【創作長編小説】星の見える町、化け物添えて 第12話
第12話 三時のお約束
『本日三時までに伺います』
ふと、思い出す取引先との約束。
今、いったい何時になってるんだろう。
怪物を目の前にしているというのに、勇一はぼんやりとそんなことを考えていた。
勇一の脳は、仕事という至極現実的な情報を提示し、過度のストレスから逃れようとしていた。
幼く小さな顔の下半分を占める、まるで切り抜かれたように裂けた、架夜子の口。指人形のように、頭を上下させつつ叫ぶ。
「レディの私が優しく聞いているというのに、無視したまんまなんて、まったく失礼しちゃう。いい加減、お名前、教えなさいよおっ!」
架夜子の鋭く長い爪が、勇一の顔を引き裂く勢いで迫る――。
三時まで、あと何分なんだろう。もう、過ぎたのかな。
遅刻の際の言い訳とお詫びの言葉を、考えなくちゃ、と思った。
三時。A社さん、休憩時間で、ちょうどお茶、だったりして。
スローモーションのように、爪。
担当者さん、ごめんなさい、と、思った。しかし、爪。
爪が、来てるんですう。
だって、爪が来てるんですから、と思った。
御社だって爪が来てたら、しょうがないですよね?
スライドショーのように、勇一の心の中の画面が切り替わる。
爪、お詫び、爪、平身低頭、爪、頭に、爪――。
つ、め……!
唐突に、我に返る。
やられる……!
勇一は、傘を斜めにかざし、頭と顔を防御しようと試みていた。おそらく、あと何分、という思考の際には、もう腕は動いていたのだろう。それは勇一の反射的な行動だったが、傘の力添えもあり、間一髪架夜子の動きより速かった。
「あれっ……?」
短い声を上げ、一瞬、架夜子の動きが止まった。
勇一の顔面をずたずたにしようと、広げた指を直角に曲げていた状態の架夜子の、手首辺りが傘にぶつかっていた。
バンッ、と大きな音がして、火花のような光が散る。
「ぎゃあっ!」
架夜子の悲鳴が耳に届いた。
「い、痛っ……!」
え……?
いたいけな少女の訴え。もしも通りすがりのジジババが付近にいたら、慌てて飛んできそうな、かわいらしくもかわいそうな声色だった。ちなみに、ここは特殊な空間、銀硝空間だから、ジジババはいない。
勇一は防御の姿勢を取るのが精いっぱい、攻撃に打って出られないでいた。それなのに、手首をぶつけただけで、架夜子は飛び下がり、大きく勇一と距離を取っていた。
架夜子の爪は、元の長さに戻っていた。
架夜子は、手首を抑え、顔を歪めている。裂けた口も爪同様、元の大きさに戻り、下唇をぎゅっと噛んでいて、あきらかに苦痛をこらえている様子。真っ赤な顔で、今にも大粒の涙がこぼれそうだった。
子ども……、だから……?
肩で息をする勇一。緊張と恐怖で、気付けば両足が小刻みに震えていた。子どもだからという理由、それもあるかもしれないが、あの架夜子の半分怪物のような恐ろしい姿を思い出すと、それだけではない気がした。
傘には守りの力がある……。それで、強いダメージを受けたのか……?
勇一はそんな推測をしていたが、架夜子はさらに異なる見解を叫んでいた。それはもちろん、わざわざ敵である勇一に教えるためではなく、自分の身に起こった予想外の事態を、整理、自分で納得するためのようだった。
「そ、そっか……! よるが攻撃受けちゃったから、私も影響受けて魔力が弱まってるのか……。化身を使って幽玄と戦った兄上が、ひどくダメージ受けちゃったみたいに……!」
よるへの攻撃が、本体の架夜子にも効いてたのか……!
もしかして、と思った。希望の光が見えたような気がした。
勝つまでいかなくとも、俺でもこの場を乗り切れるかもしれない……!
『勇一、後ろだ!』
そのとき、傘の声が、脳内に響いていた。
すぐそばまで、よるが、迫っていた。
よるが追い上げてきたのかと思ったが、すぐに違うと気が付いた。
白玉の速度が、あきらかに落ちていた。
白玉……! 白玉に、疲れが……!
今までずっと、全力で飛行していた。ついに白玉の限界近くまで来てしまったのだと悟った。
まずい……! 架夜子やよるが、ここに来て今更様子見なんてするはずがない……! 架夜子とよる、ふたりがかりで一気に俺を……!
傘を握る手に、力がこもる。今や、右手に架夜子、左手に、よる――。
「ごめんね。お名前なんて、いらないや。あなたは私たちの邪魔者、ここで退場してもらうから」
前にクロスさせた架夜子の腕、その爪は、肉を切り裂くナイフのように長く伸びていた。
やっぱ、だめか――。
希望の光が、見えない。まだどこかにあるのかもしれないが、見つけられそうもない。
架夜子の一撃を、運よくかわせたとしても、よるが――。
突然脳が、勝手になにかを提案し始める。携帯電話で、今からでも電話したらどうか、と。
『大変申し訳ございません。直前の戦いが長引きまして、三時からのお約束にどうしても間に合わないようです。到着の予定は、誠に申し訳ないのですが、私の来世になる見込みです』
やっぱ連絡、大事だよね。
またしても勇一は現実逃避していた。
「すまない。遅れた」
あっ、その簡潔さ。でもそれじゃ、失礼過ぎ――。
勇一がヘンテコな遅刻の謝罪の言葉を頭に生み出した次の瞬間、不意に聞こえた声。そしてその声に、心の中で勇一はダメ出しをしていた。
えっ。
驚いて、振り返る。聞き覚えのある声――。
「幽玄……!」
振り返った先、幽玄がいた。
幽玄……! 来てくれた……!
「ええっ! 幽玄、ずるーい!」
架夜子は、ぷくっと両頬を膨らませた。
それから、自分の腰に両手を当てる。
「なにこの急展開! 今の私じゃ不利じゃーん。じゃ、ばいばい。立て直してくるねっ」
ザッ……!
幽玄の抜き放った刀が、架夜子の肩口から足先まで、一気に振り下ろされる。
しかし――、そこにはすでに架夜子の姿はなかった。よるの姿も、同時に消えた。
「逃げた……、のか……?」
震える声で、勇一が尋ねる。
「勇一」
幽玄は、しばらく架夜子のいた場所、なにもない空間を見つめていたが、振り返り勇一の名を呼ぶ。
一歩ずつ、近付く幽玄。まるで空を歩くように。
「よく、生き延びていた。さすが、傘に選ばれし者――」
幽玄は銀の瞳を細めた。包み込むような笑顔に、勇一は白玉の上、へなへなと座り込む。
お約束、来世じゃ、なくなりました……!
ここで電話しても、圏外だろうなあ、勇一は座り込んだまま嗚咽し、そして笑ってしまっていた。
泣いているのか笑っているのか、自分でもわからない。
幽玄は黙って勇一の隣に座った。ふたり乗っても、平気な白玉。
幽玄も傘も、ただ勇一の感情の起伏を見守っている。たぶん、白玉も。
取引先になんと謝罪したらいいのか、自社に戻ってからなんと報告したらよいのか――、そんな恐怖でさえ、今の勇一には生きている証、嬉しいと思えた。
◆小説家になろう様掲載作品◆
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