花緑青の時代 (小説)
第二回あたらよ文学賞落選作品です。
一次選考は通過して、二次選考で落ちました。
明治時代あたりのホラーのような感じのお話です。
14000文字くらいです。
この青だ。
俺は確信した。
あの時見た青は、この青だ。
「おや、その絵が気に入りましたかな、橘くん」
金森は不思議そうに俺を見た。俺ははっとしてそちらを振り返った。
「ええ。青々とした山並みがとても美しい。素敵な絵画ですね」
俺が帝都に出てきてから四年目の春が過ぎようとしていた。ここは帝都から列車で四半刻ほどの場所にある金森邸の応接間だ。金森は日清日露の戦争特需で成り上がった初老の男だった。肩につきそうな白髪まじりの髪が印象的だ。
「そうだろうか」
金森は首を傾げた。
いかにも成金が好みそうなきらびやかな装飾品、派手派手しい絵画が飾られている中に、それはあった。
金森は応接室の隅にかかったその絵画を見上げて、不満そうに鼻を鳴らした。
「これはうちの細君が描いたものだが……」
「奥様が? 奥様は絵画を嗜まれているのですか」
意外だ。金森は若い頃はろくな学問も受けてこなかったらしい。てっきりその妻も同じ境遇の人間だと思っていた。
金森は首を横に振った。
「嗜む、というほどではありませんよ。ただの趣味です。この日本画もうちのがまだ私と結婚する前に描いたものだそうです」
よくよく見ると、その絵はデッサンもおかしいし、色の塗り方も雑だった。
しかし、この山の迫力、神々しさは目を瞠るものがあった。いや、この山の青。
若草色のようだが違う。こんな光るように若々しい色は初めて目にした。
「橘くんのような、帝都で絵画を学んでいる人の目に留まるのなら、そうそう悪い絵でもないのだろうか」
金森は少し気をよくしたようにそう呟いた。
「本当はこんな素人の描いた絵は飾りたくなかったのですよ。でも、細君がどうしても飾れ、と。そうか、意外といい絵だったのか」
うんうんと金森は満足そうに頷いた。絵の善し悪しなどわからないのだろう。いや、興味がないのだろう。高価な絵ならば良いものだと思っているだけ。それが見て取れた。
「奥様会心の出来映えの絵だったのでしょうね」
俺は適当に言葉を濁した。よくよく見てわかった絵のアラを指摘してはまずい。
「まあ、絵のことはひとまず置いておきますかな。橘くん、そちらに掛けたまえ」
金森に促され、俺はごてごてした金の細工がつくソファに腰掛けた。
「田村教授のご推薦ですからな。橘くん、君の採用は決まりですよ」
俺は特に話すこともなく、金森重工に就職が決まった。
「ありがとうございます……!」
俺は膝につくほど頭を下げた。悔しい表情をしているのを見られてはまずいからだ。
なんで俺は、工場などに。
俺は絵で身を立てたかったのに。
「青の時代」
地方都市で絵画の神童と呼ばれていた俺は、親の止めるのも聞かず帝国芸術大学に進学した。裕福な商家に生まれ育った俺に両親は甘かった。結局は帝芸大に進学させてくれたのだ。
「入学金は払ってやろう。が、授業料は自分で稼いで払うのだ。絵画など、金にならぬものを学ぶ者を勘当しないだけでもありがたいと思え」
入学金さえ払ってもらえればこっちのものだと思っていた。なんせ俺は神童だ。絵を描いて売れば生計は立てられると思っていた。
そうして意気軒昂と入学した俺は、すぐに壁にぶちあたることとなった。
自分程度の秀才は掃いて捨てるほどいたのだ。そしてその上に天才がごろごろと転がっていた。
金は絵を描いて稼ごうと思っていた俺は、はなから挫折することになる。学費を稼ぐどころか、その日食うものさえ覚束ないありさまだった。
ある日、俺の妹が旦那と一緒に帝都まで様子を見にきた。
「まあ、お兄さま。どうなさったの、そんなにやつれて」
心配半分嘲り半分の表情で妹は尋ねた。その時俺は三日ろくに飯を食っていなかった。
「お義兄さん。よければ下宿先を紹介しよう」
年上の義理の弟にそう誘われた。背に腹は変えられない。俺は自尊心もかなぐり捨てて義弟の世話になることにした。
「青の時代だな、お義兄さん」
義弟が笑いを堪えるようにそう言った。何を言われたのかよくわからなかった。後になって、遠い異国の絵画の神童が、最近は青くみすぼらしい絵しか描かなくなっていることだと知った。
俺は。
何をその時思ったのか今となっては思い出せない。いや、言葉にできるような感情ではなかったのだろう。
義弟に紹介されたのは、帝国大学の教授である田村という五十がらみの男だった。田村は天文学の教授で、俺は下宿をしつつその研究の手伝いをすることになった。
「橘くん。君には数学の才能があるよ。どうだい、帝芸大を卒業したら絵などやめて工業の発展に努めてみないかい。私の知り合いに工場の社長がいるのだ」
入学して三年が経っていた。絵は描いても描いても一枚も売れない。大学の講義の進みにも遅れがちだ。どう考えても俺はもう絵で身を立てることはできないのだ。俺は唇を噛みながら首肯した。すると田村は顔をぱっと輝かせた。
「そうとなれば話は早い。戦争特需で今も人手が足りないそうなのだ。講義のない日だけでもそこで働いてみてはどうだい」
講義のない日には絵を描きたいんです。
そう言いかけて、やめた。
描いていた途中の帝都の町並みの油絵をナイフで切り裂き、俺は金森のもとにやってきたのだ。
「おとうさまー」
小さな女の子の声で我に返った。顔を上げると、大きなドアが少しだけ開いていた。いつから見ていたのだろう、くすんだ青い色の洋服に身を包んだ五歳くらいの女の子が顔をちょこんと覗かせていた。
「おお。美都子」
金森はソファから立ち上がり、いそいそと少女のもとへ歩いていった。
「どうした? お夕飯にはまだ早いぞ」
少女はもじもじとした。
「あの、あのね、おとうさま、みつこね。まろうどさまがいらっしゃったっておかあさまが」
その瞬間、金森の顔色が赤く変わった。それに気付いていないのか、美都子と呼ばれた少女は俺に向かってにっこりと笑顔を見せた。
「あのね、まろうどさま。おとうさまもまろうどさまなのよ! それでね、」
その声を遮るように、金森が口を開いた。
「おい! 市子! 美都子にまた何を吹き込んだ!」
突然大きな声を上げられて俺は怯んだ。
なんだ?
俺は戸惑った。何を怒っているのか。
まろうどとは、客人のことだろう。客人が来たことを知られても何もまずいことはないだろうから、自分の父親を「まろうど」と間違って呼んでいるから激怒しているのだろうか。
小さな男だ。幼児の言葉の覚え違いくらい。この立派な応接間を見てもわかるとおり、金森邸には毎日様々な思惑を持った客人が訪れているはずだった。
俺がそう感じている間も、金森は声を張り上げていた。
「市子! 市子!」
どうやら妻の名前らしい。叫んでも市子という女は現れなかった。そのうち、美都子はするりとドアから出て行った。
その横の壁には、青い山の絵が光っていた。
俺は今日は金森邸に泊まらせてもらうこととなった。
「是非、我が社の最新設備を見学していってほしい。我が社の鉄鋼があれば、露西亜などひとたまりもないのだ。これから色々な国とも戦うことになろうから、忙しくなるぞ」と勧められたからだ。金森の自尊心を満たさせるためだろう。面倒ではあったがこれから、また卒業後にも世話になる会社だ。断る理由はなかった。
俺は離れにある客室に案内された。どうやら隣の部屋にも今夜は泊まりの客人がいるらしい。
しばらくすると女中に風呂の準備ができたと声を掛けられた。風呂場へ行こうと離れから母屋へと暗くなった廊下を歩く。母屋はどれだけ電灯をつけているのかと思うくらい明るかった。そして、眼下に広がる街の明かりも煌々としていて、さすが帝都に近い土地は違うなと一人頷いた。
母屋へ上がろうとした時、ちょんちょん、と袴の裾を引っ張られた。全く人の気配がしなかったので思わず悲鳴を上げそうになったが堪えた。
「まろうどさま?」
下を見ると、先程の少女、美都子がいた。もう寝るのだろう。白い夜着に着替えていた。俺は立ったまま頷いた。
「そうだよ。君のお父さんの会社の見学に来たんだ」
すると、美都子はぱあっと顔を明るくした。
「やっぱり! おにいさんもまろうどさまなのね!」
何がそんなにおかしいのだろう。子供とはよくわからないものだ。俺は曖昧に笑みを返して風呂場へと向かった。
「おお……」
湯気の立つ風呂場へと足を踏み入れ、俺は感嘆の声を上げた。
「ここもあの青か」
風呂場の壁は一面、あの絵画の山と同じ色だった。
美しい色だ。どこからこの顔料を入手したのだろう。
俺は湯船に浸かり、湯気で白む先の青い壁を眺めた。
美しい。あの時の青に間違いない。
俺は満足して大きく息を吸い込んだ。
あれは帝芸大に入学してまもなくのことだった。路地で何枚かの絵画を売っている老人がいた。
その中のひとつの絵画に俺の目は引きつけられた。
洋装の女性がパラソルを持って佇んでいる日本画だった。
「お兄さん、この絵、買っていくかい?」
「え」
俺がまじまじとその絵を、正確には女性のドレスを見ていたからだろう。老人はそう尋ねた。
俺は戸惑った。
欲しい。
この絵、というより、このドレス。
そのドレスは、かつて見たことがないような色をしていた。まばゆい若草のような青色。
欲しい。
この青が。
「百円でいいよ」
老人はさらりと俺に言った。俺はのけぞった。
「百円!?」
百円あればひとつき暮らせてしまう。上京したばかりの俺にはそんな金はなかった。
老人はにやりと下卑た笑みを見せた。
「こんな絵はな。今を逃すともう手に入らないよ」
そう言われてもう一度目を絵に戻す。あえてドレスは見ないようにした。
なんてことはない貴婦人像だ。これくらいなら俺にも描ける。
そう思って「持ち合わせがない」と断りを入れた。老人は「そうかい」とにやりと笑った。
「ハナロクショウにはもう会えないかもしれないよ」
俺の立ち去りざま、あの老人はそう言っていた。
翌日学友に聞いたところ「ああ。顔料の名前だろ。桜の花の花、緑、青、と書いて花緑青」と教わった。
けれど、その顔料は見たことがないという。そして、学友の誰も花緑青の実物は見たことがないということだった。
「幻の顔料」そう言う者もあった。俺はあの絵を買わなかったことが猛烈に悔やまれた。どうしてもあの絵が欲しい。
次の休日、なんとか金の工面をつけてあの路地に行ったが、もう老人の姿はなかった。
「ぐ、げほっ」
俺は湯船の中で咽せ始めた。やばい。湯あたりかもしれない。
咳き込みながら慌てて立ち上がる。
「げほっ、ぐほっ」
咳の合間に息を吸い込むと、同時に黴臭い空気が喉に入り込んだ。余計に咽せる。
掃除が行き届いていないんじゃないか? せっかく壁を美しく染め上げてもこれでは意味がない。これだから成金は。
心の中で毒付きながらなんとか風呂場から出た。脱衣所も黴臭い。
適当に夜着を羽織って咽せながら廊下に出る。すると、廊下の奥に人影が見えた。
二人いる。大きな影と小さな影。目を凝らすと小さな影は美都子だ。ではもうひとつの大きなほうの影は市子という母親だろうか。
「こ、こんばんは」
俺は咳き込みながら挨拶をした。音もなくふたつの影が近寄ってきた。大きなほうの影がにこやかな笑みを見せた。
「ようこそ、花緑青の邸へ」
「ハナロクショウ?」
その言葉に心臓が跳ね上がった。あの幻の顔料の名前に違いない。いや、幻ではなかった。
花緑青は実際この邸にある。
「わたくし、金森の妻、市子と申します」
市子は優雅な身のこなしでお辞儀をした。
想像よりだいぶ若い。金森の妻なら同じく四十過ぎかと思っていた。が、目の前の女性はまだ二十歳になるかならないかに見えた。
こちらの考えていることがわかったのか、市子はふふと笑った。
「わたくしは金森の後妻ですの。前の奥様は事故で亡くなったのですわ」
「あ、それはお辛いことで」
すると市子は優雅に唇を歪めて笑った。
「仕方なかったのです。あれはまろうどさまを差し出さなかったから」
「は?」
何を言っているのかよくわからない。薄ら寒い心地がしてきた。金森も怒っていたことだし、この妻は今心を病んでいるのかも知れない。
医学はとんと疎い。だから仕方ないのだ。気味の悪い人間には近づかないに限る。
そう思い立ち去ろうとしたのだが、ひとつ思い出してしまったことがあった。
「奥様。不躾ながらひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何かしら」
市子は微笑んだ。口だけ。
「あの絵画。応接間にかけられた絵画は奥様がお描きになったと聞きましたが」
市子は「ああ」とわずかに目を輝かせた。
「こちらに嫁ぐ前に、わたくしの故郷を描いたものですのよ」
「そうだったのですか。とても美しい所にお住まいだったのですね」
その場所にはあの花緑青の顔料が珍しいこともなく売っているのだろうか。
俺が考えていると、下からまたちょんちょんと裾をつつく者があった。
「おにいさま。あそこには、おかあさまの前のおとうさまのおくさまも住んでいたのよ」
わかりにくい言葉に一瞬戸惑うが、前妻もそこに住んでいたということだとわかった。金森の妻は二人ともそこの出身なのか。では、帝都から意外と近い場所にあるのかもしれない。
「旦那様は、わたくしに与えられた恵みですわ」
市子がそう微笑んだ。俺は口ごもった。
「それは……随分と仲がよろしいのですね」
突然ののろけにどう答えたらいいのか戸惑う。故郷の話をしていたのではなかったか。
すると市子は首を横に振った。
「仲がよいとかではありませんわ。でも、あの方がわたくしを救ってくださったのです。あの村の山火事から。前の奥さまはその山火事で亡くなっているのですわ」
「なるほど」
妻の実家に一緒に行っていた時にでも山火事が起きたのだろうか。火事場からの人助けとは、金森にも立派なところがあるじゃないか。
そこでふと思いついたことを言ってみた。
「山火事とは。あの青々とした山が燃えてしまったのですね。でも木々は強いもの。今ではまた青々と繁っていることでしょう」
すると市子は目を伏せた。
「どうでしょう」
「どうでしょう、とは?」
「わたくし、知りませんの。あの後あの村がどうなったか。もう誰も住んでいない廃村になってしまったからあれから行ったことはないのです」
俺はわずかに動揺した。山火事で廃村になったということは、もう花緑青もなくなったということだろうか。
せっかくまた会えると思ったのに。
足が崩れ落ちそうになるのをなんとか堪える。
いや、探してみる価値はあるんじゃないか。どこかの廃屋にでも残っているかも知れない。
俺は顔を上げた。
「その廃村になった村を教えてはいただけませんか」
夜着の裾がつんつんと引っ張られたが、それは無視して市子の目を見つめた。
「知ったところでどうするのでしょう」
市子がまた口だけで笑う。
「行ってみたいと思います」
市子はふっと口の端を歪ませた。
「三ツ青村というのですよ」
「みつあおむら」
俺は繰り返した。聞いたことがない。
「ここから列車に乗って二刻ほどかしら。『青上郷(あおかみごう)、青中郷(あおなかごう)、青下郷(あおしもごう)』という三つの郷からなっているの」
「行き方は」
つんつんとまた美都子が裾を引っ張った。美都子は市子の顔を見上げながら言う。
「おかあさま。おにいさまはまろうどさまだから一緒に連れて行ってあげましょうよ」
市子はしゃがみこんで美都子の頭をよしよしと撫でた。
「そうね。美都子ももう五つになるものね。一緒に行きましょうか。三ッ青村に」
俺は心の中で万歳をした。願ってもない展開になった。
明日の工場見学は適当に切り上げて、金森一家と一緒に三ツ青村へ行こう。行き方さえわかれば、後は一人で何度でも行くことができる。
俺は高揚した気持ちで与えられた部屋に戻った。
会えるかもしれない。花緑青に。
そして、手に入れられるかもしれない。花緑青を。
あの青が手に入ったら俺はどうするのだろう。
花緑青があれば、俺はまた絵を描ける気がする。燻った帝都の景色もあの青があれば若々しく光り輝くものになるかもしれない。俺が花緑青を手に入れれば、百円どころではない値がつく。
気持ちは昂ぶりつつも眠気はそのうち襲ってくる。うつらうつらし始めると、隣の部屋から何やら呻き声のようなものが聞こえてきた。
こんな時間になんだ? 隣の部屋も客人が通されていると聞いたが。
はあ……はあ……
聞こえてくる声は、呻き声というより喘ぎ声だろうか。金森邸の女中でも連れ込んでいるのだろうか。
考えつつも眠気には敵わない。消えていく記憶の最後に「おあおさま……」という声が壁越しに聞こえた気がした。
翌朝、頭痛で目が覚めた。
昨夜の風呂場の黴が思った以上にきつかったのだろう。
金森に朝食に誘われ、食堂に向かった。食卓には、金森、市子、美都子の三人が既に着座していた。
「いやあ、本当に見事な機械なのですよ。うちの職工の技もなかなかでしてな」
金森の会社は、主に鉄道向けの鉄鋼を作っているらしい。興味がなかったので知らなかった。日清日露の戦争に続き、今でも軍需物資の輸送に大活躍しているそうだ。
自慢そうな金森を眺めながら俺はいつ三ツ青村のことを言い出そうかとそわそわしていた。
「朝食を食べたら、早速我が街をご案内しましょう」
金森重工は、低い山の山頂の金森の邸宅を取り囲むように百戸ほどの街ができていた。街の住人は全て金森重工の従業員だそうだ。昨夜廊下から見た街の明かりはおびただしいもので、さすがに俺も金森の財力を認めざるを得なかった。
「この街はとても豊かな街ですね。いや、感服いたしました。先の日露戦争で多くの若者が犠牲になったと聞きましたが、よくぞこれだけの職工を集められましたね」
金森の喜びそうなことを言ってやると、案の定嬉しそうに口を滑らかにした。
「ははは。実はこの街の者たちは、大部分が家も故郷もなくした者でしてな」
「浮浪者を雇い入れた、と?」
表面上はそう見えないが、昨夜市子から聞いた話を鑑みるに、意外と情に篤い男なのかもしれない。
金森は「ははは」と笑ってそれには答えなかった。その代わりに市子が口を挟んだ。
「橘さん、この街の者たちは、皆三ツ青村の山火事で焼け出された者なのですよ」
その補足に、今が三ツ青村について切り出すのに丁度よいかもしれない、そう思った時だ。
「黙れ!」
突然金森が立ち上がった。そして、フォークを市子に向かって投げる。俺は慌てて立ち上がり、市子をかばうように金森の前に立った。
「どうなされたのですか!」
そう怒鳴ると、金森ははっと我に返ったように口を閉じた。そして目を泳がせる。
「いや、すまないね。市子はすぐ男同士の会話に口を挟むものでね」
もごもご言いながら金森は再び椅子に腰を下ろした。
「大丈夫ですか」
市子を振り返ると平然と食事を続けている。そして怖かったのではないかと美都子を見ても、こちらはにこにこと愉しそうに笑っていた。
「ああ、社長」
金森が大通りで車を降りると、街の人たちがわらわらと集まってきた。
俺は初めて乗った蒸気自動車というものの上から、中年の運転手と共にその光景を見ていた。
そして、何かむずむずと薄ら寒いものを感じてきた。
何故だ。
俺もこの会社に入ったら、こいつらのように社長に媚びへつらうようになるのかと思ったからだろうか。
いや、それとは少し違う心持ちだ。
「社長、良かったらこの野菜持って行ってくんなせえ」
「社長、おらの倅、帝大に受かったんですよ」
「社長、今度の部品はうちの工場で作らせてくだせえ」
普通に従業員たちに慕われている社長の様子だろう。けれど、薄気味悪い。けれど、何がおかしいのかはわからない。
「橘くんも、いつまでも車に乗ってないで降りたまえ」
「は、はい」
促されて車を降り、そして気付いた。
街の住人の目だ。
青白い顔をしたその人々は、金森を歓迎している目で見つめていた。
そう、歓迎していた。美味いご馳走が目の前に現れたような、そんなきらきらとした目だ。
そっと隣の金森を盗み見る。金森は全く気にならないようで、いやそれどころかちやほやされて自慢げにゆっくりと歩いている。
わあわあと遠くで子供たちの声が聞こえた。金森は不快そうに目を細めた。
おあおさま? まろうどさま? おあおさま?
何やらわけのわからないことを言い合いながらはしゃいでいる。
「橘くん、もう行こうか」
「はい」
俺は金森に素直に従った。
薄気味悪いこの場所に長く留まっていたくはなかった。
いくつかの工場を見学した帰り道、車の中で俺は金森に朝から言いたかったことを聞いてみた。
「朝、奥さまがおっしゃっていた三ツ青村のことですが」
また激昂されるだろうかと警戒しつつ尋ねる。俺の予想に反して金森は吐き捨てるように笑った。
「あんな小汚い村のことは気にしなくていいんですよ」
「小汚い……」
それは帝都にほど近いこの街の賑わいから比べたら貧相な寒村だったのかもしれないが。二人の妻の故郷だというのに。
俺が眉を寄せているのを見て金森は続けた。
「あの山火事は私が火をつけたのですよ」
「え?」
そして金森は運転手に車を止めさせた。
「少し歩きながら話しましょうか」
そう言って運転手と車は帰らせた。俺はわずかに心配になったが、林のすぐ奥に金森邸の門が見えたので、おとなしく金森の後をついていった。
「うちの前妻も三ツ青村の出身でした」
それは昨夜市子から聞いた。
「あそこの村は汚らわしい。腐ったような因習に囚われた村だ。この近代化の時代に、ですよ?」
「どういった因習だったのでしょうか」
金森は遠い空を見つめた。
「妻は、前の妻は青上郷に住まうとかいう神の生贄に差し出された」
「生贄……」
聞いたことはある。山奥の古い村にはそういった伝統がある村もあると。地方とはいえ、都市の裕福な商家に育った俺にはいまいちピンとこなかったが。
「六年くらい前だったろうか。妻の実家に呼ばれ二人で三ツ青村にある青下郷に帰省した。義理の両親は『まろうどさま、まろうどさま』と俺を歓待してくれた。しこたま酒を飲まされ、翌朝気付くと妻の姿はなかった。義父と義母にきくと、嬉々としてこう言った。『おあおさまに捧げた』と」
おあおさま。先程の子供と、昨夜の隣の部屋の喘ぎ声が思い出された。
なるほど。三ツ青村の土着の神の名だったのか。
「だから俺は青上郷の山に火をつけた。青上郷は郷とは言え、おあおさまとかいう神しか住んでいないと妻から聞いていたから」
「それが、山火事に」
金森は頷いた。
「滅ぼすのは青上郷だけのつもりだった。けれどおあおさまとやらの祠がどこにあるのかわからない。山の至る所に火をつけた。とは言え、それほどそこら中に火をつけたつもりはなかったが、気付いた時には私の命も危うかった。
山の中腹まで逃げると、掘っ立て小屋のようなものがいくつも見えた。青中郷のあたりまで来たのだろうと推測した。ほとんど人はいなかった。多分皆逃げたのであろう。私も急いで駆け抜けようとすると、溝に足を挟まれて動けなくなっている娘がいた。それが今の妻だ」
俺はほっとした。この男が山火事を起こして村民のほとんどを焼き殺してしまったのかと思った。
「奥様はじめ、村の住人たちが無事で良かったですね」
金森はうむ、とそこは頬を紅潮させて満足そうに頷いた。自分で火をつけておきながら。
「前妻の実家のあった青下郷の者も、火が迫っているのを見て命からがら川を渡って逃げ延びた。まあ、犠牲が一人もなかったとは言わんが。しばらくして大雨が降り出し山火事は消えた。村にあった人家や牛馬は全て燃え尽きた」
「燃え尽きた……」
俺は唇を噛んだ。花緑青もきっと。
「まあそういうことで私はあの村の住人たちを雇うことにしたのだ。ちょうど日清戦争後の軍需でうちの会社も人手が足りなかった。帝都にほど近いこの地に新しい工場を建てることにした。ちょうど良かったのだよ。前妻が死んでくれたおかげで、うちの会社はさらに大きくなった」
おかげで、というのはどうなのかと思いつつも俺は無言で頷いた。三ツ青村がろくでもない村だということはわかった。
古く悪しき因習の地は滅びるのだ。
では、花緑青は?
その時脳裏に先程の街の住人たちの姿が一瞬過った。
「おお、もう少しだ」
門が見えてきた。と同時に俺は今何を考えていたのか忘れてしまった。
「では、ここで。つまらない話をしてしまったね。ひとまず部屋で休んでおきなさい。帰りは先程の車で送らせよう」
俺はお辞儀をして母屋とは反対にある離れに向かおうとした。その時だ。
「おにいさん」
美都子だ。この声、そして気配を感じさせないのはあの少女だ。美都子はいつのまにかまた足下に来ていた。今日もぴらぴらとしたくすんだ青色の洋服を着ている。
「おにいさん、おかあさまとおとうさまと一緒に、三ツ青村に行きましょう」
美都子が俺の袴の裾を掴んでぶんぶんと駄々をこねるように振った。
「ごめんね。俺はもう今日帝都に帰るんだよ」
花緑青がない廃村になど興味はない。だからそう宥めても美都子は「行こう行こう」と言って言うことをきかない。
「橘さん」
母屋の方から水色の着物がすうっとやってきた。こちらも気配が薄い女、市子だ。近くまで来ると、しゃがみこみ美都子の頭を撫でた。
「この子が」
そう言って俺を見上げた。
「こんなに気に入るのは、橘さんが初めてなのですよ」
俺は戸惑った。子供は苦手だし、そんなに美都子に親切にしてやった覚えもない。
「花緑青もありますわ」
「え?」
花緑青は全て燃え尽きたのではないのか。
戸惑う俺の瞳を、市子はじっとみつめた。
「わたくしの実家は、輸入を生業としておりましたの」
「輸入!?」
その言葉に思わず声を上げる。てっきり三ツ青村は山深い地の寒村だと思っていたが、港でも近くにあるのだろうか。
市子は頷いた。
「実家は代々村長をしておりました。おあおさまからもたらされる恵み以外は、何も食うものもない貧しい村でした。その村の民を守るため、わたくしの父は金になりそうなことに色々手をつけていました。そしておあおさまを輸入することになったのですわ」
「は?」
おあおさまを輸入ってなんだ。おあおさまは因習に縛られた土着の悪神ではないのか。すると、美都子が構って欲しそうに俺の裾を引っ張った。
「おあおさまはねえ! 最初はおあおさまじゃなかったのですって。でも、山火事が起きたからおあおさまになったのよ!」
美都子が嬉しそうに両手を空に上げた。
なんの話をしているのかわからない。俺は混乱した。
「青中郷に行けばまだおあおさまがたくさんあるはずですの。だって青下郷の者たちにたまに持ってきてもらっているもの」
ほら、と言って市子は胸元から白い包みを取り出した。細い指先でそれを開くと、中からは粉っぽい青い物体が出てきた。
花緑青だ!
俺は心臓が高鳴った。これが手に入れば。これさえ俺のものにできれば。
「でもね、これもそのうち尽きますわね」
市子は俺に告げた。俺は焦った。
そうだ、いくら今はたくさんあると言っても物質はいずれ尽きる。
「橘さん。もっと欲しくはないですか」
俺ははっと顔を上げて市子の目を見つめた。相変わらず笑っていないその目を。
俺が花緑青にかぶりつこうとすると、市子はさっと手を上にあげた。
「けれど、そろそろ青上郷のおあおさまの山が生贄を欲している頃だと思うのです。あれから六年が経ったから」
「おあおさまの山の生贄ってなんだ」
俺は宙に舞った手を握りしめて市子を睨んだ。神様はおあおさまとやらではないのか。
「あのね、そろそろいけにえをあげないと、あの村には入れなくなるのよ。六年に一度大雨が降るのよ。だからまろうどさまをあげないとだめなのよ」
「こまったねえ」と、美都子は俺を見つめてわざとらしく腕を組んだ。俺はさっと後ずさった。
待て。
俺は落ち着いて考えを巡らせる。
こいつらは、俺をおあおさまとやらの生贄に差し出そうとしているのか? たかが御一新頃に輸入された「神」のために?
花緑青を餌に俺を釣ろうとしているのだろう。それならこの場から逃げたほうがいい。花緑青はまた後だ。村の名前さえ知れれば後はどうとでもなるだろう。
俺は踵を返そうとした。が、裾が引っ張られて動けない。美都子の手だ。少女とは思えない力だ。
「ふふふ」
笑い声に、俺は市子を振り返った。市子は口元を着物の袖で隠しているので笑っているようには見えなかったが。
「橘さん。あなた誤解しています。美都子はあなたを気に入っているもの。おあおさまには差し出せないのです」
「じゃあ誰を」
さっき見たこの街の住人たちの誰かだろうか。三ツ青村の村民たちだと聞いたが。
市子はふふっと口だけの笑顔を見せた。
「おあおさまにはまろうどさまを生贄にする決まりなのです。わたくしたちはおあおさまに選ばれた民だから生贄にはなれないのです」
「選ばれた……」
俺は口の中で繰り返した。
「そのおあおさまっていうのは、顔料なんだろう?」
顔料に選ばれたもクソもない。そう思ったのだが。市子はゆっくりと首を横に振り、うっとりとした目をした。
「おあおさまは、我々に生き物の恵みをくださるあの青いお山。生き物を殺して食べて、そうして我々は生きてゆける。あのお山が真っ茶色になってしまったあとも色を変えずに残ったのは、このおあおさま」
市子は包みを見つめた。「ふたつは一体のもの」と。
「おあおさまは、山火事のおかげで色々な場所に行けるようになったのよ!」
行ける? おあおさまが?
市子と美都子の説明はいまいち要領を得ない。
「街にいる民たちは、三ツ青村とこの街以外に住んでいたことはないから、生贄にはなりません。この街はもうおあおさまの街になったから、生贄にはできないのですよ。何人か他の街からこの街に移民してきた者たちがいるけれど、おあおさまの街以外には住まないと約束したから生贄にはできないわ」
「やくそくしてくれない者どもは、おあおさまをたくさん食べてもらうのよ! そうすると、神の国でおあおさまと一体になれるの! おあおさまはお優しいのよ! それでね、まろうどさまを差し出すのを拒んだものは、自分が生贄になれるのよ! どちらもステキね!」
「いや、意味が……」
と言いつつも、俺の中での答えは出ていた。昨晩の美都子の声が頭の中に蘇る。
「おとうさまもまろうどさまなのよ!」
やばい。
この街はやばい。
街の住民たちの金森を見る目。あれは大事な生贄を見る目だったのだ。
さすがに金森の殺人事件などには関わりたくない。これ以上関わってはいけない。
そう思うのに。
花緑青があれば、俺は変われる。
花緑青があれば、奴らを見返せる。
「青の時代」と俺の絵にはなんの価値もないように言った義弟を。
「絵などやめて、せめて糞の役にくらい立つことをしてはいかがかな?」と言った田村を。
花緑青の絵が欲しかった。でも百円も工面できるあてはなかった。ひとつだけあるとすれば、裕福な商家の旦那である義弟。
「百円、ね。まあそのくらいならいいでしょうお義兄さん。でもその代わり僕とちょっとだけ遊んでくださいよ」
その夜のことはよく覚えていない。朝目覚めると体中に青痣が残っていたが、手の中には百円札があったことを除いては、多分何も覚えていない。
「橘くん、君ね。もう飽きてきたんだよ」
田村は俺にそう言った。ソファに腰掛けて、この春田舎から出てきた純朴そうな青年の肩を抱きながら。
「でも私は一度愛した男を塵のように掃いて捨てることはしないのだよ。私の仲間の男に紹介してあげよう。どうだい、工場は。君は数学ができるからね。そこでかわいがってもらうといい」
花緑青があれば。
「俺は、何をすればいい」
気付くとそう言っていた。
市子はにっこりと微笑んだ。
「おあおさまを失ったとはいえ、何千年も昔からおわしたおあおさまの山にはまだ力があります。生贄を差し出さねばなりません」
美都子が市子の手から包みを取った。
「ぱあん」
そう言うと、花緑青の粉が空に舞った。
「おい、何して」
貴重な花緑青を、この子供はなんてことを。
俺は花緑青を手に取ろうと手を広げる。その手を、ぱん、と美都子が叩いた。
「おあおさまはあんまり触っちゃだめよ。死んじゃうよ」
「え」
俺はまじまじと美都子の顔を見つめた。
「おあおさまは毒だから、ほんとうは日の本の国に持ち込んじゃだめなんだって」
美都子はぱんぱんと花緑青がついた手を叩いた。
「おにいさん、みつこのおむこさんになって、おあおさまを輸入しましょう」
やはり意味がわからない。
ただ、ひとつわかるのは、俺が美都子の婿になれば花緑青が手に入るということだった。
「橘さん。おあおさまのいた村から船が出せます。大丈夫、橘さんならあの船を動かせますわ。まろうどさまさえ生贄に差し出せば、おあおさまの山はお怒りにならないから」
市子の目は燦々と輝いてきた。
「せっかくわたくしたちはあの貧しい村を捨てて帝都に近いこの街まで移民してきたのです。工業とおあおさまで、お金もたくさん手に入りました。三ツ青村の民もたいそう喜んでいます。大丈夫、おあおさまは選ばれたわたくしたちのいる所にこそいらっしゃるのですよ」
「あのね、おにいさま。おにいさまの大好きなおあおさまでこの国をいっぱいにして、おあおさまの国にしましょうよ! おあおさまはとってもお高く売れるのよ。楽しみね!」
「橘さん。美都子の婿であるあなたは、花緑青を思う存分好きにしていいのですよ」
こいつらの言っていることはちぐはぐだ。
だが、花緑青が手に入ることは確かだ。
花緑青があれば。俺は。
いつその場から立ち去ったのかは覚えていない。
「さあ、橘くん車に乗りたまえ」
金森の声で我に返った。
日は傾き始めていた。
俺はぼんやりとしながら、促されるまま車に乗り込んだ。中年の運転手が車を出す。
林の途中に来た。そこで金森は運転手に声を掛けた。
「どうだ、今日はお前も見学していくか」
中年の運転手は振り返り、虚ろな目で金森を見た。「久しぶりですな」と呟くと、運転席の下から縄を取り出した。
「お手伝いいたしましょうか」
運転手がその縄を手に取り、運転席から降り、後ろの席に向かってきた。
縄。あれは見たことがある。義弟の邸で。
ふっと肩が重くなった。金森の腕が回っていることに気付いた。
花緑青があれば、俺は。
翌朝、俺は再び市子と美都子の二人の前に立っていた。
「これでいいのか」
金森の首を二人の前に差し出す。
嬉しそうに美都子が首を引ったくった。朝日を浴びて銀色に光る髪を掴むと、山の麓に向けてその首を振り回す。
朝日に輝く花緑青色の山。その麓の街からは、怒号のような歓声が上がった。
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