アジサイの呪いと、自己の実在について
今ここに咲いている紫陽花の事を忘れてしまったら、
今ここで紫陽花を見ている私は存在しなかった事になるのか。
小学校2年の梅雨時期のある日、
一緒に帰る人がおらず、
通学路を見回しても誰もいない、
目についたのは、
ブロック塀の上からはみ出して咲いている、青い紫陽花。
「なかなか見事。
同じ敷地に赤いのも咲いてるけど、
近い土壌でも色は変わるんだなー」
とか、私は思っている
け れ ど、
わざわざ人に話す話でも、日記に書けるようなネタでもなく、
このまま私はこの景色を忘れるだろう。
そうしたら、今、
ここに長靴を履いて立って
紫陽花を見ている
私はどこに行くんだろう。
そんな事を急に考えてしまいました。
忘れないでいたら、ずっと存在できるのかしら?
でもその存在は本当に存在なのかしら?
記憶の正しさになんの力があるのかしら?
そんな凡庸な事を、めっちゃ考えながら、
つくづく紫陽花を観察してしまいました。
そんなことばかり考えていたので、
なにを考えているかわかりにくい、
鈍臭い子供だったと思うし、
その頃はそんな自分を
本当に恥ずかしく思っており、
当然人に話して説明できる力量なんて欠片もなかったので、
思いはずっと自分の中に納めておこう、
と覚悟してました。
早く忘れてしまおうと。
しかしそうはいかず、
忘れるはずだった紫陽花は、
ずっと記憶に残り続け、
結構な頻度で意識の水面から
ポコンと顔を出しながら、
はや40年以上が経ちました。
怖っ。
色々と湧いてくる疑問を和らげる為に、たくさんの本を読み、
いろんな人に話をうかがいました。
それにより、自分をだいぶん思考と現実味のバランスが取れた
大人にしてきたつもりです。
でも深い所で、
自分自身から生まれた、
子供の頃のたくさんの考えや記憶が
生きている場所が、
自分の中にはあります。
けっこうしつこいし、役に立たないので、
呪いのような気持ち悪さもありますが、
せっかくなので面白がっていこうと、
そう決めました。
今さっき。