【創作長編小説】天風の剣 第140話
第九章 海の王
― 第140話 暗黒の怪物 ―
雪がすべてを覆い隠すことはできない。
恐ろしい光景も、時間も、止めることなくただ降り続ける。
パールの腕が、シトリンへと襲いかかる。
四天王パールは、まるで野の花を摘むように、たやすくシトリンの首をもぎ取ることができるだろう――。
「シトリンーッ!」
キアランは叫んだ。雪空を斬る、一筋の光と共に。
一筋の光。
それは、天風の剣だった。
キアランは、握りしめていた天風の剣を、渾身の力で、パールの腕目がけて投げていた。
間に合ってくれ……!
パールの伸ばされた腕が迫っていた。シトリンの急所である首を目がけて。
シトリンは動かない。彼女なら、四天王である彼女なら、瞬時に移動することもできるはずなのに――。
くるっ。
パールの右腕がシトリンの目の前に来た瞬間、シトリンは顔の向きを変えた。
ちょうどそのとき――、キアランの投げた天風の剣が、パールの右腕に突き刺さる。ほんの一瞬、パールは顔をしかめ、腕の動きがかすかに鈍る。
がぶっ。
それと同時に、噛みついていた。
シトリンが、パールの手、親指の付け根辺りに。とびきり大きな口を開けて。
「シトリンッ!」
シトリンは、噛みついて離さない。パールの手に、ぶら下がったような形になる。
パールは、さして驚いた様子もなく、シトリンを見つめる。
「小さなレディ。君も、僕の味が気になるのかな?」
パールは笑う。
「僕は、君の味が気になるなあ。君が僕を食べ続け、そして僕が君を食べ続けたら、いったい、どうなるんだろう?」
パールは、少し首を傾げる。
「口だけを残して、あとはなにもなくなっちゃうかもしれないね」
パールがそう呟いたときだった。
素早く蒼井が、パールの左腕を抑えていた。
続けて翠が、逆さまになった状態で浮遊するパールの左足を、しっかりと抑え込むように掴む。
「おや……。ずいぶん、原始的な方法で、僕の動きを止めようとするんだね」
まるで、人間みたいだね、パールは驚くことも悔しがることもなく、淡々と感想を述べた。
確かに、魔の者同士の戦いとしては、珍しい光景だった。
「このまま、貴様の急所の足首を、ねじ切る」
翠が、抑揚のない低い声で静かに告げる。
大きな体で、筋骨隆々とした姿の翠。魔の者の中でも、肉体的な力は飛びぬけている。
翠は左腕でパールの左足を抱え込むようにし、右手でパールのかかとを掴んだ。
食らいついたままのシトリン。それから、パールの左腕を制している蒼井。そして、パールの左足を抱え込み、左足首をねじ切ろうとしている翠。三体がかりでパールを抑え込んでいた。
パールを抑え込むシトリンたち、それぞれの髪が、揺らいでいた。パールを包み込む防御の壁のエネルギーが、まるで電流が流れるようにシトリンたちの体を強く刺激していたのだ。
「……君たち。意思も力も強いのはいいことだけど――」
パールは少し眉根を寄せ、冷ややかな目をして――、笑った。
「そろそろ、離れたほうがいいんじゃないかな……?」
キアランは、叫ぶ。
「みんなっ……! パールから離れろっ! やつは――」
ゴゴゴゴゴ……!
体の大きさを、人の姿から巨大な姿まで、瞬時に変えられる――!
キアランは目を見開き、息をのむ。このままパールにしがみついていては、爆発するように激しく弾かれてしまう、そう思ったのだ。
パールはすでに、巨大な姿へと変化していた。
シトリン! 翠! 蒼井……!
下半身が四っつの尾に分かれた、怪物の姿に。
シトリン、翠、蒼井は……!?
キアランは、急いでシトリンたちの気配を探す。
ふう、とパールがため息をついていた。
ため息……?
キアランがハッとし、パールに視線を戻すと、パールは指を組んだ腕を、うん、と伸ばし、嬉しそうに笑っていた。
「よかったね。うっかりバラバラにしちゃったかと思ったよ。みんな、素直だし勘がいいね。僕の体に弾かれる前に、それぞれ僕の忠告を聞いて、ちゃんと僕から離れるなんて」
空を、勢いよく三つの影が飛び回っていた。
無事だったか――!
ドンッ……! ドンッ……! ドンッ……!
パールの体が明滅し、その都度爆煙が上がる。シトリン、翠、蒼井がパールの周囲を飛び回りつつ、それぞれがふたたび衝撃波を放っていた。
パールは……。皆を殺そうとしているのか、それとも――。
体を打つ雪。冷たい空気が、キアランの体を侵食する。
『ありがとう……。僕は、君たちのこと――、忘れないよ……? ぜったいに……!』
深海での、パールの去り際の言葉を思い出す。
パールの笑み。それは、いつだって心からのもののように感じられた。どこまでも邪悪で、だけどどこまでも純粋なような――。
自分が血を流すことも、誰かを殺すことも、すべての体験が、やつにとって喜びなのだ――。
世界を破滅させることもいとわず禁忌を犯し、徹底的に破壊し続けてきたパール。無差別に命を奪い、そうかと思えば相手を尊重するような姿勢で受け入れ、賞賛すら惜しまない。
圧倒的な無関心と、すべてを肯定する好奇心。矛盾しているが、それがやつなのだ――。
パールの背の、巨大な漆黒の四枚の翼。すべてを飲み込む、暗黒の怪物。改めて、キアランはパールを、戦慄を持って眺めていた。
キアランの後ろにいる花紺青の声で、キアランは我に返る。
「キアラン! キアランがアステールを投げたとき、僕も力を加えてた。なるべく深く刺さるようにね。でも、ここからアステールを抜き取り、回収するのは僕の力だけじゃ無理だ」
そうだ! アステールを、天風の剣を取り戻さなくては――!
「アステールを引き抜けるよう、パールの右腕に行くよ。やつに撃ち落とされないよう、シトリンたちの攻撃の邪魔にならないよう、運転荒くなると思うけど、キアラン、気を付けて。そして、ちゃんとアステールを引き抜いてね!」
「わかった……!」
シトリンたちの衝撃波の閃光と爆音が続く。
パールは、微笑んでいた。まるで、小さき者たちを愛おしむように。
花紺青の操る板が、パールの右腕近くへと速度を上げる――。
水音がする。きっと、川が流れているのだろう。
かすかな痛みを感じる。体が重い。
しかし、思ったほどでは、ないな。
意外だった。激痛を覚悟していた。
もしかしたら、時間が経っているかもしれない、そう思った。
どれほどの時間……? いったい、私はどれくらい眠っていたのだ……?
水音では時間が計れない。もどかしかった。体は――、なんとか動けそうな気がした。
空の窓は――、世界は、どうなっている……?
シルガーは、まぶたを開けた。
「白銀……。黒羽……」
シルガーの目に映ったのは、自分を覗き込む白銀と黒羽の顔だった。
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