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【家を書いて、小説を建てる】#03 三つの足

我が家のスツールは三本足。
スツールがちゃんと立つために足は一つでもダメ、二つでもダメ。三つあって初めて安心して腰掛けることができる。
その安定構造に実際にお尻を座面につけた時に得られるあの体感的なものを、私は無意識のうちにいろんな場面で転用していると思われる。

例えば、勤め先で何かのプレゼンする際、プレゼンボードには必ず三つのテーマを据えて提案してしまう。
例えば、居酒屋やランチの店なんかの案を提示する時も大体は三つ。
二つでも四つでもなく、大抵はA、B、Cの三つを用意して、どれが良いかと尋ねる。
これは何も私の感覚的なものではない。光の三原色もしかり、三種の神器しかり、あらゆる日本の三大〇〇もしかり。皆三つにすっかり身を委ねてしまう。
そして、三つへの強い信頼については建築物についても同様に語られる。
特に大きな規模の建築においてよく言われるのが、建築ー構造ー設備の三つの話だ。(ここでいう「建築」とは主に意匠や計画を指す)

建築ー構造ー設備

建築ー構造ー設備、そのどれが抜けても成り立たない。
そのためこれらは、建築物を成り立たせるために必要な三つの要素として考られることが多い。
そしてこのことはよく人体に置き換えられる。その例えが確かにわかりやすい。
建築ー構造ー設備とは、人体でいう肉体ー骨(骨格)ー内臓・血管と言われる。
建築(意匠や計画など)は肉体としての美や機能を、構造は骨として肉体を成立させるための強度を、設備(空調や電気など)は内臓や血管として身体を問題なく動かすための維持を果たす。
人体のそれらと同じように、建築の三大要素もまた一つでも欠けるとたちまち不具合をきたしてしまう。

ここまでくると想像がつくとは思うが、ここから考えたいのは小説における三つの足、建築ー構造ー設備が小説の一体何に当たるか、という興味本位の思考。それは小説一般的にというよりも、私個人の読んだり書いたりするときの感覚や考えとして。
私はおそらく無意識のうちに小説においても三つの足で成り立たせようとしている。必ずしも三つから成り立たないというのは建築物同様に言うまでもない。しかし、どうしても「三つ」という形態を成そうとする私の頭の中に、少々お付き合い頂きたい。

意匠と、

一つ目の「建築」。その中でも「意匠」について。
人がある建築物の外観や内観の意匠を目にした時、感覚的に感じるものが確かにある。意匠というものは見るものの感性に直接的に響いてくる。

例えば、隈研吾の作品を前にした時。あの複雑かつ繊細な木の架構を目にし、設計者をまだ知らずとも、これは隈さんの作品だな、と直感的に思えることがある。
そこにはおそらく、それまでの間で隈研吾作品をいくつも目にし、その中に見られた共通の手法や扱う材料、そうした隈作品特有のエッセンスを学んでおり、目の前にした意匠やデザインにその一部を見る。そしてそこから得られる体感、主には美しさに集約される息を呑む瞬間が、隈さんの作品だ、という直感を呼ぶのだろう。
そうした過程に含まれる、見たものに与える「彼特有の」の感覚が、文体から得られる感覚そのものと言いたくなる。
おそらく作者を伏せてもその作品の書き手を予想できる作品がいくつもある。そしてその特有の文体というものが建築の意匠と同様に、読む者の内臓を直接えぐるかのように、もしくは読む者を柔らかな光で包み込むのかように、もしくは読む者の歴史をひっくり返すかのように、揺さぶり、壊し、再構築する。
そうした特有の意匠/文体が、その作品からしか得られない体験というものを、より強く引き出すのかもしれない。
意匠と文体というのはともに作品の美や芸術的な価値に寄与し、建築も文学も、実用性や娯楽性を内包していながら、芸術的な評価の対象となるという共通点の大きな部分をこれらが似たようにして担っているのではないかと思う。

ここまで掘ってみて、この先に見える意匠と文体の接点や共鳴が、私にはとても興味深く思える。意匠における材料の扱いや質感、形状の反復によるリズムや光の入れ方など、文体に変換した時にこれまで見えなかったような文体への理解もさらに深まる予感がある。が、さらに掘り進めるのはまた今度とします。
さらに書き起こしたいテーマが垣間見えたところで、次に。

「建築」におけるもう一方は「計画」か。
「建築計画」といえば、ゾーニングや動線といった要素が浮き上がる。
建築学科の演習で初めて設計課題に取り組んだ際、教授にエスキースチェックを受ける中で先生が先の丸い鉛筆のようなペンのようなものを手にして、紙の上でぐるぐると丸をいくつも描き始めたのを今でもはっきりと覚えている。ここが表でこっちが裏。人の集うスペースで、こっちは人が動くエリア、などと言いながらペンの先でぐるぐる丸を足してゆく。
それが私が初めて目にしたゾーニングだった。
そのぐるぐるとしたいくつもの丸が、今は私の小説ノートに描かれていることに最近気がついた。まるで空間のゾーニングのようにも見えるそれは、私の小説を書く過程だ。
特に初稿と呼ばれるようなものが出来上がると、書かれたものをシーンや感情や時間や語り手など、なんらかの要素でブロック化し、それぞれのボリュームや形や色を持たせて書かれた順番に並べるてみることが多い。すると、空間のゾーニングとまではいかないが、小説の部位が浮き立ってきて、それらの相互の繋がりや不具合が少しだけわかりやすくなる。それらを揉みほぐすように私は構成を整えたり考え直したりすることが多い。
そしてブロックたちを読み手は縫うようにして前から順に辿ってゆき、それはさすがに空間における人の動線にそっくりだった。
動線というと、私が心動かされた一つの建築、ルイスカーンの設計したバングラデシュ国会議事堂にもやはり展開があった。
まずは外観に圧倒され、一見閉鎖的なそれに入ると、とても暗く静かで狭い空間を抜けて、その圧迫が解き放たれるように上からの日が差し込む明るい場、階段を登り、風が流れ、また内部に入ると木漏れ日のような具合で外光が所々に差し込む。
有名な建築家の特に美術館のように一連の動線を持つ建築空間では、そのように展開を作り来館者を魅了する。
ゾーニングの相互関係、それらを動線で繋いだ時に感じられる、読み手の心の動きにとてもよく似た、建築を訪れ中を歩いた人の感情の振れ。
訪れると最も心に残る印象だからこそ、小説を書く時には見逃すことができないはずだろう。

構造と、

小説における「構造」というと、つまり小説としてそこに組み上げられている躯体を指すのだと思うけども、それは一体何だろうか…。
書きながら考えているけども、これもまた難しい。悩みながら文章を書いていても、全然思い浮かばなかった。
一週間ほど寝かせていた。この文章を折り畳んで尻に敷いていた。そして風呂に入り、湯船に浸かった。
不意に浮かんだ言葉が「軸」だった。建物の造り方として時に軸組と呼んだりするけども、この「軸」という言葉が建築において重要であることは言うまでもない。小説にもまたそれがあるように思えた。
全ての小説にというわけではないけども、好きな小説もしくは好きな作家には「軸」が匂う時が多い。
それは小川洋子さんの作品の中に見える「密やかさ」であったり、乗代さんの作品の中に垣間見える「書き記す」ことへの姿勢であったり。
共通してみられるテーマというと少しズレるようだけども、その人や作品の中にある「軸」。植物で言う幹だろうか。
その芽吹き、軸が地面からひょっこり顔を出す瞬間を、作品を書くならば、そして読むならば決して見逃してはいけないように思う。
書くこと自体の意味、というと大袈裟かもしれないけども。「軸」が書かれるものに据えられると、作品は風雨や揺れの外力をものともせず、強く組み上がって成り立つのかもしれない。
そして建築同様に軸は一つではなく、その作品の中に、もしくはその作者の中にいくつも立っている。その配置や太さのバランスがその作品の力の保ち方や逃し方を作っていると思うと、少しこれまで見ていなかった小説の何かが見えたような気がする。
自分のそれは一体なんだろうか。いろんな人の作品を読み、読んでくれた人のコメントや書き手たちと話す中で、ほんの少しだけ芽が土から出始めたのかもしれないが、どうだろう......。

設備と、

建築をしない人にとって「設備ってなに?」となるかもしれない。それくらいに建築設備は裏方で日の目を浴びにくい。
建築業界の中にいてもこの「設備」をあまり重要視しない人も多く、ひょっとすると三つの要素の一つに挙げる人は稀かもしれない。
私が設備を無視できない理由は多々あるのだけども、一つはこれが人の身体の内臓・血管であり、つまり生命線だからだ。
しばしば、設備は建築において邪魔者扱いされてしまう。誰もが美しく整った天井や壁を作りたいのだけども、そこには大きな天カセの空調機がついたり、壁掛けのエアコンや換気口がついたりする。メンテのための点検口がでかでかと設けられたりして、すっきりとしたイメージを浮かべている設計者からすれば邪魔者でしかないのかもしれない。
だけどもそれらが無ければ、そこには誰も居続けられない。夏の蒸し暑い時でもさらりとした空気を保っているのはデカデカとしたエアコンであり、濃くなってゆく吐息の二酸化炭素に窒息しないまま喋っていられるのは換気口であったりファンのおかげである。
内臓や血管と同じように、建築物の内部を問題なく過ごせるようにしているのは、設備の力に他ならない。
この「問題なく」成り立たせるというのが、つまるところ「設備」の大きな目的であり役割だ。

建築設備と呼ばれるものにもいくつもの分類がある。
空調換気設備、電気設備、弱電設備、防災設備、衛生設備、……。これらの図面はそれほど大きくない建物であっても100枚を超える。
その図面の内容は似たようなもので、設備機器の仕様を定めるものと、配管や配線のルートを示すものだ。
大きな建物になると設備機器は大抵の場合、心臓となるコア部分に設けられる機械室の中に入り、そこで空調機や熱源、受変電機器は震えながら稼働する。
そこで生成される熱や空気、電力や信号は、電線・配管・ダクトという毛細血管のように建築物の隅々にまで張り巡らせれた経路を通って空間へと届く。そうして建物は問題なく使われる。
この「問題ない」とはどういうことか?
建築設備において問題ないということは、つまり人が快適にいられるということ。快適性に寄与する、温度・湿度・気流・放射・照度・音、それらをある範囲の値の中に収め続けるということ。
その「問題ない」を、目まぐるしく変わる外界気象の中で保ち続けるというのは、その全てが目に見えないからこそ、そう簡単なことではないのだ!(仕事柄熱くなってしまう部分ですみません。しかし照度は目に見えますね)

その見えない複雑さ、そこに問題なく成立させること。そこにこそ小説の書かれ方が深く関係しているように私には感じられる。
空間のそこに居続けられる・居続けられないのと同じように、小説には読んでいられる・読んでいられないというのがあると思う。
居続けられる空間に施される苦労、吹き出し口から暖かで乾きすぎない空気がそろりと出てその場の温湿度を保ち続けるように、光源がこちらを向かず壁を照らし間接的に空間全体を照らすように、読み手もまたその長い文章を読み続けられるようにされているのではないか。
それは大きな展開や謎のようにわかりやすいものばかりでない、見えない位置にあるエアコンやスプリンクラーのようにひっそりとした計画で、読み手をまだその文章の中に居続けさせる。それこそが本物の設計者であり、作家か。

読み続けられる秘訣を説明できるほどのところに自分はまだ達していない。
しかし、読めてしまうなあ、と思う作品にはいくつか出会う。松永K三蔵さんの『カメオ』、小川洋子さんの『ミーナの行進』、あげ出すとキリがないが。
同じように傑作と呼ばれている作品であるずなのに、どうしても読めないというものも、私には正直ある。
それらに共通するものはよくわからない。
しかし一つ感じるのは作品の上で続いてゆく文章と読み手自身の関係性だと思う。
それは屋内にある環境とそこに立っている人の関係性と重ねることは無謀だろうか。
例えば、ある環境下においても人によって暑い寒いと意見は変わり、同じ人でもただ立っている時と走った後でも着ている服の分厚さによっても感覚は変わる。そのようにして、ある文章や作品全体においても単にそこにいられるかどうかはその人によって変わるし、同じ人であっても年齢や体調や置かれた状況によって変わるだろう。
作品の意見は人それぞれれというところに収束させるつもりはない。その文章の上にずっと立っていられるか、身を任せて流されてゆけるか、ということだとう思う。それは読んだ後の感想とは別の、今読んでいるそれが「問題ないか」ということのように思える。それを果たすために建築の設備のように、肉体の毛細血管のように隅々にまで、小説に張り巡らされているのは何だ。一体何なのだろうか。

私の感じる三つの足は概ねそんなふうであるが、やはり書き始めると一つひとつがその奥深くにさらに何かがあるような気配がするし、それぞれの関係性や相互に及ぼす影響なども全然面白そうで、書き終えられない。
ので、ここで今回は終わり。
また次回以降のどこかで触れることにしましょう。

#03 三つの足

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