雨
昔、義母は小さな呉服店を一人で営んでいた。
利発で、明るく、いつも店をのぞけば、笑顔で、
「よく、きたね。
こっちへ来てコーヒーを飲んでいきなさい。
雨に濡れるから早くお店に入って」
と、たとえ、他に客がいても私達を丁寧に迎え入れてくれた。
なぜか、訪れる日は雨の日が多かった。
数年前から、日常生活に支障が出始め、養護老人ホームに入所した。
まだ、自由に面会ができていた頃は、今まで通り笑顔で迎えてくれ、ひ孫を抱き上げては、その成長に目を細め喜んでいた。
ところが、コロナ禍の影響で、面会が一年以上できなくなった。
久しぶりに、やっと面会が可能となったその日も雨だった。
しかし、話がまったくかみ合わない。
というより、こちらが誰なのかわかっていない様子だ。
「娘さんの基子さんとご主人がこられたよ」
と、ホームの職員が私達を招きいれてくれる。
娘の名前に一瞬反応するものの、眼の前にいる娘が誰なのか、理解できていないようだ。
「いつもお世話になっています」
と、実の娘に向かって丁寧にお辞儀をする。
まるで、初めて会ったような挨拶である。
「おかあさん。基子よ。わからないの」
「基子さん?名前は聞いたことがあるような。どこかでお会いしましたかね。近頃、物忘れがひどくてごめんなさいね」
バックから取り出した写真を見せる。
以前、孫達と一緒に撮った写真の一枚を見ながら、
「この方は誰?」
と、指さした人物は、本人自身だった。
うかつにも、思わず涙が写真にこぼれた。
すると、
「あら、雨ね。
濡れるといけないから早く中に入っていきなさい」
外はオレンジ色の夕暮れになっていた。