくる。真実を知っている以上に、「作中の展開に自ら関与すること」ができなければ、どうしてもキャラクターの動きがぎこちなくなってしまうのだ。古の預言者のように、自分の宣託を自分で実現する、とまでは言わないが、少なくとも、真実の告白の場を整えられる程度には関与できないと、言葉の重みがどうしても薄れてしまう。引き続き宮廷を比喩に出せば、物語を操作でき得る最有力はやはり王である――しかし、王がそのままジェスターとなる例は珍しい――王が明け透けに何でも言ってしまえば、プロットが大混乱に陥ってしまうからだ。
その打開策として、ジェスター――言い換えれば王の影を作り出すことで、物語の枠組みをしっかと固定するのだ。論評の上では、王とジェスターは表と裏であり、一人のキャラクターとして評されることが多いが、あくまで作品の外から見てであり、作中において同一性、あるいは癒着を登場人物によって指摘されることはほとんどない。それでいて、ジェスターは真実に変更を加える際、王を唆す形で行うのだ。
それならば、雪花がジェスターならば、王には誰が該当するのか? という疑問が当然浮かぶ。ここでの王は若葉やひなたのような相応の肩書を持つキャラクターではなく、より物語の絡繰り、より舞台装置に近い人物のことである――そしてそれは、他の誰よりも勇者史を知っており、自身も設定の根幹に与する園子である――悉く大赦が立ちはだかるため、園子も万能というわけではないものの。
記事の冒頭で園子(と東郷)を救世主の立場と断じた手前、今更、救世主ではあるが王ではないなどとレトリックを捏ねくり回すつもりもない。問題になるのは、王たる園子自身がジェスターの部分も多分に持ち合わせていることだ。
救世主たる東郷と園子の関係は上記にあるように、光と闇と言ったもので、実際の掛け合いに起こした際、王とジェスターの仕組みがすでにここに表れている。この二人にあっては東郷の方が王の役割を引き受け、普段のおちゃらけた態度を抜きにしても、園子は甘言や唆しを仕掛けて相手を操作しようとする場面が多い(アニメ一期の壁壊しがその最たる例だろう)。
二人の絆も手伝ってか、東郷と園子の関係は完全に閉じており、王とジェスターのあいだに何かを付け加えることを許していない――すなわち、東郷の方からなり、園子の方からなり、さらにジェスターや侍従を派生させようとはしないのだ――「花結い」の勇者部に明確なジェスターを配置するならば、園子に紐帯する形が望ましいが、園子自体が不用意に関係の枝葉を広げることに忌避があるように見受けられる(さすがに、当人たちでもある須美と園子(小)は手元に置いておくことがあるが)。何よりも、園子はあまり他人を話を聞かないタイプ……いや、しっかり聞いて、あまつさえ全部覚えているのだが、自身が助言や知識を与える側であるゆえ、他人の言葉で意見を変えることがほとんどない。王のなかでも賢王の類であり、決して唆されることがないのだ。
長々と書いてしまったがここまでを纏めると、雪花は紐帯する王が不在でありながら、ジェスターの使命だけは残ってしまっている――他のほとんどのキャラクターと同じく真実からは疎外されながらも、真実を突きつけなければならないならば、苦しい立場に置かれることは当然だ。汗牛充棟、このようなジレンマに前例がないわけでもないが、やはり制作者としては動かしにくいと言わざるを得ない。いやが上にも、「花結いの章」での最大の真実、「銀や歌野の死」についてはなぜか赤嶺が告げる形となっていた――それぞれの個性や設定は置いておいても、作品構造の点では、この役割は雪花、あるいは雪花に唆されたもしもの園子に引き受けさせた方が全体を見通しが良くなったように思う。
丸亀組や防人組など、造形が固まり切るまで時間の掛かったキャラクターは意外に多いが、雪花はそのなかでも最難関であった。雪花がキャラクターとして独り立ちするには、「花結いの章」終了までを待たなければならなかったように感じられる。
新章「きらめきの章」の開始時点で、雪花は勇者部に全幅の信頼をおいており、それまでよりも甘えたり、欲を出したり、自由に動くようになった――それに加え、思いがけない救済も入ったのだ――新キャラクター、桐生静の登場である。シズ先輩も「ジェスター」の項目に含めているとおり、この記事ではこの二人を同系統として扱う。そして、王不在のジェスターの打開策として、「ジェスター同士のカップリングを作る」ことが功を奏している。これについては筆者も思いつかなかったというよりも、そのような前例を知らなかったというのが本音だ。
ここからは雪花の相方なるシズ先輩について見ていこう。
鏑矢組においては、蓮華が勝手にリーダーを名乗っているものの、実際に統制を図っているのはシズ先輩と思われる――口が上手く、赤嶺や蓮華をそれとなく誘導するような場面も見られる。このことについて、雪花は「勇者には巫女の言葉が本当に神樹から受け取ったものかは判断がつかない。嘘八百を並べられたとしても、勇者は従うことしかできない」と「うひみ」の根幹にも抵触する皮肉をシズ先輩にぶつけている(このとき、シズ先輩はうす笑いを浮かべるに留めたが)。鏑矢組に関しては、肩書としてのリーダーは置いていないのか、三人に指令を出す何者か(おそらくは大赦での直属の上司)が名目上のリーダーとなっているのかは判然としないが、三人の上下関係はそれぞれの気質の噛み合いの結果、自然に落ち着いたという印象を受ける。
前述の比喩のとおり、桐生静を「(鏑矢組の)王」と言ってしまうと大袈裟な気もするが、シズ先輩にある程度、赤嶺と蓮華を操作するだけの心得があり、どちらかに突出しているわけではないにしても、王とジェスターの関係を一人で完結させているように思う――ただ、先にこの二つの役割が同居することは珍しいと書いた手前、シズ先輩に関しては無理にこの構図に当て嵌めない方が良いかもしれない。悪ふざけに寄ってはいるが、風先輩と同じく調和を以て人を治めるタイプと考えた方がその個性を理解できるだろうか(とは言え、まだポンコツだった初期の風先輩も悪ふざけで場を収めようとすることがわりとあった)。
反面、お笑い好きであること、「花結い」五年目記念イベントでピエロの仮装を披露したこと、園子と同じく二面性が強調されていることを考えると、シズ先輩がある程度道化師を意識して造詣されたキャラクターであるとは認めざるを得ない――それも、ジェスターというよりかは、一般的に思い浮かべるクラウンの方に傾いている感じだ。
また話がややこしくなるが、役割としてのジェスターとクラウンにも明確な区別はある。ジェスターは先のとおり、平穏や調和に根差した確固たる目的を持って他人を笑わせるが、クラウンは「他人を笑わせる」そのこと自体が動機となっている――もちろん、実際に物語に書き起こした場合、一人のキャラクターがまったく一方に偏頗するわけでもないが。
物語を読むにあたり、読者にとってジェスターとクラウンを区別する一つの目安は、該当のキャラクターが賢者として想定されているか、愚者として想定されているかである。二つの道化師について、(作者と読者の対立においても、作中内の登場人物同士の対立においても)「頭が足りないものと見做す」という暗黙の了解は共通している――しかし、ジェスターは先に述べたように「真実を突きつける」役割もあるため、演技としてはアイロニーやウィットやペダントリーなど、頭の良さ、特に弁論の妙を感じさせるものが多い――このような演出や表現によって、むしろ頭が足りていないのは周囲の人間で、本当の賢者はジェスターである、という秘密を浮き彫りにするのだ。
他方、クラウンは決して他人に劣等感を与えてはならない不文律のようなものがあり、大道芸や仮装など、言葉よりパフォーマンスで笑わせることが断然多くなる――言葉を使うにしても、言葉遊びやナンセンスなど、支離滅裂に傾倒しがちである。結果、クラウンに対して導きや助言を求める、言い換えれば真実を求める機会は目減りする――あくまで周囲から期待されないだけであって、それでも時として真実を突きつけるため、クラウンは愚者なのである。
ジェスターとクラウンの区別を意識した上でシズ先輩を見てみよう――日常パートにおいて、シズ先輩は間違いなく「他人を笑わせるために」他人を笑わせているため、クラウンである。しかし、非日常パートにおいては鏑矢の一人である以上、真実から逃げ回ることを許されておらず、詰問や糾弾の態度を取る場面も披瀝している――それも、ジェスターと呼ぶにも悪ふざけを取り払い、無慈悲が過ぎるようにも見える。
普段の言動からかけ離れた、冷たい頭脳を見せる部分は園子やひなたのキャラクターに近い――しかし、こう書くと意外に思われるかもしれないが、シズ先輩はかなり神経質なタイプで、自分自身にまで冷淡を徹せられるほど独裁的ではない(この点が園子、ひなたと大きく違うところである)。
いくつか例を挙げると、「石紡ぎの章 31話 友のために」にて、球子が(緊急時とは言え)私的な理由でカガミブネを使用を頼んだとき、取り付く島もなく断っている(論法としてはシズ先輩の方が正しい。ただ、このときの口調が必要以上に厳しかったため、プレイヤーからは反感を買ってしまった)。しかし、のちのイベントにて、シズ先輩はあのときもっと上手く場を執り成せたのではないかと後悔を見せている。
また、「きらめきの章 第五話 「歓迎」」では弥勒家が蓮華の時代に没落したと知り、人知れず落ち込んでいた――それも、自分の監督不行だったのではないかと、自分を責める形である――未来の自分のことで自責の念に駆られるというのも変な話だが。その後、シズ先輩はもっと二人のことを知りたいという理由で、それとなく赤嶺、蓮華と一緒にいる時間を増やしている。
シズ先輩に関しては、態度が硬質化するとき、二面性が現れたというよりかは、嫌悪がありながらも無理に演じている印象が強い(ファンとしては、晩年のひなたを真似ていると取りたいが、さすがに憶測の域を出ない)。特に大赦の機嫌を損ねない場合に頑なになることが多く、鏑矢時代に何かあったのかと邪推せざるを得ない――ただ、これも赤嶺と蓮華に慕われている手前、チームを守るという責任感が先走っているのだろう。
ここでようやく雪花とシズ先輩の関係に話が戻るわけだが、この二人の魅力、というか個性の受け取り方には通ずるところがある――道化師への親しみはある種の不気味に裏付けされており(スティーヴン・キング『It』のペニー・ワイズなんかもその一例だろう)、ストレートにかわいさの表現される他のキャラクターに比べ、どうしても癖が強いように感じる(場合によっては、否定的な意見が勝ることさえある)。
雪花と静が揃う「きらめきの章」以降、実のところジェスターの重要性は薄れているように思う――「花結いのきらめき」において、最大の真実とは銀と歌野を筆頭にした勇者の死であるが、「花結いの章」を経、勇者部の一人ひとりに真実から目を逸らさない覚悟が決まっている――真実を突きつけたあとにまで主役として残るのは英雄やお姫様のみである。
ただ、使命を解かれたと言って個性まで変質するわけではない――雪花一人に残った気質ではないにしても、「平穏と調和を保つこと」「他人を楽しませること」「ときに導きや助言を与えること」は依然、勇者部において重要な仕事である。ただ、人間の安心や安堵には、「平穏と調和を与えられること」「他人に楽しませてもらうこと」「導きや助言を与えてくれること」も必要とされ、雪花に対するこの役目は同じタイプであるシズ先輩が引き受けているように思う。
秋原雪原と桐生静の関係は、他のカップリングのように表立つことはないが、皮肉や冗談で覆い隠された沈黙のうちに、確かに愛情が秘められている。
続いて、花本美佳の話に移ろう。ただ、美佳は上記二人と趣が大きく異なり、突きつける真実は「神々の不条理」ではなく、まったく「郡千景のこと」に絞られている。美佳に対する王は千景で間違いのだが、王とジェスターの関係とも少しばかり外れている――粗相を許されているにしても、王たる千景には決して舌鋒を向けないのだ――「うひみ」ではひなたを導く役目も引き受けていたが(地獄への舗装を敷いたと表現した方が正しいだろうか?)、ぐんちゃんが絡むと導きや助言を授けるというか、王の意向を無理やりにでも押し通す役割を演じている。どちらかと言えば、お姫様と騎士だろうか? いや、飼い主と狂犬だな。 美佳の告げる真実とはずばり、「郡千景の遺体の在り処」である――それも、作中のキャラクターではなく読者に突きつける形であり、イレギュラーが多いことを考えると、「黒髪族」(トリックスター)に含めるべきだったかもしれない。 とにもかくにも、花本美佳周り、そして郡千景の遺体との関係に話を進めよう。 美佳は西暦時代、郡千景を見出した勇者として、中期メディアあたりから名前だけは確認できていた(アニメ二期、慰霊碑のシーンにも名前を確認できる)――結局、登場は正史ではなく、外伝に当たる「上里ひなたは巫女である」にて、安芸真鈴ともどもという形であった(真鈴の方は、一応「のわゆ」にも登場しているが、扱いが完全にモブである)。「花結い」への参戦も遅い部類に入り、正直なところ、全体としてキャラクターを掘り下げるだけの材料が足らず、この記事ではどうしても千景の遺体の話が中心となってしまう。 「のわゆ」の時点で、千景の死後、その遺体は消え去ったと語られている(遺棄された、とかではなく消え去ったというのがより謎を深めていた)――長らくその部分には触れられず、ようやく真相が明かされたのが、イラストノベル版『乃木若葉は勇者である』完結から3年弱経って公開された「上里ひなたは巫女である」(『勇者史外典 上』収録)にてである。そこで、花本美佳が千景の遺体を在り処を知っている……というか、埋葬を施した張本人であることが判明した(荼毘に付したのか、土葬なのかまでは不明)。ひなた、真鈴、烏丸、それぞれ勇者を見出した巫女たちの暗躍が並行して語られつつ、美佳が死後の千景を追った姿も克明に描かれている――美佳の視点に関しては、偏愛・偏執の色味が強いというか、その言動は東郷に勝ると劣らないヤバい人である。大社内部での千景至上主義とも呼べる発言の数々に始まり、神樹を本来の神道から外れているとして否定(美佳は神社の娘であり神道に造詣が深く、信心深い性質である)、仕舞いには千景の遺体が実家にて適切に処置されていないことを知るや否や、奪還しに行く姿に読者は色んな意味で驚かされた(しかも、実家で鉢合わせた千景の父を酒瓶でぶん殴っている)――育った環境の悪さから愛を求める傾向が強いからと言って、ぐんちゃんの周りにヤバい女を終結させるのはやめろ。美佳パートの最後にて、千景の遺体は美佳の実家である神社の境内に埋葬され、そこには彼岸花が咲き乱れていると語られ締め括りとなる――谷崎的な耽美を感じなくもないが、美佳だけ世界観が違いすぎませんかね? 本編に関わる部分はここまでとして、蛇足というか、私見も書き記しておく。美佳は小学生のとき海で溺れた経験から水恐怖症とも呼べるものを持っており、風呂以外(水垢離など)で水に浸かることがない――「花結い」に参戦するにあたり、海やプール、水着回に参加できないのはキャラクターとして致命的ではないだろうか? ただ、設定としては千景の「他人との入浴や水浴びを嫌う」をなぞったもののようにも思う。千景の場合、身体にある傷跡を見せたくないのが理由だが、「花結い」では風先輩の力添えもあり、忌避感が薄れているようである(傷跡の場所は明示されていないが、水着のパレオで隠れることを考えると、太腿だろうか?)。また、「うひみ」では奉火祭後も神主である父ともども大社に留まり、ひなたを中心とした巫女連合の幹部の一人となっている――美佳の父は神職でありながら実務的な性格であり、大赦への改革にも大きく貢献したことが語られている。一方で、娘の美佳のその後の活躍は「うひみ」が巫女連合の結成までであるため、不明な部分が多い――ただ、他の幹部としてひなたや烏丸がいることを考えると、脅迫や恐喝も辞さなかったように思える。常識人枠の真鈴が可哀そうである。
・・黄色の系譜(姉組)
土居球子、安芸真鈴、法花堂姫
サブカルにおいて……というか、文学でも漫画でも映画でも何でも、「家族の絆」は主要なテーマとして扱われることが多い――殊に親子関係は好意的な表現にしろ否定的な表現にしろ、私たちの身近ゆえに取り上げられる傾向にある。そこのところ、「勇者であるシリーズ」では親子関係というものがほとんど掘り下げられていない――千景とその父、横手茉莉と横手すずの例はあり一切がないとは言えないが、あくまで本筋からは外されたところに配置されている(横手親子に関しては、『芙蓉友奈は語部となる』が配信中であるため、主軸なのか違うのか今一つ判断しかねる)。これはやはり、勇者周りの設定に負うところが大きいだろう。勇者や巫女が名誉あるものとされるのは、世界を救う立場にあるゆえだが、見方を変えれば両親が徴兵に了解したということでもある。「わすゆ」にて、須美、銀、園子の両親が登場するが(須美に関しては養子として入っている手前、義父母だが)、数カットのみで、どのような人物かはベールに包まれたままだ。殊に、アニメ一期十話「愛情の絆」にて、東郷さんは子供を大赦に売り渡したと邪推し、親に強い疑心を抱いている(そうしなければ、世界が滅ぶという大義はあるものの……)。とにもかくにも、「勇者であるシリーズ」は親子関係が表立たない、それどころか意図的に秘匿している印象まである。
その代償というのか、補填というのか、シリーズを通して兄弟姉妹の絆はむしろ強く打ち出される――犬吠埼姉妹に始まり、土居球子と伊予島杏の魂の姉妹、三好夏凜と三好春信の兄妹、古波蔵棗と赤嶺友奈のスール的な姉妹、郡千景と山伏しずく(シズク)のともに脛に傷を持つ義姉妹などなど、例を挙げればキリがない(園子(中)と園子(小)、東郷と須美、同一人物同士のものもここに含めるべきなのだろうか……?)。
「花結い」では実際の家族に代わり、犬吠埼大家族――延いては勇者部そのものが家族と表現されることが多い――それも戦友、盟友、同志など契りによって交わされる疑似家族であり、現実に照らせば少女たちよりも従軍する兵士たちに見られるものだ――桃園の誓いや盃の交わりはいかにも若葉とか芽吹とかが好きそうではある。
特に、千景としずくは明確に親に裏切られた描写があるが(設定上は水都と雪花も両親と不仲なはずである。もしかすると、この設定は消えたのかもしれない)、勇者と巫女の実情を考えると、全員が何かしらの意味で両親に見捨てられたとも言える――出兵するとはそういうことである。上記を踏まえると、勇者部は家との縁を失ったものたちが家族の絆を取り戻す場所とも言えなくもない――ただ、この言い回しでは暗い方に穿ちすぎている気もするので、人と人の縁を紡ぎ直す、再生の場と表現することにしよう。
大見出しにも付した「黄色の系譜」は「縁を結ぶ」役割を特に担うキャラクターを総称してのことだ――家族としては(義理含め)姉妹関係が圧倒的多数を占めるが、二人一組として取り扱うと構成が複雑になるので、姉寄り、妹寄りの区別を設けて個々に当たることにする。
大見出しの下に挙げた三人に加え、もちろん犬吠埼風もこのカテゴリーに加わるのだが、先の「日常の導き手」にて十全に記した自負があり、ここで再度書き起こす真似は控える――よって、このチャプターで取り上げるのは土居球子、安芸真鈴、法花堂姫の三人である。
まず、土居球子から見ていこう。球子はギャグパートでは「とにかく喚き散らして場をかき乱す」一方で、シリアスパートでは「誰よりも人を見て観察している」という意外性が初期より打ち出されているのだが、どうにもギャグパートの印象が強すぎて園子やひなたほどは二面性が調和していない感じがある――球子はギャグパートでこそ生きるキャラクターであるにしても、シリアスパートでの活躍が少なすぎるように思う(本編である「のわゆ」からして途中退場だし……)。初代勇者組自体、後世への教訓として勇者の轍を悉く踏み抜く役割と言えばそうなのだが、球子(と杏)は随分とその割を食っている――アニメ三期にて、ついに動くあんたまが観られるかと思ったら、死亡シーンから入る驚愕の構成であり、もはや本気なのかギャグなのか判断に困った。アニメ版「のわゆ」は千景に重きを置いて再構成されており、ぐんちゃんファンは歓喜したが私含むあんたまファンは深い悲しみを背負ったのだ。
数少ないタマの正史での活躍を見ると、意外にも勇者御記での記録に寄っている――千景のメンタル面での危うさに初めて言及しているのはタマであるし、バーテックスを化物とも異なる存在だと示唆している文章すらある――ついでに、杏に対して「付き合っちゃうか」とも書いており、初代勇者組で一番進んでいるのは実はタマじゃないのか?
ただ、検閲によって主要部を黒塗りにされたところにも表れているが、どうにも御記の考察は丸亀組のなかで共有できていなかったようである――杏も杏で精霊の危険性を警告しており、後世の視点に立ってようやくわかるとは言え、この二人の文章を見逃した代償は大きい。「うひみ」にて、杏が精霊に関する報告書を残していたことが明かされ、のちの精霊システムに繋がっていると暗示されているが、球子については特に何のカバーも入らなかった。タマがかわいそうじゃないか?
あんたまが他の四人とも異なる視点を持っていたとは確かだが、同じことは戦闘の面でも言えるだろう――球子は近距離では盾、中距離では投擲と意外に器用な立ち回りであり、後衛の杏ともども失った結果、陣形がインファイトのみとなった――バランスの悪さ以上に、戦場を俯瞰する立ち位置を失ったことが致命的で、その意味でも「異なる目」を失ったと言える。あんたま離脱以降の丸亀組は視野狭窄のような状況に陥っており、千景と高嶋の死を招いてもいる。シリアスパートでは、球子と杏の活躍は悉く裏目に出るか、先んじて潰される形になっており、西暦時代の弊害を特に被ったキャラクターと言えるだろう。
「花結いのきらめき」での球子ももっぱらギャグパートでの活躍であり、やはりシリアスパートでの関与は少ない――とは言え、タカヒロの作風を考えるとこちら側のキャラクターの方が馴染み深くはある。東郷や杏を筆頭に、「花結い」にて明後日の方向に飛んでいったキャラは多いが、何気に球子もぶっ飛んだ一人である。旅館での盗み食いに始まり、登頂と称してのセクハラなど、勇者以前に人として大丈夫かという感じである――「のわゆ」では他のメンバーが各々の方向へぶっ飛んでおり、タマはむしろ常識は弁えているタイプだったはずなのだが……ひなたのおっぱいを揉んだ? 知らんな。年下への面倒見の良さは相変わらずだが、どうにも年下組のリーダーには樹が据えられており、がっつり絡むわけでもない――というか、銀とのクソガキコンビのインパクトが強すぎるため、頼りがいがあるのかないのかよくわからない。
続いて、あんたまと縁の深い安芸真鈴に話を移ろう。「乃木若葉は勇者である」にて登場はしていたものの、あくまでサブキャラクターの一人であり、メインキャラクターとしての参戦は「上里ひなたは巫女である」にて、花本美佳ともどもという形であった。「のわゆ」の時点で、中学三年生、「天空恐怖症」の弟がいる、そばかすがある(「花結い」のイラストでは反映されていないものも多いが)等、造形はある程度固まっており、「うひみ」では雀荘の娘である、キウイが好物等の設定も追加されている――あんたまを見出した巫女ではあるが、設定や性格の面では「時代に翻弄される一般人」の色彩が強く、ファンからは長らく、出番は少ないながらも可哀そうなキャラクターと認識されていた(「のわゆ」では、あんたまの葬儀を最後に登場しなくなる)。
同じ巫女のひなたとのやり取り、あんたまに対する態度を見るに、立ち位置としては風先輩のものに似ており(初期メディアのポンコツ気味な方に近いが……)、「花結い」でもそのキャラクターを補強する路線を取っている――今一つ頼りにされている感じがしないが、それでも三年組のなかではまともな部類と言えよう。
雀荘の娘で麻雀好き、という設定を意外に感じたファンも多かったが、円盤特典ADVにてすでに何度か麻雀に言及しており、東郷に至っては『むこうぶち』のパロディすら披露している(「御無礼!」)――ただ単にタカヒロやスタッフが麻雀好きなのだろう。麻雀を軸足にギャンブラー、ボードゲーム好きのキャラ付けを行う気配もあったが、真鈴参戦から一年後に「花結い」が配信終了しており、いかんせん時間が足りていない具合だ(同時期に参戦した美佳、のちに参戦するリリ奈と柚奈にも同じことが言えるが……)。千景はデジタル以外、ボードゲームやTRPGにも造詣が深いらしく、そちらでの真鈴との絡みも期待されたが、今のところ実現はされていない。
法花堂姫については天馬美咲と同じく、掘り下げが甘くどのように取り扱うか迷ったが、結局このカテゴリーに含めることに決めた――美咲とカップリングがあるとは間違いないのだが、互いに言動が独特でどちらが姉側なのかは疑問の残るものの。そもそも、防人組、棗と雪花など、新キャラクター(あるいは新陣営)が登場するさい、それまでのイメージを裏切る造形がなされるのが「勇者であるシリーズ」の定石だが、姫に関しては特に既存からかけ離れていた。
ビジュアルからしてギャル系であり、それも黒ギャルである(赤嶺と同じく血筋に依るものなのか、メイクなのかは不明だが)――ここ十年でこそ、日本のサブカルでもギャル系が受け入れられつつあるが、90年代、00年代では無条件に忌避されるデザインだった――「勇者であるシリーズ」のファン層を考えると、だいぶ思い切ったキャラクターに思える。しかし外見に反して、苗字の法花堂(天台宗に関連がある)、在籍の阿州水運中学(阿州=徳島の水運業だと吉野川か那賀川絡みなのだろうか?)など土着や歴史を感じさせる要素も多い。
性格としてはその口調に加え、ネットサイトに動画投稿するなどまさに現代っ子で、独特のものとしては「ネゴシエーターの姉がいる」「忍者の末裔」等ときおり意味のない嘘を吐くことである――天馬美咲もそうだが、どこまでが本気でどこまでが演技か今一つわからない。他人を傷つける発言はしないあたり、虚言癖とも違うような気がするのだが、今のところ真意は不明である。
特徴だけを抜き出すとステレオタイプ的にトラブルメーカーと判断しかねないが、実際に暴走気味なのは相方の美咲の方であり、「きらめきの章」ではむしろストッパーの役目が目立つ。本人曰く、霊感がバリバリらしく、美咲の対となる形で巫女の素養が高いと思われるが、とりわけ信心深いというわけでもないらしい――中立神の巫女に選ばれたことについても、光栄であるというよりも、美咲と出会えたことを喜んでいる具合だ。
猫っぽい印象に加え、他人をよく観察しているという意味では球子に近いものも感じるが、「きらめきの章」では美咲の掘り下げに寄っていたため、姫の方は経歴含め謎が多いままとなった。
・・黄色の系譜(妹組)
犬吠埼樹、伊予島杏、加賀城雀
前チャプターに続き、「黄色の系譜」、妹側に数えられるだろうキャラクターを見ていく。
犬吠埼樹はアニメ一期でこそ、「ポンコツ」「スッポコスッ」「自分で起きろ」など散々な言われようだったが、園子合流以降は目覚ましい成長を遂げている……本当か? 初期メディア(特に「樹海の記憶」)においては毒舌が目立ったが、時間を経るごとに姉くらいにしか暴言を吐かなくなった。
メンタルが強い、と評価されることが多いが、どちらかと言えば風と真逆のタイプというべきで、「順風に弱く、逆風に強い」――現実の歴史を見ると、偉大な軍人には樹型が多いように思う――ウィンストン・チャーチルとかジョージ・パットンも私生活は破綻してたし……いや、こういう話はいいや。涙を見せたのも、それこそアニメ二期「勇者の章」、部室での修羅場くらいであり、土壇場でのガッツはまさに目を見張るものがある。
風先輩卒業後は東郷やにぼしを押しのけて二代目勇者部部長の座に就いたが、新入生の有無、活動内容等、神世紀301年以降の勇者部については不明である――補佐に東郷と園子がいることを考えると、摂関政治にもなりかねないが実際はどうなのだろうか――いや、樹は案外、独裁的な采配を振るいそうではある。
アニメ三期のその後では、弾き語りを披露しており、どうやら歌手の道を目指すようだ――どう考えても占い師の方が天職では。他のメンバー――元勇者部、元防人が大赦の直属であるのに対し、樹は異なるアプローチで復興に取り組むのだろう。また、風先輩が球子の面影を留めなかったのとは対照的に、四年後の樹は杏に似てきている――ワザリングハイツの怨霊が乗り移ったとか言うな。
『乃木若葉は勇者である 下』に収録されている原作者インタビューによると、「ゆゆゆ」「わすゆ」にて正統派美少女がいなかったことから、伊予島杏が生み出されたらしい――正史での活躍はまさに悲劇のヒロインであり、また、園子(小)に続き知略に長けると明確に描写されたキャラクターである。『楠芽吹は勇者である』にてさらなる正統派美少女、国土亜耶が登場、続いて「花結い」よりファンからワザリングハイツ伊予島と呼ばれるようになったあたりから何かが大きく捻じれたのだが、杏のぶっ飛び具合はすでにちょこちょこ書いているので、ここでは軍師の部分を掘り下げよう――東郷と言い、この世界は頭脳明晰なほどバグるのだろうか?
恋愛小説が好き、とは公言しているが、どうも本ならば何でも読んでいるようだ――種々のメディアでの言及、あるいは「花結い」にて技名に冠されている作品を見ると、スタンダール『赤と黒』、レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』など恋愛小説だけの射程に留まらないような大作も含まれている。特に『アンナ・カレーニナ』は『戦争と平和』にて書き落したテーマを中心に再構成した、(トルストイ自身の)アンチテーゼとも言える作品であり、その文量もさることながら、読むこと自体に学を要求される類の書物である――中学生で読破した人も珍しいだろう。
アニメ二期、三期では園子が解説役を担う場面が多いが、「花結い」では園子自体が暴走していることがままあるため、杏にその役目が回りがちである――天候の解説や植物の解説など、明らかに理系の方面の知識も有しており、園子ともども知識の底が知れない。
正史では丸亀城の戦いにてその真価が発揮され、指揮官兼参謀として活躍した――前衛の若葉、後衛の杏を主軸に纏まり、初代勇者組の全盛期と言えるだろう――球子のところでも触れたが、あんたまが真っ先に離脱したのは、戦闘面でも非常に手痛い。
杏は「勇者であるシリーズ」において、功績が頭脳一辺倒であり、唯一とも言えるキャラクターだが、「花結い」ではお労しい姿になり別の意味で唯一である――ワザリングハイツ伊予島については言及するか迷ったが、一つだけ誤解を解いておきたい。ハイツさんは亜耶や神樹館組に目がなく、ロリコン扱いされることがままあるが、実際には棗さんやシズクへの反応を見るに、イケメンアイドルにもお熱らしく、正確には面食いである。以上。
「勇者であるシリーズ」、特に「花結いのきらめき」ではメタ発言が多いことが一つのお約束だが、加賀城雀はその言動が、というよりも設定自体がメタ的と珍しいキャラクターである(そんなやつが複数いても混乱するだけだが……)――作中では、「自分の身を守ることに長ける」「生き残る道を探り出す嗅覚に優れる」と表現されているが、要するに何が何でも生き残るという、存在自体が勇者組へのアンチテーゼのようなキャラクターである。もちろん、読者の視点でのみ成り立つ設定であり、「くめゆ」や「花結い」ではその功績に反して、却って低く評価されることの方が多く、割を食っているキャラクターとも言える。本人の性格もあるが、周りからもシリアスパートよりもギャグパートで言及されることがほとんどで……というか、やたら喋るためにギャグパートでは雀の独壇場になりかねないほどである(CVに種﨑敦美さんを起用したあたり、スタッフも狙っているだろう)。
「勇者であるシリーズ」はテーマからして、高貴、高潔、武勇……と「高嶺の花」と評されるようなキャラクターが多いが、雀はそのなかにあって庶民派のキャラクター付けが為されている――シリーズ全体を通して、「のわゆ」でのネット民や「ふゆゆ」での同級生たちなど、小市民が描かれること自体はあるが、あくまで舞台装置として後ろに下がっており、メイン級としては初めて組み込まれたキャラクターと言える――「花結い」では球子も庶民派として描かれているが、本編では戦場においても恐怖を感じにくいなど多少ネジの外れた、武人寄りの人間だと描写されていた――メディア展開に沿ってどんどん卑しくなっていったのはなぜだろう? その後、本当に「小市民」である芙蓉友奈と柚木友奈が登場したが、こいつらもよっぽど頭のネジが外れていた。そして、サブキャラクターではあったものの、雀と同じ愛媛出身かつ小市民である、安芸真鈴も「花結い」に参戦したが、どうにも絡みが薄いまま配信終了してしまった。
正史での活躍は上記したとおり、メタ的なものであり、作中で直接言及されることはほとんどない――防人組の「死者0」の目的への貢献度を考えると、もう少し持て囃されても良い気もするが、武勲を誇らない(誇れない?)点に雀の防人らしさが表れているのだろう。本編番外編でのドラマCDでも、弥勒さんとしずく(シズク)のトリオで大概やりたい放題だったが、「花結い」ではツッコミに特化し過ぎた結果、非常に自由に動くキャラクターとなっている――もはや、同作を象徴するキャラクターの一人とすら言えよう。
なお、「花結い」での印象が強すぎるが、本編にて「チュンチュン」と言ったことはない――むしろ、臆病な自分に「雀」の名はぴったりだと卑下していたはずなのだが、「花結い」では「チュンチュン」を連呼したり、園子に「チュン助」と呼ばれむしろ喜んだりなど、完全に自分を雀だと認識している節がある。お前はそれでいいのか。
アニメ三期「楠芽吹の章」ではついに動き回る姿を披露したが、あまりにも元気が過ぎたため、視聴者から弥勒さん共々「うるせぇ!」と言われた――弥勒さんとしずく(シズク)の活躍がイラストノベル版よりカットされた反面、雀は「花結い」で築いたイメージを反映してか、「弱腰で喚き散らすが生き延びる」面がますます強調されており、シリアスパートでの活躍がよりわかりやすくなっていた。一応、イラストノベル版準拠らしく、「チュンチュン」はやはり言わなかったが、なぜかしずくに対して「ちゃん」付けになっていた――音声では「しずく」と「シズク」の区別が付かないため、その配慮だろうか?(とは言え、雀がしずく(シズク)を呼ぶ場面自体が少ないため、よくわからない)
締め括り
以上で、「勇者であるシリーズ」のほとんど、作中世界の構造やキャラクターには触れられたと思う。だが、この記事を更新している最中に、ビジュアルオーディオドラマ『勇者史異聞 芙蓉友奈は語部となる』の配信が決定、「ふゆゆ」終了後の芙蓉友奈と柚木友奈が描かれることに加え、新キャラクター・横手すずが登場することになった。「烏丸久美子は巫女でない」でメインキャラクターであった横手茉莉の娘である。
横手すずの名自体はアニメ二期の慰霊碑の場面や「かくみ」の結末部に登場していたが、それ以外のことは一切不明であった――この記事を書いている現在では『芙蓉友奈は語部となる』がまだ完結していないため(全六話であるらしい)、すずの記事を起こすにも私見や独自解釈ばかりになってしまう。一旦はこの記事を完結とするが、「勇者であるシリーズ」の今後の展開如何によって、補遺を設けるかもしれない。