金原ひとみ『蛇にピアス』/ルイの挫折、アマの失踪。現代に向けて
はじめのはしがき
芥川賞受賞から20年、金原ひとみはパリへの移住を経てどのように時代を捉え作風を変化させてきたのか。『ユリイカ』11月号は金原ひとみ特集だそうだ。この機会にと、私は初めて彼女の作品を読んだ。『蛇とピアス』を。読んだばかりだが、一大センセーションを作った(私の母親がしっかり記憶しているような時代感らしい)この作品の味を感じようと少しだけ書いてみることにしたい。
流動性と固有性を往還して
例えばゼロ年代批評のような場では、「終わりなき日常」といものが一つのテーマとなる。90年代後半に、それまでの人々の価値観をさせたものが崩壊し(=経済成長、政治的イデオロギー)、人々は自分の生活に意味を見出しづらくなったというものだ。宇野常寛によれば、ゼロ年代初頭こそ、社会(の価値観)の流動性にのっとって、「バトルロワイヤル」的に競争の勝者が次々と「正しい」価値観を主張していく。(『ゼロ年代の想像力』)
しかし、『蛇とピアス』の「流動性」は少し込み入っている。
以下本文から二箇所引用する。
主人公ルイの一人称による人生観の描出部分だが、次のように理解できるだろう。
「スプリットタン」=自分で敢えて変化させるもの=「流動性への志向」
「所有」=手に入れること、(お互い)離れることができない=「固有性への志向」
ここで、「流動性」と「固有性」という相反する願望がルイのに存在している。例えば、これを宇野の論に従って捉えてみる。90年代後半からの心理主義的レイプファンタジーの流れを組むのが、自分のもとに相手を留める「所有」、すなわち「固有性への志向」であり、バトルロワイヤル的決断主義が現れているのがスプリットタンという「流動性への志向」となる。
つまりこの作品は、90年代後半からゼロ年代初頭までの二つの価値観の混在する、過渡的な場面を切り取っていると解釈できる。
麒麟の刺青は「流動性の象徴」から「固定性」へ(彫り終わった時、そしてその虚無)、さらにもう一度「流動性」へと(瞳を書き入れること)二つの性質を往還しているモチーフであると指摘して次に移りたい。
気づかなかったものと気づきながら秘めるもの
ルイは、アマへの自分の思いや彼という存在の重大さに「気づいていなかった」。彼女がそれに気づくのは、彼の失踪、死後である。それと比較して、シバとの物語終盤の関係性は対極である。シバがアマを殺した犯人かもしれない、自分をだましているかもしれない、とルイは終盤で察するのだが、「それでもいい」と彼との二人の生活を受け入れていくのは、大きな変化だろう。作品の主題も関わってくると思われる部分である。アマとの交際中は具体的な生活設計や現実感を持ち得なかったルイが、アマの死のショックを乗り越えてシバと同棲していく姿には、「血縁から離れた身」「互いの身元を知らないいびつさ」「騙されながら欲望の対象とされること」といった現実の暗い側面を充分に自覚した上で「人生」を受け入れる覚悟が読み取れるのではないだろうか。
現実からの浮遊感。ゼロ年代を超えていけ
思えば、定まらない生活にもがいていたのはルイだけではなかった。作中の黒幕と思われる「シバ」もまた、孤独を抱えていた。彼は作中、このように漏らしている。「アマみたいに、一人の女と付き合ってみようかと思って」。これはルイの事だったわけだが、彼がルイに近づくにつれて裸からシャツ姿へと身なりを正していくのは、「パンク系」として世から離れてしまったことをやり直そうというメタファーにもとれる。ゼロ年代批評的に言えば、「大きな物語」の喪失による「無根拠」な生活を埋める、手っ取り早い方法の一つが、二人だけの関係性=恋人というアイデンティティを持つことなのだった。
一方のルイは、現実を受け止めて再び動き出そうとしている。
人生とは、ピアスのように拡張を続けるものであるとここからは感じる。「痛み」や「出血」のように閉塞がある一方で、「涼やかな水」が流れることもある。そして、その流れはある意味では、自分の身体に「刻まれる」ものでもあるだろう。
身体という最後の砦が、ビッグデータによって脅かされている現代において、私たちはルイのように、いやそれ以上に現実に左右され、自分を見失いがちになってしまうのかもしれない。社会や現実、ひいては自分自身への関わり方がネットにより一変してしまったことを想いながら、今回はこれにて締めたい。
映画版もみようかと思案中だがどうしよう、、
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