【創作長編小説】天風の剣 第137話
第九章 海の王
― 第137話 お前を目の前にして ―
「アマリアおねーちゃん!」
シトリンの長い髪が、うねりながら伸びていく。アマリアを抱えて空中を落下し続ける、オニキス、そしてアマリアへ向けて。
地上は木々が生い茂り、その間を蛇行した川が流れているのが見える。オニキスはともかく、このまま地上に激突したら、アマリアの命はない。
アマリアおねーちゃんを助けるには、オニキスごと、捕まえるしかない――!
オニキスは、血を流しながら落ちていく。気を失っているのか、損失した内臓や血肉の回復にエネルギーを注ぐのに精いっぱいなのか、浮上する気配はない。
髪を絡めて、まとめて持ち上げるっ……。
シトリンの髪が、伸びていく。
もう少しでシトリンの髪がオニキスに届く。シトリンが、オニキスとアマリアに髪を巻き付けようとした、その瞬間――。
「あっ……!」
シトリンは思わず息をのむ。
そこには、なにもなかった。
髪が、空を掴む。
シトリンの目の前から、今までいたはずのオニキスとアマリアの姿が、こつ然と消えていた。
逃げられた……!
「シトリン様」
翠と蒼井が、シトリンに追いつく。
「オニキスに、逃げられちゃった……!」
シトリンの髪が、もとの長さに戻る。シトリンは、小さな拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。
もう少しで、アマリアおねーちゃんを助けられたのに――。
「シトリン様。オニキスは、かなりの深手を負ったようでしたが――。まだ姿を消す余力があったのですね」
シトリンの隣に並んだ翠が、眼下に見える木々を見つめながら呟く。
シトリンは顔を上げ、急いで気持ちを切り替えた。
「空間移動は大きな力を使う。そんなに遠くには行けないはずっ。アマリアおねーちゃんの気配から、行方を追うっ!」
シトリンは瞳を閉じ、深く意識を集中させた。
鉛色の雲から、雪が降りてくる。ゆるやかに波打つシトリンの、はちみつ色の長い髪に白く冷たいひとひらが触れ、吸い込まれるように消える。
ひとひら、もうひとひらと舞い降りる雪。
シトリンは、長いため息をついた。胸の奥から出された白い息が、凍り付くような空に虚しく消えていく。
「どうして……? アマリアおねーちゃんの気配も掴めない……」
四天王の中でも、気配を隠す能力の高いオニキス。シトリンは、目覚めたアマリアの気配から、アマリアの位置が探れると考えていた。しかし、どんなに集中してもアマリアの気配が感じ取れない。
「人間の体と心はもろい。きっと、急降下の衝撃に耐えきれず、意識を失ったのでしょう」
蒼井が、シトリンの問いに答える。いつも表情をほとんど変えない蒼井。一見すると今現在もまるで氷の彫像のように、無機質な表情に見えた。しかし、ため息交じりのその声には、アマリアとアマリアを思って胸を痛めるシトリン、両方を心配する気持ちが込められているようだった。
「アマリアおねーちゃん……。もう少しだったのに――」
シトリンの両脇に並んで宙に浮かんでいる翠と蒼井が、ほんの少しシトリンに近付く。冷たい風から、守るように。揺れる心を、包むように。
幾日もただ、三つ編みを編んではほどいていたシトリン。あの日々の姿を、翠と蒼井は知っていた。
人の「生」のはかなさを、知ってしまったあの日。そして、狩りや略奪の対象でしかなかった人間と心を触れ合わせ、個々の心が感じられるようになった今――。
「シトリン様。きっと、生きています。むしろ、今はオニキスといるほうが彼女は安全であるのかもしれません。むしろ今は――」
翠は、殺気に満ちた上空を見上げる。
「シルガーが危ない」
蒼井が、翠の言葉に続けた。
ほんの、わずか。薄皮一枚。
シルガーは、違和感を覚えていた。
炎の剣でパールに斬りつけた際、パールの皮膚の少し手前で剣が弾かれたような感覚があったのである。シルガーは、見えているパールの体と、剣の当たる反応にほんのわずかなずれを感じていた。
パールの皮膚が硬化したというより、まるで透明な薄い壁があったような気がしたのだ。
弾かれた……?
そして、剣を握る手に残る、びりびりとした感覚。
カナフと初めて対峙したときの感覚に似ている――。
エネルギーの反発。魔の者と相反するエネルギー。その衝突を、かすかに感じたのだ。
パールの体の周りに、高次の存在のエネルギーが流れている……?
まさか、と思った。いくら高次の存在をその身に取り込んだとしても、四天王であるパールに、そんなことができるとは――。
シルガーは、パールを見据えながら、確認するように炎の剣と自分の手に意識を向け続けた。
しかし、あり得るのかもしれない。高次の存在を食らい続けた結果、高次の存在のエネルギーを自分のものとして活用することが、ある程度、できるのかもしれない――。
「おや。気が付いたんだね」
シルガーの微妙な表情の変化を感じ取ったのか、パールが楽しげに話しかける。
「シルガー。君にも教えておいてあげよう」
シルガーの考えていることを、見透かしたようにパールは話す。
「今、僕は僕の周りに、四枚の翼の高次の存在の、防御の壁みたいなものを張り巡らせてるんだ。僕の皮膚が硬くなったわけじゃない。見えない鎧を着てる感じかな?」
「……ずいぶん簡単に手の内を明かすんだな」
ぎり、と、シルガーは苛立ったように奥歯を噛みしめる。
「だって、どうせ君、もう気が付いてるんでしょ? 怪訝そうに自分の剣を見て、そしてすぐなにか大切なことに気が付いたような顔をしてた。それから、また不思議そうな顔してた。たぶん君は、壁みたいなものがあることに間違いないだろうけど、それにしても手応えとして魔の者の術とどこか性質が違う、そう思ったんだね」
パールは、ふふっ、と少年のように笑った。
「君って、勘が鋭く賢いね」
「……私の考えることなど、お見通し、そう言いたいのか」
「だって、君、黙って睨みつけるだけで、あまり話してくれないんだもの。こちらで君のこと考えるしかないよね?」
パールは、肩をすくめる。それから小首を傾げ、友だちとなるには、歩み寄るしかない、そう述べて屈託のない笑みを浮かべる。
そうか。シリウスの術を身につけたのか――。
パールを見据えるシルガーの視界を、時折遮るように雪が飛んでいる。シルガーは、炎の剣を構え続けた。
きっと、けた違いの強さなら、そんな壁も力で突破できるだろう。しかし――。
エネルギーをぶつけて破壊する衝撃波にせよ炎の剣にせよ、高次の存在の性質を帯びる壁なら、自分には壊すことができないだろう、そうシルガーは憶測する。
私の力では、弱い。しかし――。
「困ったな。お前を目の前にして、退くわけにもいくまい」
シルガーは、炎の剣を改めて構え直し、パールを鋭く睨みつけたまま、笑った。
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