『〈私〉を取り戻す哲学』―現象学の強み―

岩内章太郎著、講談社現代新書(2023年)から出版。


要約(本書の問いの設定)

本書の表紙に書かれている「なぜスマホを見続けてしまうのか」という問いに対する答えは、「人は退屈しているから」である。

人類の発展は衣食住の安定の代わりに、己の欲望の矛先を失ってしまった。刺激がなく手持ち無沙汰になっている。それは、宮台真司のいう「終わらない日常」と同じである。

人は退屈なままではいられないので、スマホに手を伸ばす。ただ、そこに目的や意味はなく、だらだらと情報を摂取しているだけである。自分の欲望がない、あるいは満たされているにも関わらず情報を滝のように浴びる。その状態を著者は「退屈している食傷精神」(25頁)だと表現する。

その状態は、〈私〉の不在を引き起こす。常にインターネットにつながれ、アルゴリズムによる「おススメ」を消費しているところに〈私〉は存在しない。

著者はそんな〈私〉を取り戻すために、新デカルト主義を掲げる。ちなみに、この特殊な〈〉付きの〈私〉とはそれぞれ自身にとっての〈私〉であり、このNoteの書き手、及び著者を指すのではない。

要約(本題)

ここまでが著者の問題意識である。ここからが本書の中心であり、簡単に要約する。

まず著者は、デカルトの「我思う、故に我あり」の検討に入る。デカルトは、全ての物事は疑いうるが、私が疑っているということを疑うことはできないとし、先の結論に至ったのだった。そして、上記の考えを頼りに世の中のあらゆることの本質を見極めようとしたのだった。そうして、デカルトは〈私〉を定めることに成功した。

これには様々な批判が起きたが、それでも著者はデカルトの有効性を認める。なぜか。それは、全ての認識は私の意識に浮かび上がってくるものであるからだと述べる。客観的な認識などなく、認識は文脈に依存する。例えば、リンゴはおなかがすいている人にはおいしそうにみえるし、アレルギーの人には嫌なものに見える。そこから、人の認識とはものごとの一面を見るだけだと、著者は述べる。リンゴは間違いなく私の心に映されているが、リンゴのすべてを捉えることはできない。この「絶対性と有限性」(74頁)が、〈私〉を取り戻すために必要である。

完璧な認識があるという立場を、客観主義という。例えば、幸せは客観的に定義できると彼らは言う。逆に、幸せなんて人それぞれだよねという立場を相対主義という。さて、物事の認識は文脈に従うのだった。だとすれば、新デカルト主義は相対主義に近そうである。しかし、著者は新デカルト主義が単に相対主義に陥るのではなく、関主観的な認識を目指すものだと述べる。

それは、文脈に依存する認識を〈私〉の意識にあらわれるものとして捉えることである。著者はフッサールを援用しながら、デカルトを現象学的に解釈する。対象はどのような物事か?から、対象は私の意識にどう現れているかへの変換である。そして、さまざまな〈私〉の認識における本質を反省することで、普遍的な認識を目指そうとするのである。

「それぞれの対象は〈私〉にとって現れているにすぎない。しかし、現象学は、そこから〈私〉と他者の意識体験の同型性を探ることで、対象認識の相対性を突破し、関主観的な普遍性を創出する場面に出ようとするのである」(122頁)。

〈私〉の意識に目を向けることで、〈私〉を取り戻す。デカルトの現象学的還元が著者の主題である。

そして著者は、実践編として、SNSでの投稿に反応する学生や、陰謀論との関係などを絡めることで新デカルト主義の意義を主張する。それは是非読んで確認してほしい。また、ここではエポケーや、東浩紀の「動物化」、パッケージ化された善などは省いた。それらも面白い。

少しの考察(現象学の強み?)

ここからは、少しだけ考察する。本書には様々な学びがあったが、一番印象的なのは、現象学の強みが腑に落ちたことである。

突然だが、幸せとは何だろうか。幸せな人生とは。もちろん、様々な答えがあり得るだろう。色んな人に聞いてみたいのだが、それよりもまず、この問い、この問いに答えようとするとき、引っ掛かりを感じる。それは、幸せの必要条件ないし十分条件を答えようとしてしまわないかという違和感である。お金があること、労働に縛られていないこと、結婚していることなどなど、どれも、幸せの条件の提示である。

これは恐らく幸せとは何か?という問いに限らないだろう。人生の意味とは?や、美とはなにか?といった問いも同じではないのだろうか。いずれにせよ、その問いを満たす「条件」を答えるというのは、なにか固定化された見方があるからなのだろう。しかし、そういった問いを現象学的に捉えることは、そこからの離脱を図ることができる。

対象を現象学的に捉えるとは、対象が何かではなく、対象が私の意識にどのように現れるかを問うことであった。幸せを現象学的に観察するとは、「私が幸せを感じるとき、どのような状態になっているのか?」を考えることである。

「幸せについて考えているとき、意識体験に立ち上がっているのは、単なる欲望の充足や不足ではない。そこには、〈私〉の性に対する納得や期待や幻滅があるのだ。言い換えれば、幸せって何だろう、とつい考えてしまうとき、私たちは、後戻りのできない一回限りの生において、どのような欲望を大切にしていきたいのか、ということをも考えているのである。つまり、幸せを感受したり、予感したり、懐かしんだりすることで、〈私〉は自らの欲望や生の状態を見つめ直している、ということだ。こうやって生きていてよいのだろうか、と、そう自分に問いかけているのである」(138頁―139頁)。

著者の文章から力強さを感じることができるだろう。現象学とは、抽象的な概念や決着の付きにくい問題に対して、〈私〉の視点からもう一度考え直そうとする学問である。またそれは、単に〈私〉の独りよがりな論を展開するのではなく、他者との反省を通して普遍的な価値を創造しようとする営みでもある。

最後に、本書では〈私〉の意識体験を通して、どのようにして関主観的な普遍的な認識へと進んでいくのか、という問題が手薄であった。それぞれの〈私〉を比べ、その意識体験の「本質条件と本質構造」(124頁)とは。何をもって本質条件と本質構造とするのか。そういったことに思いをはせながら、これからも本書と共に考えていきたい。











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