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チ・春秋杯が恥をしるべきことについて

2024年7月6日

尋常じゃない日差しに肌を焼かれながら向かった法政大学市谷キャンパス。
そこでは不条理、不合理が渦巻く何とも陰鬱な大会が開催されていた。

なぜ私がここまで思うに至ったのか、今回はそれを綴ろうと思う。

前提整理

今回の春秋杯は以下の二部門で審査が行われた

1.学生審査
各大学から選出された学生審査員が説得力100点満点に基づいて採点を行い、その結果に対して影響力の均等化を行った後、合議にて順位を決定
2.聴衆審査
各大学から数名の聴衆審査員を選出し、上位三席までの結果を集計。事実上のボルダ制を採用し、1位5点、2位3点、3位1点の順で計算を行う。

私が今回怒髪天を貫く勢いで皆さんに提起したいのは、この審査方式の問題性である。これを見て『何の問題が?』と思われるだろう。この問題の厭らしいのは『一見して問題性を認識し難く』、直感的には理解しがたいところにある。

だからこそ、今回、わざわざNoteで皆さんにお伝えしているところである。
私が太字で強調したことを何となく頭に浮かべながら、以下に読み進めていったとき、きっと皆さんは理解するだろう。その隠された問題性に…
・・・

拙い文章で大変恐縮だが、どうぞお付き合い願いたい。

1.『各審査員の影響力を均等にする』としておきながら『合議』によって順位を変動させる。

まず扱いたいのは学生審査方式の方での問題である。

今回のこの学生審査部門でおかしな点は『影響力を均等にする』と偏差値的な処理をしておきながら、合議によって順位を変動させた(させうる)という点である。

なぜ合議によって順位を変動させることに問題があるのか。
それは簡単で合議の場では各個人が自由に発言を行え、その空間においては所謂説得力、弁舌力的意味での審査員ごとの差があるからである。合議を審査プロセスに入れたいのであれば、せめてその後に審査員ごとに分かれて採点をやり直す場を設けなければ、影響力を排除したとは言えないだろう。実際今回の大会では、数人の審査員による発言で順位が変動した聞き及んでいる。しかも、その詳しい議論の内容については全く秘匿されていて、知ることも叶わない。はっきり言って、適切な審査が行われていたのか甚だ疑問である。

いや、数値的な影響力は排除するけど、その他の影響力は勘案しないと仰るのであれば、それは一向に構わない。どうぞ、今後はそういう方針だとパンフレットに記載していただいて。

まぁ、いずれにしても、順位の変動云々、方針云々に関わらず、合議の議事録(合議前の素点含む)を公開してもらうのが筋ではなかろうか。実際東大さんはそうやって最低限議論の透明性を担保している。いや、合議は秘匿すると仰るのであれば(以下略)

2.ボルダルールの解説(有識者スキップ推奨)

次に聴衆審査の問題点に移るが、この聴衆審査ではボルダルールが採用されていた。パンフレットにはボルダとは書いてないが、運営をされている法政大学弁論部様側も審査員の皆様もボルダ、ボルダと呼んでいたので、ボルダルールの利点、概念に基づいて審査方式を設定しているのは公然の事実であろう。

問題を指摘するにあたっては、ボルダルールの何たるかを提示する必要がある。ボルダルールとは、全選択肢に1位5点2位4点…5位1点と点を配分し、その合計で結果を決める方式である。より端的に表すと、
投票者の選好の強弱を結果に反映させるもの
満場一致で無難な候補が選ばれるもの
である。

ここまで読んでもまだ分からないと思うので、例を用いて多数決と比較しながら見ていこう。

状況:4人の中から1人を選出する選挙に100人が投票したケース

多数決
A    B   C     D
30 26     20    24 

選出される候補:A
ここで問題となるのは、Aが過半数の支持を受けていないという事。
つまり多数決だと、ファンが一番多い候補者を選ぶことは出来ても、多数が認める候補者は必ずしも選出出来ないという事である。

ボルダ
A B D Cの順で投票した人が30名(Aを一位にした人たち)
B D C Aの順で投票した人が26名(Bを一位にした人たち)
C B D Aの順で投票した人が20名(Cを一位にした人たち)
D B C Aの順で投票した人が24名(Dを一位にした人たち)

これで計算してみると以下のようになる

  • A: 190点

  • B: 306点

  • C: 210点

  • D: 294点

選出される候補:B

これは、2位投票が最も多かった無難な候補であったBが選ばれたことを意味している。つまりこの点、多数決に比較して民意(より広範な意味での多数派意見)を反映できるのがボルダルールの特徴といえよう

(まだ分からない人はこのサイトを参考のことhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013334101000.html)

ではこれを踏まえて春秋杯で行われた方式はどのようなものであったのかを見ていこう。

3.春秋杯でのボルダルール

春秋杯では、
12人の出場者に対して、上位3名までを提出し、1位5点、2位3点、3位1点

・・・
ボルダルールは大前提として、候補者全体に対して点数を配分し、集計する必要がある。なぜかといえば、何位まで集計するかで大きく結果は変動する可能性があるし、それを正当化できる根拠は何もない(投票者の選好を正しく反映するという意味で不適当)のである。

しかも加えて言えば、このボルダルールはあくまで選好の結果を正しく反映するのが目的である為、5,3,1という重みづけを行った点数配分も不適当なのである。

また検証の結果、多数決、ボルダルールそれぞれで1位であっても、3位までしか集計しない方式の場合、2位に転落する可能性も十分にあり、さらに言えば今回の春秋杯の配転では両方式で3位だった者が1位に急上昇する

以上の理由から、今回の春秋杯においてはボルダールールの理念を採用していながら、その実全くその理念とは反した運営がなされていたのである。
いや、正しく選好の結果も反映できないけれど、何か意味があると仰るのであれば、どうぞそれを解説していただいて。(微妙な弁論が選出される方式ってことか?)一体全体何を理由にこの方式を採用したのか非常に気になるところである。

…また付け加えるのであれば、ボルダ方式と多数決の間に明確な優劣はない。ファンが多い候補か、無難な選択肢か、これは両者認められて良い物である筈なので、本来は両者別々の方式で表彰があっても良いだろう。…

以上のように指摘すると、『事前に指摘しなかったんだから文句を言うな』と反論されることがあるが、そもそも基本的に運営は一定程度正統性のある審査方式が取られる前提であって、事前に問題点には気づきずらい。私が今回なぜこの問題に気づいたかと言えば、審査員の皆様、法政の運営様が今回はボルダルールに則って審査した結果、早稲田は1位にならなかったと仰ったからである。そして私が直接、法政大学の皆様に問い合わせた結果、審査方式に誤りがあったとその場で認められていた。にもかかわらず、後日『事前に指摘しなかったんだから文句を言うな』という趣旨の文章が送付されてきたため、今回このNOTEを書くに至っている。

と、ここまで皆さんに今回春秋杯の審査方式における問題性を指摘したが、決して間違えて欲しくないのは私は彼らを責めているし、到底許す気もなければ糾弾されて然るべきだと思っているということである。確かに大会を開催をしてもらったことには一定のリスペクトはあるが、主催者とてこれは許してはおけない。ぜひこの一連の問題性を解決し、少しでも公正公平な大会を目指してもらいたいものである。


以上が本編。
ここまでお読みいただきありがとうございました。


ここからは補遺として、大会以前の問題点と学生審査そのものの問題性を指摘する。

補遺1.突然の事前審査と自大弁士二人を出場させたことの傲慢さ、無遠慮さ

今回の春秋杯では出場希望者多数につき事前審査を行ったらしいが、どうにもこの事前審査をするにあたって事前の告知や根回しが殆どなかったらしいのである。

大前提そもそも事前審査は反発を生みやすいものである。特定の大学に偏った審査員が出場可否を判断することに疑念を抱くのは当然であり、だからこそ前々からの告知根回しが必須である。

にも関わらず法政はそれを怠り、あまつさえ自大の弁士二人出場させるという恥知らずで厚顔無恥で無遠慮な事をやってのけた。これには正直な所、ある種の尊敬の念を抱いたものだ。どうぞそのまま我が道を行って欲しい。

補遺2.学生審査そのものの問題


つぎに扱いたいのは学生審査という審査方式そのものの問題性である。
学生審査とは読んで字のごとく、学生が学生を審査する方式であるが、ここで考えなければならないのは聴衆と審査員の違い、そして何をもって審査員を権威付けするかである。

通常の大会では審査員の多くは、社会の多方面で活躍され、その経験で培われた学生弁論界には無い視点の提供という意味合いで権威付けされるが、この学生審査員たちは一体どんな意味合いでオーソライズされるのか。

入賞歴?その場の多くの聴衆が何かしらの賞を取っているし、単純に受 賞歴の有無で弁論を図れないのは皆さんよく理解されているところだろう。

では弁論歴?それも変な話で、確かに審査員は高学年な事が多いが、それはその場の聴衆より1.2年ほどの差であるし、聴衆には彼らより弁論歴が長い人間で大勢いる。歴の長短で語るのはナンセンスであろう。

そうなると何か変わった経歴がある?もしかしたらあるのかもしれないが、その場にいる多くの聴衆にだって様々なバックグラウンドがあり、審査員の個性はあくまでそのダイバーシティの1つに過ぎないだろう。

つまり、ここまでをまとめると、聴衆と学生審査員に性質的な違いはないという話である。そんな存在を審査員として権威付け、選考への強大な影響力、大会中の優先発言権を与える意味が、私には全く理解できない。

こう主張すると『審査員として指名するのはちゃんと弁論を聞く人をつくるため』と返されることもあるが、これは裏返すと審査員に指名されていない聴衆はちゃんと聞いていないことになり、野次や質疑を飛ばしていいのかという話まで拡張されうる。そこまでいかなくても、『全ての弁論を聞く人を作り出したいんだ』としたいのであれば、別に聴衆審査にして、投票の前提条件を全弁士を聞くことにすればいいだけなのである。

私の矮小で鈍い頭では、この審査方式の適当性を理解できなかったので、もし皆さんの中で「いや、こんな意義があるんだよ馬鹿者」と思う方がいるのであれば、ぜひご教示いただきたい。

以上


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