【創作長編小説】星の見える町、化け物添えて 第2話
第2話 知っている誰かでも、知らない誰かでも
「化け物……!」
震えながら、勇一は叫んだ。目の前には、悪夢から抜け出てきたような、異形の姿の巨大な怪物。
「そうだ。あれは化け物だ」
ついさっき紹介しただろう、と、幽玄と名乗る謎の男が、隣に立つ勇一ではなく化け物のほうへ視線を定めたまま言い放つ。
「は、早く逃げ――」
「勇一。戦うぞ。お前は手にしているその傘を武器とするのだ」
「えっ……!?」
混乱する勇一を化け物が待ってくれるわけはなく、勇一と幽玄目掛け、化け物が駆け出していた。
皮をはいだ肉の塊のような桃色の体を揺らしながら、どどっ、どどっ、と短く太い四本の足で床――ここは、勇一の部屋の延長のようだった。どう見ても、フローリングの床――を駆けてくる。
体中に無規則にある、ぎょろりとした目玉。あちこちに目玉が分布しているし、ぶよぶよした体とそれを支える足、くらいしか特徴がないから、どこまでが頭でどこから胴かよくわからないが、その化け物の顔らしき部分に、唐突に大きな裂け目が入る。
勇一は、理解した。それは裂け目ではなく、化け物の口で、今、化け物は閉じていた口を開けたところなのだ、と。
歯がないんだ。
勇一は、少々どうでもいいところに注目していた。怪物の口の中には歯も牙もなく、丸飲みスタイルなのだろうと思った。
勇一の目には、床を蹴って飛び掛かる化け物が、まるでスローモーションのように見えていた。
死ぬときは、こんなふうに景色がゆっくり見えるんだなあ。
完全に他人事のようだった。もう試合放棄、脳は生き残る可能性を弾き出せず、ただなりゆきを見守るだけの傍観者に徹していた。恐怖からの逃避、通常の思考はほとんど停止していたのかもしれない。
鈍い音がした。
え。
肉を激しく叩くような。遅れて感じる、重い手応え。
えええ!?
今にも勇一を飲み込もうとしていたはずの化け物が、なにかで弾かれたように、遠く後方へ飛ばされていた。
気付けば、傘。傘を持った勇一の右手が、肘を曲げいったん素早く左肩の上へ、それからその反動で大きく右上へ向け振り払われたあとだった。
そのとき勇一は、黒い傘の描く軌跡を、確かに見ていた。
え、体が、勝手に。
「そうだ。勇一。傘がお前を導いてくれる。傘を手にしている限り、雑魚相手なら楽勝だ」
幽玄の声で、勇一はハッとした。おぼろげな意識から、急に現実へ帰ってきたような感じがした。
そして、はっきりとわかった。今、自分の手で傘を使って化け物を打ち払い、弾き飛ばしたのだ、と。
化け物は、潰れた果物のような姿で、いくつかの枠を超えた床に転がっていた。
「ゆ、幽玄とかいったな!? お、お前、いったいこれはどうなって――!」
「楽勝とはいえ、まだ油断するなよ。化け物はまだ消えてない。追うぞ、勇一」
「ええ!? 追うって――」
勇一の問いには答えず、幽玄はただ化け物を追うよう前方を指し示す。
いったい、なにがどうなってるんだ……!?
合わせ鏡の中のようなこの空間は、枠によりある程度仕切られつつ、どこまでも同じ風景が伸びている。
化け物は、のそり、と起き上がり、勇一たちと反対方向、さらに奥の空間へ向かって逃げ出そうとしていた。
「走るぞ、勇一」
「なんでっ。俺らが逃げれば、別に――!」
化け物は奥へ奥へと逃亡しようとしている。それなら問題ないのでは、と勇一は思った。自分たちもこの変な空間から逃げ出し、安全な自分の部屋に戻ればいいじゃないか、意味不明な化け物など、そのままにしておこう、そう言いたかった。
「また襲ってくるぞ。やつは、この空間から普通の空間に出ることができる。そうなると今度は、お前目当てではなく、誰かが犠牲になるかもしれない」
「えっ、あれは、この変な世界の中だけの化け物じゃないのか!?」
変な空間に足を踏み入れてしまった。だから、変な化け物に遭遇した。それだけの話じゃないか――いや、それだけってどれだけ非常識なんだ、とも思うが――、と勇一は捉えていた。
「あれは、普通の、お前たちの住む日常にも侵入できる。だから、見つけた今、倒さなければならない」
「倒す!? なんで、俺が!?」
幽玄は、勇一を静かに見つめた。そして薄く形の良い唇を、秘密の門のように開けた。
「お前に、その力があるからだ」
そんなばかな――!
ごく普通のサラリーマンで、学生時代スポーツに秀でたわけでもなく、今まで生きてきた中で劇的なことも起こらず――まあ、レンアイは少々あった、残念ながら今はない――、平々凡々、それでも毎日自分なりに一生懸命生きてきた、自分は何者でもないただの人、と勇一は叫びたかった。
「幽霊だって、見るのはお前が初めてだ……!」
「私は幽霊ではない。幽玄だ」
ぐいっと、幽玄は勇一の腕を掴んだ。また、駆け出す気だ。
「勇一。大丈夫だ。私もいる。だから、追うぞ」
無茶苦茶だー!
この不思議な傘が促しているせいもあるのだろうか。反発する心とは裏腹に、勇一の足は抗うことなく駆け出していた。
誰かが、犠牲に――。
言葉が、耳から体の中へと入り込み、勇一の心に密やかな火をつけていた。
誰かが、あんな化け物に、襲われてしまったら――。
先ほどの光景が、脳裏に蘇る。大きな口。絶望に、ただ飲み込まれる。人間という、ひ弱な生物――。
勇一は、きっ、と前を見据えた。
知っている誰かでも、知らない誰かでも。どっちでも、俺は――。
誰か。それは、知っている誰か、もしくはまったく知らない誰か。犠牲になる命。心が、ざわめく。
「幽玄……!」
勇一は、叫んでいた。
「さっきみたいに、傘がうまく俺を操ってくれるんだな!?」
「ああ。その通り」
勇一は駆けた。いつの間にか、幽玄は勇一の腕を放していた。
どっちでも……! 俺は、嫌だ……!
化け物の恐ろしい口。きっと誰かの人生を丸ごと飲み込んでしまう。
犠牲になる誰かの涙。そして、その誰かを悼み、流される涙。ひとつの命の喪失は、当人、そしてその周囲の人たちと、数えきれない悲しみを生む。逆に、誰かの生きる時間は、その誰かの喜び、そしてその誰かに繋がる者の笑顔へ広がっていく。たとえ独りぼっちだと思っていたとしても、人は必ずどこかで繋がっている。
止められるのなら……、本当に俺が止められるのなら……!
やけくそになっていたのかもしれない。自分は英雄なんかじゃないから。単なるやけくそでも、思い上がりでも、この際なんでもいい、と思った。考える時間も、あまりなかった。
勇一の瞳は、化け物の姿をしっかり捉える。
「おりゃああああっ!」
俺が、止める……!
傘を両手に持ち、振りかぶる。大きく、大上段に。足は床を蹴り、そのまま、化け物目掛け――。
どっ……。
肉を突き刺す、手応え。
傘は、見事化け物を深く貫いていた。
あ……!
血が噴き出すのかと思った。大量の返り血を、覚悟した。
しかし、化け物の体から飛び出したのは、鮮血ではなく、黒いもやだった。
黒いもやが幾筋も煙のように上がる。そして、それもほんのわずかな時間、
「化け物が……!」
目玉だらけの肉塊のような化け物の姿は、黒い煙が霧散するとともに、すっかり消えてなくなっていた。
「よくやった。勇一」
幽玄が、銀色の瞳を細める。そのとき勇一は、笑い返したかもしれないし、笑い返せなかったかもしれない。
ただ呼吸するだけで、精一杯だった。
そして、幽玄が勇一の肩に手を置いた瞬間、見えていた景色が、まるで高速走行のバイクに乗っているかのように、素早く後方へ流れた。
「あ、あれ……!?」
自分の部屋に立っていた。普通の、今まで通りの、自分の部屋。
「俺の部屋……。戻ったんだ……」
なんの異常もなかった。布団は起き抜けのままだし、フローリングには目立った傷もない。化け物との戦いの痕跡は、なにもなかった。
部屋の様子を見渡す中、ふと時計が目に留まる。予想をちょっと超えた、時計の針の角度――。
「あっ!? これもしかして――、遅刻すんじゃねーかよっ!?」
顔も洗ってない、朝食もこれから、パジャマのままだし、頭にはしっかり寝ぐせだって――。
「やべえーっ!」
勇一の手から、音を立て落ちる、傘。
勇一は、ほぼ無意識に頭をかきむしっていた。
化け物の次に、日常が勇一を襲う。
「頑張れ。サラリーマン」
幽玄が、完全に高みの見物と決め込み、笑っていた。
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