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つい最近な気がする読書時間
1987年
澁澤龍彦先生の「高丘親王航海記」は、
母が出版を心待ちにして、
即買ってきた本でした。
澁澤先生を未成年が読んで良いものか?という戸惑いは当時ありましたが、
穏やかな表紙で、このタイトルだから大丈夫だろうと読み始め、
とても好きな本になりました。
平安時代のセレブ高齢者がヤバい冒険しちゃうファンタジーとか、
ユニークすぎるし、
親王がロイヤルだけど、人間くささもあってキュートだし、
とにかく世界観が面白くて、豊かでした。
そして本題ですが、
こういう別世界に没入できる感じの本を読んだ体験って、
周りが見えていないので、
そこだけが私の人生の時系列の中から切り離されて、
別枠である気がします。
テレビの世界は、昔の映像を見ると
「ああ昔の映像だな」と思います。
また、最近TMネットワークさんを見たときのように、
演者の変化を追える事により
時の流れの実感したり、
そして昔一緒に感動した人にもう会えない事による、
時間の取り戻せなさを、
痛感したりしました。
それはそれでまた新たな体験となり、
個人的にガツンときた、大事なものです。
しかし読書は、一人きりの体験だし、
本そのものもいつまでも変わらぬ佇まいで、
日本にさえいれば、
図書館にもそう変わらずあります。
懐かしいな、と思いつつも、
読んだのはせいぜい数年前のような気がしてしまうのです。
何十年も経っているのに、
おかしなことです。
高丘親王航海記なんかは、
30才くらいにも読み返していて、
私の中では、
「子供の頃読んで、最近読み返したやっぱり素敵だった本」
なのですが、
その"最近"がすでにもう、全然最近じゃない!
という、ことに気が付き、愕然です。
人生少し長くなってくると、
記憶の中の時間の流れって、
どれもこれもが均一ではないことを
実感しちゃいます。
育つ子供が横にいて、
周りと関わりながら、変化しながらの
子育てや、
日々変化し続ける仕事の記憶なんかと、
一人きり没入しての読書や勉強の記憶と、
両方があるから、
私は自分というものの
一貫性を保てて、
生きていられるような気がします。