【創作長編小説】天風の剣 第146話
第十章 空の窓、そしてそれぞれの朝へ
― 第146話 変身と、変化 ―
まるで、人形を手にしているようだった。
人間であるアマリアが、拍子抜けするほど小さく感じられる。
オニキスは、アマリアの頬に、確認するように自分の指を当てる。体温が感じられた。人形ではなく、間違いなく人間、アマリアだった。
私の新しい力、新しい肉体――。
傷も痛みもすっかり消え、今まで忘れていた、新鮮な活力に満ち溢れていた。
オニキスは、ひとり笑みを浮かべる。
すっかり忘れていた――。苛立つことも、なにかを渇望することもない、すべてが満たされた自分。これが私なのだ。
胸に押し寄せる、静かな感動。昔、四天王になったばかりのころの自分を、オニキスは思い出していた。
思い出すと同時に、ふと不思議に思う。
そういえば、どうして忘れていたのだろう。
四天王の座に就くこと、それで自分の心をかき乱すすべての忌々しい感情は消え去ると思っていた。
慣れというものなのだろうか。
いつの間にか、四天王になったばかりのころの高みに到達した陶酔感や、揺るぎない強い力を持ったという達成感を、忘れていた。
当たり前になっていた。今のこの喜びも感覚も、いつしか当たり前となり、忘れてしまうのだろうか……?
眼下に、そして降る雪の向こう、たくさん見える金の光。自分を強く警戒し、遠巻きに囲む高次の存在たちの光。
誰かの力、借り物の、力だから――、かもしれない。
オニキスは、金の瞳を大きく見開く。自分の心の片隅の疑念。オニキスは、自分の頭にそんな考えが一瞬でも浮かんだことに、驚きを覚えた。
オニキスは、急いで首を左右に振る。
これが、私の力。気高い私にふさわしい能力、今の私が、あるべき真の私の姿だ……!
オニキスは、少しだけ視線を下方に向けた。すると、漆黒の翼の一部が四枚分、確かに目に留まる。オニキスは、それを確認すると、ふたたび大きな安堵感に包まれる。
私は四天王だ。そしてさらにその上の存在になった。必要のないことは考えなくていい。今の完璧で素晴らしい私を、ただ享受し、謳歌すればいいのだ。
オニキスは、術の中で眠り続けているアマリアを、自分の目の高さに掲げてみる。
どうやら、自分の力同様、自分の姿も大きなものに変わったようだな。
オニキスはアマリアの大きさで、自分の現在の姿を推し量る。
皮肉なものだ。私の変化と時をほぼ同じくして、あいつは、死んだ――。
四天王が死に、新たな四天王が誕生したというエネルギーの変動を、離れた場所にいるオニキスも感知していた。そして同時に、大きく感じられていたパールの波動が消え、代わりにシルガーの波動を強く感じるようになったことも。
四天王パールを討ち、シルガーが四天王になったのか。
目の前にぶら下げたアマリア。オニキスはじっと見つめる。
シルガーか。恐るるに足らず。
あの男が四天王となったとしても、たかが知れている、そうオニキスは踏んでいた。
現在の四天王は、自分、シトリン、シルガー、そして名も知らぬ、生まれて間もない四天王。
気を付けるべき相手は、いない。オニキスはそう判断した。
目を閉じたアマリアの、繊細な長いまつ毛に、雪がつく。
オニキスは、鼻先でふん、と笑う。
パールという警戒すべき相手がいなくなり、そして境界を越え無敵となった私に、これはもう、必要ないな。
握りつぶしてしまおうか、それとも八つ裂きにしようか、オニキスは柔らかなアマリアの体を持つ手に、少しだけ力を込める。
そのときだった。自分の前に跪く、赤目の姿がふいにオニキスの頭の中によぎる。オニキスは、かすかに顔をしかめた。心の奥から沸き起こる、突き動かされるような感情。悲しみと悔しさ、締め付けられるような苦い思い――。
オニキスは、ため息をつく。息を吐きだすと、同時に行き場のない苦しさが、少しだけまぎれるような気がした。
至高の存在となった私の心も、このように簡単に乱れるのか……?
異質な存在、まるで怪物のようだったパール。自分もあのように、なにごとにも惑わず、思いのまま突き進める存在に変化したのだろうと思っていた。それがどうだろう。自分の心は、感覚は、あまり変わっていないのではないか――。オニキスは力や体格の変化に比べ、自分の心が変化していないことに戸惑っていた。
まあいい。
オニキスは、ふたたびため息をつく。そうすることが、強い自分を取り戻す合図とかたくなに信じているかのように。
つい、力を込め過ぎていた。死んだのではないか、オニキスはハッとし、急いで力を緩め、改めてアマリアを観察する。
アマリアは、生きていた。
目を閉じたまま、苦しそうな表情を浮かべ、意識を失ったまま荒い息を続けるアマリア。オニキスは、ふう、とまたため息をつき、それからニヤリと笑う。
死んでしまったら、それはそれでいい。でも、どうせなら、もっと、効果的に使おう。たとえば、キアランの前。
キアランの前で、思う存分いたぶり殺す。それがもっとも効果的だとオニキスは考えていた。
怒り泣き叫び、自分の無力さに打ちひしがれるキアラン。それから、他の人間ども。それを想像すると、先ほどまでのモヤモヤした気分がすっかり晴れるようだった。
オニキスは少し首を傾げ、アマリアの唇に自分の指の腹をあててみる。
ついさっき、唇を重ねた。術を行使するために。
一瞬、奇妙な感覚がよぎる。
あたたかな体温、柔らかい感触――。
心が、ざわつく。
オニキスはなんとなく居心地の悪い感じがし、すぐさま指を離す。そして、さっきまで考えていた計画に意識を戻す。途端に、気持ちが落ち着いた。
この女を始末する、そのときは、この女も起こして、この女が泣きながら助けを乞う姿も見てみることとしよう。
そういえば、どうしてあのときこの女は勝手に目覚めたのだろう、ふとオニキスは思い出す。
人間だから、そう言っていたな……?
オニキスは、自分の顔にアマリアの顔を近づけ、まじまじと見た。
自分を堂々と見つめ返したアマリア。しかし、その瞳は今、閉じられている。
オニキスは、瞳を閉じたアマリアを、見つめ続ける。
オニキスは、まだ気付かない。
死んでしまったかもしれないと思ったアマリアが生きていることに気づき、密かに安堵していた自分に。道具としか見ていなかったアマリアに対する自分の感情が、変化しつつあることに。
アマリアが急に目を開けたら、自分を見つめたら、たじろいでしまうかもしれないことに。
アマリアの髪についた雪を、指で払う。それから、ふたたび頬に指を当てる。ずいぶん、冷たくなっていた。オニキスは少し慌てて、しっかりとアマリアを胸元に抱え直す。
高いところから落ちていくだけで、気を失った。人間とは、本当にもろいものだな。
オニキスの口元に浮かぶ笑み。オニキスは、気付かない。そして、誰も見ていない。その笑みは、先ほどまでの、冷酷で残忍なものではなく、慈しみ、そんな言葉が似合うものであることに――。
降り続く白い雪だけが、見ていた。
「さっきのエネルギーの爆発、あれは……!」
まるで、パールが変身したときのようだった。キアランは、まさか、と思う。
「オニキス……! オニキスのエネルギーを大きく感じる……!」
シトリンが叫ぶ。
アマリアさん――!
シトリンの叫びで、キアランは悟る。
高次の存在の誰かが、犠牲になったこと。オニキスが、パールと同じ力を手にしたこと。そして、オニキスの力が大きくなったことにより、オニキスの行方がわかるようになったこと――。
悲しみと、怒りと、そして、希望――。
「オニキス――! お前のもとへ行く――!」
キアランは、天風の剣を握りしめ、空を目指した。
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