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【創作長編小説】星の見える町、化け物添えて 第28話

第28話 青空に浮かぶ記憶

  はっ、はっ、はっ……。

 全力疾走しつつ、己の呼吸を意識する。

 次の術を、創らなきゃ――。

 陽花はるかは、路地に駆け込んだ。一刻も早く、強い術を繰り出すために、心身統一を目指しつつ。
 恐ろしい気配は、まだ追いかけてこない。架夜子かやこにぶつけた陽花の術は、まだ破られていないようだ。
 頭の中に響く、呼吸のリズム。

 整えろ……!

 陽花は自分自身に命じた。
 足から伝わるアスファルトの硬さも、暴れるような己の心音も、自分から遠ざけるよう試みた。
 呼吸はやがて心と一つになり、意識の遠くへ消え去っていく。
 駆ける一足ごとに流れていく景色。民家の壁や塀の、色も形も遠ざかり、自分と世界の境界が薄れ、世界とひとつになる感覚。
 陽花は、胸の前で人差し指と中指をクロスさせつつ、呪文を唱える。

集気しゅうき……!」

 一瞬、ザワッと音がしたようだった。そしてなにかが集まってくるような気配。陽花のもとへ。
 それは、立ち並ぶ家々それぞれの住人の生活の気配や、通行人が残していった存在の痕跡、体温、吐息。そういった目に見えない、なんとなくとしか感じられない「人の存在していたなごり」というようなものだった。
 この地域に存在する、または存在していた人の息吹。それらが、陽花の気配を覆い隠す。まるで小さな子どもを大勢の大人たちで、壁を作って隠すかのように。

 これでどの程度ごまかせるか、わからないけど――。なんとしてでも逃げなきゃ……!

 できるだけ、遠くへ。陽花は、ひたすら駆けた。

 幽玄、お願い――!

 幽玄への呼びかけは、届いているはずだった。彼が来ないということは――、来れない理由がある、ということだった。

 もっと、速く。もっと、遠くへ――!

 足や心臓、肺が苦情を述べる。そういった体の声を無視し、初めて通る路地を、右に、左に、曲がる。
 四十代。日頃鍛錬を心がけているが、肉体的には衰えが目立ち始めている。しかしそれを補うように、術師としての技の精度と鋭さは磨かれている、と自負していた。

 通常の相手だったら……!

 銀硝空間ぎんしょうくうかんやその他の空間から迷い出るような化け物相手だったら、と思う。
 生まれたときから特殊な力を持ち――妹や、妹の娘である姪のゆかりより、だいぶ能力は劣るという自覚はある――、厳しい修行や数々の実戦で高めてきた自分の力、それをもってしても腹の底から恐怖を感じるような相手との遭遇――。戦う前から、勝敗は見えている。残酷なまでに。

 生き延びることだけを考えねば……!

「やっぱり、年齢なんだろうねえ」

 思いがけず、陽花の足が止まる。声が、したからだ。
 それは、陽花の進行方向、目の前からだった。

「技は、いいと思うよ? 縛るのも、隠れるのも。でも、走力が、ちょっと、ね。若かったら、もうちょっと速いんだろうけど」

 終わった――。

 狭い路地。いつの間にか、中央に立っている、架夜子。
 陽花の視界が、暗転した。額から、滝のような汗が噴き出す。

「おばちゃん、結構いい線いってたよ?」

 小首を傾げ、くすくすと笑う。路地に差し込む光に透けた、ふわふわとした桃色の髪、まるで天使のようだった。
 見た目、だけは。
 感じるのは、圧倒的な闇。黒い、力。
 小さな体から、威圧するように強大ななにかが発せられている――。

 あ。着信――。

 そこでようやく、陽花は自分の携帯電話が鳴っていることに気付いた。
 震える両足。立っていられるのが、不思議だった。見開いた陽花の目から、唐突に涙がこぼれ落ちる。

 たぶん、きっと、ひの。ひの。声が、声が聞きたい。最期に、一言だけでも――。

 陽花は、カバンに手を差し込む。掴む、娘と自分を繋ぐ、小さな機械を。

「おばちゃん。攻撃の呪文は? 逃げるのもいいけど、攻撃は最大のぼうぎょって、私聞いたことあるよ」

 ボタンをタッチし、耳に、当てる。大切な声が、聞きたくて。

「え? 電話、出ちゃうの? 攻撃は? 防御は? 私、目の前にいるのに?」

 ただ、あの子の、声さえ聞けたら。

 涙が一筋流れ落ちていく。震える唇は、不器用に笑みを形どる。

 ああ。護さん。ごめんね。護さんの声も、聞きたかったなあ――。

 昨晩の夕食。これからのことを、話した。三人で。無理しないでね、気を付けてね。それぞれがお互いに、無事を祈り合った。夕食のシチューの湯気、隣でお皿をふいてくれたひの。つい昨日のことなのに、なんだか遠く感じる気がした。
 心の時計は、どんどん針を戻していく。陽花の心に、展開される家族の歴史。笑顔。なにげない会話も、深刻な悩みも、深い喜び、悲しさを分け合ったことも、
 
 ひの。赤ちゃんだったのが、ついこの間みたいだったのにね。

 三人でいることが、当たり前だった。護がひのの左手を握り、陽花がひのの右手を握る。青い葉っぱの銀杏並木、あたたかな陽の光の下、ゆっくりと歩いていく。それは、いつかひのが家を巣立つまで、変わらないのだと思っていた。
 にじむ視界は、そこにいるはずのないひのを探す。

「え、え? 試合ほうき? いいの? 私――」

 架夜子は、大きな瞳をさらに大きくする。そして――。

「殺しちゃうよ……? おばちゃんを――」

 大きく裂けた口には、牙。しかし、架夜子の言葉も、姿さえ、陽花にはもう届いていない――。

「陽花様!」

 それは、携帯電話からひのの、「もしもし、お母さんっ!」という叫び声が飛び出してきたのと同時だった。

 え……?

 目に見える景色が、変わった。足が、地面を感じない。というか、いつの間にか地面が、はるか下にある、ようだった。
 風。風の中にいる。そして、視界は、青――。

「幽玄……!」

 陽花は、幽玄に抱えられて空を飛んでいた。

「幽玄、またあっ!?」

 また邪魔するのか、と声を大きくする架夜子。架夜子も素早く地上から離れ、空高く、幽玄と陽花の目の前にいた。

 え!? 飛べるの!?

 ぎょっとした。架夜子が術師であるとしかまだ知らない陽花は、架夜子も空を飛ぶのか、と驚く。

 そんな術が……!? 幻影でもないようだし……。

 陽花が呆然としていた、次の瞬間だった。

「私もいるわ……!」

 紫月しづきだった。紫月も駆けつけていた。幽玄、陽花、架夜子、そして紫月。四者が睨み合うよう空中にいた。
 
 幽玄、紫月ちゃん……!

 全身の力が、抜けた。
 生きる希望が、感じられた瞬間だった。

「紫月様。陽花様をお願いします」

 幽玄は抱えていた陽花を、紫月に受け渡す。陽花は、紫月に抱えられる形となった。

「架夜子。覚悟せよ」

 幽玄が、腰の刀を抜く。ゆっくりとした動作であったが、そこには寸分の隙もなかった。
 架夜子が、ニヤリ、と片方の口の端だけ吊り上げた。

「やーめたっ」

 え、やめ……?

「時期が来たら、ちゃんと相手してあげるっ。今日のところは、もう帰るねっ」

 架夜子は、ばいばい、と手を振る。

「一人ずつだったら、いつでも遊びに来てもいいけどねっ」

 ふふふっ、といたずらっぽい笑い声。後ろ手に手を組み、宙に浮かんだまま片足をぶらぶらさせている。
 幽玄の刀が、光る。風を切り、光は大きな三日月のような軌跡を残したが、すでにそこに少女の姿はない。

「消えた……」

 陽花はまたしても、驚きを禁じ得ない。

「時期が、来たら……」

 刀を振り下ろした姿勢のまま、幽玄は架夜子の言葉をなぞるように呟いた。

「幽玄? 紫月もいるの!? お母さん、大丈夫? ねえ、返事して――」

 ハッと携帯電話に目を落とす。耳から離していた携帯電話から、ひのの必死な様子の訴えが聞こえていた。

「ひの――」

 青空が、にじんで見える。頬を伝うあたたかさが、今という時に引き戻してくれた。
 ひとつ、深呼吸をした。術を練るためではなく、想いを伝える言葉というものを発するために。

「お母さんは、元気よ――」

 青々とした銀杏並木。手に伝わるぬくもり。春風の匂い。笑顔。ひのと、護の――。
 大切な記憶が色を取り戻し、青空に浮かんでいた。

◆小説家になろう様掲載作品◆

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