「部屋と釈尊と私」
昔あった曲の題名みたいなものから始まるこのお話。
私は日本の仏教が嫌いでなりません。
住職等と呼ばれ、絢爛豪華な仏像を前に立派な袈裟を身に纏い経を読み、誰かが死ねばまた経を読み、戒名にはランクに応じた金を要求し、盆や彼岸には墓守料を取りと、上げればきりがありません。
また昨今の坊主はYouTubeで動画を上げ、尚且つCM迄付けている始末。
もう煩悩の塊じゃないかと。
お前さん方は修行者だろと申し上げたくなる気持ちになります。
釈迦は死体から剥ぎ取った衣を縫い合わせ、それを身に付け、托鉢で日々の糧を得て、時には自らを痛め付ける苦行を行い、その無意味さを悟り、菩提樹の下で瞑想をし成道し覚者と成られたと言われております。
そしてそのまま入滅しようとしたそうですが、梵天(ブラフマー)が現れ、悟りで得た智慧を皆々に説かれよと言われ、悩んだ末、説法を説く道を歩まれました。
私なりの推測ですが、悟りとは言語を超越した所に有る境地なのに、それを言語化するのは簡単な事ではないかと思います。
(釈迦が悩んだのもそれで合点がいきます)
と、話が逸れましたが。仏教の開祖である釈迦は、現代で言う超ミニマリストなのです。
諺にある、起きて半畳寝て一畳を地で行く人物だったのです。
何処でどう間違えば今の日本の仏教になるのか甚だ疑問なのであります。
いくらYouTubeで説法しようが、それは綺麗事にしか聞こえないし、第一説得力がありません。
私が月一で通っている病院が新宿にあるのですが、道中にいつも同じ所で蹲っている、私より若いホームレスの方を見掛けます。
コロナの影響で職を失ったと確か書いてあった気がします。
私が出来る事と言えば、少額のお金をあげるか、食べ物を上げる位しか出来ないのが現状です。
立派なお堂に広い家を持つ坊さんと、職を失い、もしかしたら帰る家さえない若者。
なんと皮肉な事かと。
彼岸に弟等の家族と久しぶりに墓参りに行きましたが、お願いがあるーのよー的に弟へ、私が先に死んだら絶対に墓に入れないでくれと頼みました。
出来る事なら、死体をそのまま海か山に捨て、動物達の糧になればそれ幸いですが、それだと法的に問題があるので、せめて骨だけは細かく砕いて海か山にまいて欲しいものです。
その時はフェレット達の遺骨も一緒に。
釈尊だけに、釈然としないお話でした。
お後が宜しい様で。